一文字の間違い
雪解けの濁流が石門へ届くまで、あと一刻。リディアは西の点検班を待てなかった。
夜明け前、南井戸の北西にある葦地では、白石取入口から来る水が平常の目盛りを二つ越えていた。南井戸へ続く管は低く唸り、泥を含んだ泡が継ぎ目から噴いている。このままなら、先月替えた導水石ではなく、その下の古い管が持たない。
上流の取入口では、堰板をすでに一段下げてあった。もう一段絞れば、行き場を失う水が白石の家沿いの土手へ回る。南井戸の管だけを軽くするには、古い逃がし道が使えるなら、その方が損害は小さい。
葦の奥で見つかった石門には、木札と同じ二つの切り欠きがあった。錆びた横棒を二人で持ち上げれば、板戸を四分の一だけ開けられる。
原物の木札は濡らさないよう城へ残し、ニナの擦り写しだけを作業票へ綴じてきた。そこでは最初の字が明瞭な雨に見える。リディアは二つの切り欠きと読みを照合し、対象未確定だった欄へ、季節の逃がし門・仮、と書いた。その一字を原物で確かめ直さないまま、空欄だった起動欄へ進んだ。
「製粉場からの合図は」
「まだです」
白石の水番が、谷の向こうを見た。西の点検班は夜明けの斜面で荷車の車輪を泥へ取られ、到着まで半刻ほどかかるという。昨日、リディア自身が試験条件へ、製粉枝水の流量を同時に測る、と書いていた。
南井戸側の圧が、また上がった。石の合わせ目から土色の水が一本、足元へ走る。
「待てば、下の管が割れます」
エッダは起動札を握っている。井戸番として、開門を拒むこともできた。
「開ければ、西へどれほど響く」
「現在図では別の枝です。古い分水室でつながっている可能性は、まだ消えていません」
「それでも開けるんだね」
「四分の一、一刻だけ。水車の回転が変わったと伝令が来れば、すぐ閉じます」
起動札は、昨夜から空欄のままだった。エッダは南井戸の責任欄へ名を書き、リディアは現地の水量、四分の一、一刻という上限を記して、委任範囲内の技術判断欄へ署名した。
二つの署名から、一刻で切れる仮測定線が石門の目盛りだけを照らした。門を動かしたのは、水番二人の肩だった。錆びた横棒へ梃子を掛け、板戸を指二本ぶんずつ持ち上げる。
最初は、水が出なかった。
水番がもう一度力を掛けた瞬間、乾いた溝の奥で泥の塊が崩れた。黒い水が石門の下から噴き、葦を寝かせて走る。南井戸へ向かう管の唸りが弱まり、圧の目盛りが一つ下がった。
「閉める試験を」
リディアが言うと、水番たちは横棒を逆へ押した。板戸は少し下がり、途中で止まった。流れ込んだ泥と小石が、戸の下へ噛んでいる。
「掻き出せます」
「水の中へ手を入れないでください。白石側へ土嚢と見張りを出し、上の取入口をもう一段絞ってから」
白石へ伝令を走らせた時、谷の西で鐘が三度鳴った。製粉場の停止合図だった。
水車は、リディアが着くまで一度も回らなかった。西の枝水には、靴底が濡れるほどしか水がない。大きな羽根板から落ちる雫の音だけが、石壁へ響いていた。
製粉場主のマルタは、回らない石臼の下から小麦粉を掻き出していた。水が止まる直前に挽いていた分は、熱を持って固まり始めている。作業札を、粉のついた手でリディアへ返した。
「昨夜、門へ触るなと言われたから、触らなかった」
「水音が変わったら呼べとも言われた。変わった時には、もうこの有様だよ」
「西の点検を遅らせ、同時測定を待たずに開門を承認しました。私の判断です」
「誰の判断かで、石臼は回るのかい」
「回りません。修理と、その間の粉を手配します」
マルタは答えず、まだ使える粉を袋へ移した。袋の口を縛る手だけが速かった。
遅れて着いた点検班が、上流の石室へ入った。古い逃がし門と製粉枝水は、地図にない一つの分水室でつながっていた。逃がし側を開くと、水位差で西の流れまで引かれる造りだった。
泥を噛んだ板戸は、表面が腐って割れている。無理に閉じれば破片が管へ入り、南井戸も塞ぐ。新しい樫板を切り、上流を絞って泥を抜き、金具を合わせるまで三日。そのあいだ、水車は動かせない。
