王太子、泥を踏む
王太子の馬車を止めた男は、翌朝も謝りに来なかった。
ユリウスが宿舎を出ると、城門脇の配車机にはすでに荷札が積まれていた。トーマという若者は、右手の指が二本足りない。左手で王家の金札を裏返し、北回りの列へ置く。
「本日も、箱馬車は広場へ入れません。油樽の搬出が先です」
「私の滞在で、祭の予定が変わったのではないか」
「人は増えました。道幅は増えていません」
近衛長が声を荒らげる前に、ユリウスは歩くと言った。王都であれば、王太子の通行路から先に荷が消える。ここでは三台の油樽が石道を塞ぎ、昨夜の雨が轍へ溜まっていた。
最初の一歩で、長靴が踝まで泥へ沈んだ。
広場の二つの灯は、朝の光の中でも淡く点いている。祭役が夜通し保たれた流量を測り、灯の色とは別の欄へ書いていた。王家へ戻す、と宣言した後も、誰も作業を止めていない。
リディアは薬草の荷改め所にいた。湿って返された一束を、エリオが南行きの車へ積み直している。
「使える荷を一つの印で受け入れ、王家の倉へ回せば、返送の手間は減る」
ユリウスがそう言った。エリオは傷んだ葉を一枚つまんだ。
「これを王家の倉へ入れてくださるなら、私は助かります」
「使えないのか」
「同じ箱の八束は使える。これは隣まで黴びさせる。商会印で一括にすれば、悪い方が良くなるわけじゃない」
返事をしたのはリディアでなかった。ユリウスは薬草を指から払うエリオと、監督者の隣で受領量を直すミナを見た。
「王都で流行病が出て、この八束が必要になった場合は」
「契約した治癒倉庫へ納めます」
エリオは受領済みの八束へ手を置いた。ユリウスへ向き直る。
「王家の命令でも?」
「代金を払った買い手が譲るなら。私が勝手に向きを変えれば、次は誰も前金を出さない」
ユリウスの背後で、王宮書記が紙を繰った。地方ごとに同じことを言われれば、王都の治癒院へ薬を集めるまで交渉が要る。病が一日待つとは限らない。
祖父の時代、領主たちは水門と倉を自領印で閉じ、隣領の兵糧を止めた。内戦後、王家が印を集めたのは、王族の飾りにするためだけではない。ユリウスが幼いころから読まされた死者数は、王家の一行命令が届かなかった月に増えていた。
「このやり方が各地へ広がれば、同じ薬に十の受領規則ができる」
「同じ王家印で、傷んだ束まで通したこともあります」
リディアは不適合札を閉じた。赤い返送印が、紙の内側へ消えた。
「だから王家をなくせと言っているのではありません。ここで誰が使う荷かを、到着後に王都が書き替えないでください」
「王都の患者も、この王国の民だ」
「南井戸の患者もです」
アレクシスが荷改め所へ来た。王家の護衛がいる前でも、軍道の黒い筒は持っていない。
「全国で同じ受領項目を使うことには反対しない。王家が荷の向きと、地方の警備路まで同じ印で変えることには反対する」
「非常時に、地方の返事を待って薬を失えば誰が負う」
「命じた者だ。今までは、待たせた王都も名を書かなかった」
アレクシスの兄が援軍確認を待つ間に死んだことを、ユリウスも知っている。
リディアがユリウスへ向き直る。王宮書記の筆先は、紙の上で止まったままだった。
「私の技術照会は、お読みになりましたか」
「読んだ」
患者名を含む添付を、治癒院、神官局、王宮書記局のどこが出すかで止まった。
「情報を待っていたら遅い。あなたが戻れば、当日中に見られるよう命じるつもりだった」
「私は戻らず、情報も来ませんでした」
「そうなった」
召還を拒まれたあと、情報だけを送る経路は用意していなかった。
「今日の午後、公開の場で話す」
ユリウスは王宮書記へ告げた。命令を待つ筆が、紙の上に浮いている。
「三十七件を一時的に戻す案と、王家が必要とする権限を、別に示す。ヴァルハルトの運用が有効だったことも書け」
書記の筆が止まった。今度は、ユリウスの顔を見てから問う。
「反逆の疑いについては」
「有効に働く手順を、見ずに反逆とは書けない」
療養車を通り過ぎる時、窓辺の女が右脚を両手で持ち上げていた。イルマ・ベック。窓枠の移送札には、本人申請・辺境再検査、同行者一名、とあった。車列簿の承認欄にはユリウスの名がある。聖女の治療成果として壇上へ上げる別案には、却下印だけが残っていた。
召還状の写しには、患者名の欄が白いまま残っていた。
午後、市の見物人は昨日より増えた。王太子が泥道を歩いたという話まで広まり、広場から東石橋へ人の列が延びている。荷馬車はトーマの表どおり北へ回されていたが、橋の両側には露店の手押し車と、ユリウスを一目見ようとする者が残った。
橋口の札には、立ち止まり禁止とある。けれど帰り客が増えると、手押し車を欄干へ寄せ、その場で残り物を売る店が出た。祭番が動かそうとしても、客の輪が先にできる。十二の露店札が、通行札の列へ混じっていた。
近衛が道を空けようとすると、ユリウスは手で止めた。群衆を押せば、狭い橋へさらに詰まる。
東石橋の手前で、白石の石工ヘニングがしゃがみ込んだ。昨日まで祭の灯枠を組んでいた男だ。橋脚へ耳をつけ、指で目地を掻く。
乾いた石粉が、爪の下へ落ちた。
「橋を空けろ」
ヘニングは立ち上がった。今度は王太子にも頭を下げなかった。
「東の脚が割れてる」
ユリウスは欄干から身を乗り出した。水面のすぐ上で、石の継ぎ目が黒く開いている。橋上には、子を肩へ載せた父親、商品を抱える露店主、祭帰りの老人がいた。
遠くで、製粉水路の鐘が鳴った。間もなく夕方の放水が来る。
ヘニングは黒い亀裂へ親指を当てた。
「四半刻もない」




