命令が救った橋
ヘニングの親指が、東石橋の亀裂へ半分まで入った。
「水が来れば、脚から持っていかれる」
橋上の人々には、まだ危険が見えていない。王太子を見ようと東側へ顔を向け、露店の呼び声も続いていた。アレクシスが欄干の緊急札へ領印を置く。リディアはその許可を受け、銀筆で橋脚の測定線だけを開いた。
赤い筋が、東詰から橋の中央まで走る。橋を支える力は出ない。ひびの伸びる場所が、石面へ映るだけだった。
「全員、橋から離れてください!」
ガルドが叫ぶ。最初の列は動いたが、東の通りは見物人で塞がっている。西側は布商の荷庭へ続く木戸が閉まり、その先の路地は三人並べば肩が触れる幅しかなかった。
トーマが配車机から木札を抱えてきた。左手で橋上の露店札を弾く。
「東だけなら、最後尾が残ります。西の荷庭を開ければ半分にできます」
「鍵は」
「布商が持っています。商談席です」
商談席は広場の反対側にある。ガルドが東へ出せる者を動かしている間に、市場代表を呼び、西門の開放と荷の切り離しを確認する。祭の手順ではそうなっていた。無断で門を壊せば布商の倉へ人が入り、橋に置いた商品を捨てれば、誰が補償するか決まらない。
「走者を二人。布商と市場代表へ」
リディアが命じた。ユリウスは測定線を見た。
「戻るまで何分だ」
「往復で十分ほどです」
「待てない。西門を開けろ」
「鍵の持ち主がいません」
「破れ」
ユリウスの一言で、近衛長が四人を西へ走らせた。ガルドはアレクシスを見た。アレクシスが一度頷くと、辺境騎士も続く。別々に立っていた二つの隊が、同じ方向へ動いた。
リディアは呼び戻しかけた走者へ、今度は橋上の店名を拾うよう命じた。持ち主を待つ時間はなくても、誰の物を切ったかは残せる。測定線の保持をヘニングと水番へ渡し、自分も西路地へ走った。
「子どもと歩けない者を西へ。ほかは東へ流せ」
「西路地は曲がりがきつい。手押し車を入れたら詰まります」
トーマが返す。木札の角が、左の掌へ食い込んでいた。
「車は置け。人だけ通す」
木戸へ槌が入った。蝶番が二度軋み、三度目で板が内側へ倒れる。驚いた布商の奉公人が倉から飛び出したが、近衛長は人路だけを縄で区切り、商品棚へ兵を立たせた。
「倉の中へ入るな! 石壁沿いに抜けろ!」
リディアは倒れた門板を壁へ寄せ、裾を踏みそうな子の手を取った。王太子の命令へ反対していた時間を惜しむことはできる。いま命令が出た後まで、自分の案を守る理由はなかった。
ガルドは橋の中央へ入り、露店の綱を短剣で切った。
「荷を置いて歩け! 名と店は後で取る!」
「今日の売上全部だよ!」
粉袋を積んだ手押し車へ、マルタが両腕を回していた。水車停止中に買った粉と、今日挽いた分が一緒に載っている。
「袋は数えます。先に出てください」
リディアが腕を取った。マルタはそれを振り払った。
「数えた紙で、また粉を買えるのかい」
「領が先に払います」
自分の審査さえ終わっていない。約束できるのは、事故補償と同じく公爵家が仮払いするところまでだった。
マルタは手押し車から一袋だけ抱えた。残りの縄を自分で切る。固い麻が掌を裂き、粉袋が橋板へ転がった。
「これ以上は持てない。行くよ」
西の木戸へ向かう。セレスティアが療養車から出て、足の遅い老女へ肩を貸した。近衛が止めようとしたが、彼女は聞かなかった。
橋の下で、最初の濁流が脚へ当たった。測定線の赤が一段濃くなる。
「東、あと二十七!」
トーマは人の顔ではなく、橋へ入った祭札と出た数を合わせていた。途中で札を持たない見物人がいると分かり、声を上げる。
「数は目安です。橋を見て!」
ユリウスは東詰に立ち、近衛へ一つずつ命じた。欄干沿いに人路を作る。戻ろうとする者を止める。抱えた荷を下ろさせる。説明を繰り返さず、同じ命令を伝令に渡していく。
露店主の一人が、代金箱を取りに走った。ユリウスが自分で外套の襟を掴み、東側へ押し出す。
「名を言え」
「ハンナ・ロウ! 香辛料売り!」
王宮書記がその場で書いた。ハンナは泣きながら、空の手で橋を下りた。
走者が店名を叫び、リディアは紙を裂いて一人ずつ控えを渡した。品数まで数える余裕はない。香辛料、粉、革紐、陶器。持ち主が後で申告できる入口だけを、橋があるうちに作った。
最後まで残ったのは、手押し車の陰で動けなくなった少年だった。セレスティアが西側から見つけ、ガルドが抱えて走る。少年の靴が門を越えた時、ヘニングが橋面へ置いた白墨の印が割れた。
石の腹から、低い音が上がった。
東側の橋脚が水中へ崩れ、橋面が斜めに折れる。残された露店の板、十二軒分の商品、二台の手押し車が一度に滑った。粉袋が水へ落ち、白い濁りを作る。油を詰めた陶瓶は兵が先に外していたため、割れずに岸へ残った。
橋の両岸に人はいた。橋の上には、もう誰もいなかった。
橋の崩れる音が消えると、マルタは壊れた木戸の脇へ座り込み、血の滲む掌で流れていく粉を数えた。香辛料売りのハンナは王宮書記の袖を掴み、自分の名が書かれた行を読ませている。
トーマは十二枚の露店札と二枚の手押し車札を地面へ並べた。荷馬車を北回りへ出していたため、橋上に馬はいなかった。入場札のない見物人は数え切れなかったが、両岸をガルドと近衛が見直し、取り残された者がいないことを確かめる。救護所へ運ばれたのは、転んで膝を打った者と、縄で掌を切ったマルタだった。死者の欄は空いたまま閉じられた。
王宮書記は、午後に広げるはずだった王家案の巻紙を閉じ、日付を翌朝へ直した。祭はそこで中止になった。橋を失った者の受付机は、暗くなっても片づけられなかった。
「私が退避を命じた」
ユリウスは書記へ言った。申請者の欄に、まず自分の名を示した。
「門と橋上の荷は、王家負担として申請する」
「申請の決裁まで、店は待てません」
リディアが答えた。アレクシスは濡れた橋脚を見たまま言った。
「領が仮に払う。王家と争うのは後だ」
十二軒と二台の荷が失われ、布商の木戸も壊れた。祭は途中で終わり、東石橋は架け替えが要る。リディアは救われた人数と同じ紙へ、失われた物を書き始めた。
ユリウスの長靴には、橋の泥と粉が張りついていた。
「補償を作るのは、あなたの方が早い」
彼は、濁流の中へ消えた橋を見た。
「だが、速さを捨てた制度は、次は人を殺す」




