読める子、読めない大人
雪解け水の山は明日の正午に来る。点検班は二組しかなく、リディアは朝のうちに行き先を決めなければならなかった。
白石の取入口は、一晩で指四本ぶん水位が上がっている。南井戸へ入る泥を減らすには、古い逃がし道があれば先に開ける準備をしたい。一方、西の製粉枝水は冬のあいだ閉じられ、まだ一度も底を見ていなかった。机の中央には、昨日ニナが持ち込んだ木札がある。
「製粉側を先に見るべきです」
白石の石工ヘニングは、木札を裏返した。裏には、水門札に使う切り欠きが二つあった。
「水車はもう動いている。底が詰まってからでは、村中の粉が止まる」
「南井戸は、増水の逃げ場が分からないままだよ」
エッダは現在の取水図へ鍵の先を置いた。上流から来る一本の線は、白石と南井戸しか結んでいない。古い木札が示す先は、どこにもない。
リディアは、窓際で木目を斜めから見た。欠けた箇所へ朝の光が入るよう、札を傾けた。
「最後の二字は、くぐり、と読めます。最初の字は欠けが大きい。雨にも見えますが、断定はできません」
「雨くぐりです」
ニナが椅子から身を乗り出した。座るよう言われてから、ずっと両膝へ手を置いていた。
「井戸の下の橋で、雨の日だけ水が出る穴を、祖父ちゃんがそう呼んでました。ここの曲がり方も同じです」
「雨が二日続いたら、橋の三枚目の石へ棒を入れるんです。赤い紐まで濡れたら、井戸番を呼べって」
エッダの鍵が、図の上で止まった。
「父が使っていた測り棒は倉にある。その決まりも聞いた。ただ、穴を何と呼んだかまでは覚えていないよ」
ニナは得意そうに笑いかけ、すぐ口を結んだ。覚えていた手順は場所の手掛かりになる。札の字を正しくしたわけではない。
「呼び名が同じでも、この札とは限らない」
リディアは木札の欠けた箇所を指した。縦の溝は途中で木目に消えている。
「ここにあった線を、今は誰も見ていません。雨くぐりと読めても、水路名か、橋の場所か、昔の家並みの名かは分かりません」
ニナの肩が下がる。すぐに木札を取り戻し、指で溝を追った。
「でも、読めます」
「読みの候補は出せます」
そう言うと、ニナは顔を上げた。下がっていた肩も元へ戻った。
リディアが手元の古字表だけを見ていたら、橋下の呼び名と測り棒の決まりは出てこなかった。ニナの記憶が拾ったのは、字の読みと場所を結ぶ手掛かりまでだ。用途はまだ、木札にも測り棒にも書かれていない。リディアは現在の水利図、三十年前の税地図、白石の石材搬出札を並べた。
三十年前の図には、南井戸の北西で途切れる点線がある。名はない。石材札には、雨除け坑へ平石二枚、とだけ残っていた。木札の裏に刻まれた二つの切り欠きは、古い水門札の形式に近い。
「季節水路の可能性はあります」
ヘニングが腕を組んだ。視線は西の製粉枝水から動かなかった。
「可能性で一組を使うのか」
「使わなければ、南井戸の線へ上流の泥が全部入ります」
「使えば、西の点検が遅れる」
「はい」
どちらも明日の水だった。アレクシスは決めず、リディアへ視線を向けた。昨日の署名で、この範囲の人員配分は彼女の職務になっている。
ニナが、もう一度言った。先ほどより声が速かった。
「私、ほんとうに見たんです。橋の下の穴」
その声を採用したい自分がいた。大人に届かなかった文字を拾う子を、王都のように黙らせたくない。その気持ちは、木札の年代も水量も増やさない。
リディアは仮の作業票を作った。読みは雨くぐりの候補とし、対象は未確定。発見場所を南井戸沈殿槽と記し、現地呼称との一致を確認するまで起動不可とした。
「点検班一組を、橋下から点線の先へ入れます。ただし、木札の名で水を動かしてはいけません。石組みと出口を見つけ、現在の枝水との接続を確かめるところまでです」
ヘニングは不満そうに息を吐いた。腕は組んだままだった。
「西は」
「夜明けに回します。水車番へ、半日遅れると私の名で伝えてください」
アレクシスが人員札へ領の確認印を押した。リディアは配分判断欄へ署名する。ニナの名前は、読み候補を出した者として別欄に書き、保証欄から離した。
一組は南井戸へ、もう一組は橋下へ向かった。西の製粉場から来た若い水番は、今日見る約束だった、と作業札を握った。
「明日の第1鐘には入ります」
「水車を止めて待てということですか」
「今夜は動かして構いません。ただし、水音か回転が変われば、門へ触れず人を呼んでください」
「止まってから呼んで、粉が挽けますか」
水番は脇に抱えた薄板を開いた。粉にする前の麦袋が十七、受取を待つ家が九。製粉場に残る粉は、予定どおり売れば明日の夕方までだった。
「親方は、今日なら止めても一刻で済むと言っています。明日の水が上がってから底に入るなら、水車を半日止める。もっとかもしれない」
それでも南井戸側を外す理由にはならなかった。リディアは薄板の数を作業票へ写し、「点検遅延の影響」と見出しを付けた。
「明日の粉までに終えるとは約束できません。西を後へ回したことと、この十七袋は私の記録に残します」
水番は帽子を被り直し、作業札を持って帰った。
昼すぎ、橋下の班から泥だらけの伝令が来た。葦の奥に、石で組んだ低い穴がある。先は土で埋まり、入口には木札と同じ二つの切り欠きを持つ錆びた門金が残っていた。
季節の逃がし道である可能性は上がった。出口と西枝水への接続は、まだ見えない。
「明朝、増水前に少量試験をします」
リディアは作業票へ予定を書き、エッダと水番へ立会いを頼んだ。開く量は四分の一。水車の流量を同時に測り、減ればすぐ閉じる。アレクシスは試験準備だけを承認し、起動欄は明朝、現地でエッダとリディアが確認するまで空けた。
ニナは会議が終わっても帰らなかった。小さな机で、木札へ薄紙を置き、木炭で溝を写している。
「全部読めたことにしなくていいのです」
リディアは、読めない字を丸で囲んだ。木炭の先を、ニナへ返した。
「ニナさんには、分からない箇所を見つける役をお願いします。元からある線は濃く、欠けて推測した線は点で書いてください」
「読める字も、分からないに入れるんですか」
「何を指すか分からなければ、入れます」
ニナは口を尖らせた。それでも紙を新しくし、最初から写し直した。
夕刻、西の水番から、点検を第1鐘より早めてほしいと知らせが来た。リディアが返事の時刻を相談しているあいだ、ニナは木炭を持ったまま、最初の一字へ顔を寄せていた。
戻って見ると、薄かった上の一画が濃くなっている。リディアは、原本の線を丁寧に清書したのだと思い、作業票の束へその写しを重ねた。