リディアは現場図と木札を並べ直した。雨くぐりという名が、この逃がし門を指す可能性はある。ただし、木札の一字が正しければ、だった。
木札の原物と、ニナの擦り写しを窓辺へ置いた。紙には、雨の古字がはっきり出ている。原物へ光を斜めに当てると、上の一画があるはずの場所には、浅い木目しかなかった。
擦り写しの線は、木炭で足されていた。木の溝より、紙の一画だけがまっすぐだった。
昼前、エッダがニナを連れて製粉場へ来た。娘の手首を掴んではいない。ニナは自分で歩いていたが、入口の粉袋を見て足を止めた。
リディアは木札と写しを同じ高さに置いた。窓から入る光の向きも揃えた。
「この線は、どこで見ましたか」
ニナは紙を見たまま答えた。指は写しの端を強く押さえていた。
「木のところ」
「溝はありません」
「薄かったから」
「点で書くように伝えました」
ニナの唇が動き、声は出なかった。エッダがしゃがみ、娘の顔を横から見た。
「分からないなら、分からないと言いな」
「雨くぐりって、本当に呼ぶもん」
「この木に、そう書いてあったのかい」
長いあいだ、ニナは首を縦にも横にも動かさなかった。やがて、指の腹で自分が足した線を擦った。木炭が広がり、雨の字の上が黒く曇る。
「雨って書けたら、リディア様が、ほんとうに読めたって言うと思った」
声は小さかったが、マルタにも聞こえた。製粉場の者たちが手を止める。ニナは泣かなかった。
リディアは、ニナの指から紙へ視線を移した。
「昨日、濃くしたのを見ました」
「原本の線を清書したと思い、確かめませんでした。点検班を西から外し、今朝は同時測定を待たずに、私が開門を承認しました」
エッダが立ち上がった。膝についた粉を払わず、リディアを見た。
「子どもの書いた紙で門を開けたのは、子どもじゃない」
「はい」
「だからって、この子が線を足したこともなくならない」
「なくしません」
ニナが顔を上げた。目は濡れていたが、声を出す前に拭かなかった。
「もう、読んじゃだめ?」
すぐに大丈夫とは言えなかった。そう言えば、昨日と同じく、認める大人でありたい気持ちを優先する。
「今日から、ニナさんの写しは水を動かす資料へ入れません」
ニナの鼻が赤くなった。擦り写しからは手を離した。
「読んだ候補は、学校の先生か私と一緒に書くこと。元の線と、自分が考えた線を別にすること。分からない箇所を埋めないこと。その三つを続けられるなら、学ぶ席は残します」
「私のこと、信じてない?」
「今は、あの一字を信じられません」
ニナは下を向いた。エッダは娘の背を撫でず、隣に立っている。しばらくして、ニナはマルタの方へ身体を向けた。
「私も、足しましたって言う」
「私が先に話します。署名したのは私です。そのあとで、あなたが話してください」
二人は、粉で白くなった床を並んで歩いた。マルタは謝罪を聞き終えると、三日で必要になる粉の量と、止まる注文を一つずつ読み上げた。
製粉場の貯えは、節約しても翌日の夕刻までだった。午後、パン屋と保存食工房が残りの粉を買い始め、城下の粉代は朝の一・四倍になった。公爵家は別の水車から運ぶ費用と、三日分の修理、低所得世帯の差額を先に出す。リディアは、現場異議がありながら物理確認を省いた、と事故報告へ書き、一月分の報酬を上限とする審査を自分から求めた。その写しを、雇用書の資格通知欄にも自分で綴じた。
値段を書き替えた掲示板の前で、旅外套の男が荷車三台を数えていた。南の市へ豆を運ぶ途中だという二台にはライ麦粉、一台には豆が積まれている。
「買い手を探しておられますか」
リディアが尋ねると、男は値上がりした数字を指で弾いた。乾いた板が軽く鳴った。
「探していたのは昨日までです。今日なら、向こうから並んでくれる」
「お名前は」
「エリオ・サーン。安く救うつもりはありません」
彼は止まった水車と、リディアの事故報告を順に見た。旅靴には、南道の赤い土が残っていた。
「正しい記録にも値段がある。今日の分は、ずいぶん高くつきましたね」




