契約官リディア
三十日間の調査契約は、日没で切れる。その後も働けるものとして、読み飛ばせる一行はなかった。
王暦218年春第2月第1日の執務室には、最初に来た夜より多くの紙があった。白石と南井戸の水量表は三日間の監視を終え、いまも両方の受領印が続いている。トーマの事故補償欄には、右手薬指・小指欠損、御者休職と残った。ミナの投薬には別の確認署名が並び、外部資格審査の欄は返答待ちだった。薬草の開始在庫だけは、冬越し予定量の三分の二だった。
王宮へ送った技術照会には回答がない。期限後に東治癒院長へ出した写しは、受領した書記の名だけを返してきた。患者数も、現在の署名者も、まだ空欄だった。
アレクシスは、空いた補充欄を指で押さえた。
「補充予定は」
「確定していません。予定欄を空けます」
「契約開始の日に、景気の悪い表だ」
「三分の一を焼いたのは、今日ではありません」
リディアは在庫表を契約書の付属資料へ綴じた。就任後に失ったようにも、就任したから戻るようにも見せないためだった。
向かいのアレクシスは、最初の雇用案より厚い紙束を用意していた。任期は本日の署名時刻から、秋第8月第1日の同時刻までの六暦月。月ごとの報酬と城内の住居。井戸、治癒補助経路、街道警告路について、現場判断と契約案作成を任せる。
報酬欄の額は、三十日の調査料を月割りしたものとほぼ同じだった。欄外には、住居、馬車、夜間呼出を含む、と小さくある。
「住居と馬車は、領の現場へ行くための費用です。報酬には数えません」
城会計吏が、北部では十分な額です、と控えめに言った。
「では、北部で月に何度も夜中の起動判断をし、誤れば一月分を賠償する職にも、十分な額ですか」
会計吏の指が算盤の上で止まった。アレクシスは額を上げる代わりに、呼出手当をなくす案を出した。リディアは、待機させる夜と実際に呼び出した夜を分けた。三人は二度計算し直し、住居と移動を経費へ戻し、基礎報酬と夜間手当を別にした。
王宮では、働いた後で、功績を誰の名にするかが決まった。今度は働く前に、基礎報酬と夜間手当を自分で示した。高い額を口にするのは気恥ずかしかったが、夜間の起動判断と事故時の賠償を無償にはできなかった。
第三条の末尾に、領主の命による緊急時は必要な一切の権限を持つ、とあった。リディアは一切、の二字を線で消した。
「緊急時に、一件ごと私の返事を待つ余裕はない」
「ですから、場所、時間、使える資源の上限を決めます」
「決めた外で橋が落ちれば?」
「人を退避させる指揮はガルド様にあります。私が必要なのは、どの線を切り、どの蓄積を移すかです。橋を直す命令まで私へ入れれば、誰の判断か分からなくなります」
アレクシスは消された箇所を見た。朱の線を指でなぞりはしなかった。
「最大四刻。一地区。既存資源の四分の一まで。越えれば、領主か代行者の再署名」
「起動には、その施設の責任者も署名してください。井戸番、水番、治癒所責任者のいずれかです」
「意識がない場合は」
「生命救助に限り、緊急同意を使います。二十四時間以内に外部へ出す」
彼は書き直した。緊急時でもリディア一人の印では線を動かさず、現場責任者か領権限者を必要とする。王家と他領を拘束する署名はできない。
次に止まったのは、軍道資料だった。前月の傷が閉じたベルトが、右前腕に薄い痕を残したまま黒い筒を運んできた。手甲の白い修繕糸は、爪で切られた箇所だけ外されている。
「封印図は、この部屋でガルドか私の立会いがある時だけ閲覧可」
アレクシスの案へ、リディアは一文を足した。朱を乾かすため、紙の端を持ち上げた。
「閲覧を拒否した場合、私は資料不足を理由に署名を保留できる。保留を職務拒否として処分しない」
「写しは?」
「持ち出しません。ただし、何を見られなかったかは自分の記録へ残します」
二人のあいだで、三つ葉形補修印の調査はまだ止まっていた。軍議側は一人の通過を確認したというが、名前も経路もリディアの控えへ入っていない。アレクシスは、その一文だけは削らなかった。
賠償条項は、リディアが出した。必要な物理確認を省き、現場から異議が出ていたにもかかわらず起動を承認し、損害を生んだ場合、事実を三人の審査で確定し、一月分の報酬を上限として補償へ入れる。通常業務で避けられなかった損失と、上限を越える分は領が負う。
「三人は誰だ」
「領会計、被害を受けた側が選ぶ者、北部の登録巡回監査人。私も閣下も、決裁には入りません」
「監査人が来るまで、被害者を待たせるのか」
「先に領が払います。私の負担額を後で確定します」
アレクシスは、自分の案へ朱を入れた。領主または代行者が判断へ必要な資料を意図的に隠した場合、署名を強いた場合、または拒否した契約官の住居、報酬、帰路を奪った場合、リディアは即日解除できる。未払い報酬と領境までの馬車、外部監査へ渡す関係写しも受け取る。
「ここまで書けば、領主の命令が止まるとお思いですか」
「止まらない時に、私の違反として残る」
彼は結論だけを言った。大広間の夜に慰めを差し出す人より、この紙へ自分の失敗条件を書く領主を、リディアは信用したかった。
「あなたが自分の誤りを隠した場合も、即時に署名権を止める」
「入れてください」
休息は七日に一日。連続して夜勤した場合は、翌日の起動判断から外れる。ミナやアレクシスが休ませる善意ではなく、代行者を一名ずつ登録することまで決めた。
リディアは革紐から白銅の登録札を外し、机へ置いた。表には、王国契約官登録院、王国祝福契約官、登録第7241号。裏には十八歳の交付印と、二十一歳、二十四歳の三年更新印が並び、会計吏は今年の更新日を雇用書へ写した。
その札は、十八歳で撤回権つきの一件へ同意したリディアに、説明もなく三十七件を背負わせる許可ではなかった。全国資格が有効でも、どの土地の何へ署名できるかは、目の前の委任欄にしかない。
雇用解除欄の隣には、王国契約官登録院の資格審査部へ送る通知欄を置いた。重大な確認省略、虚偽記録、本人同意を欠く署名、委任権限を越えた署名は、この職を失うかとは別に全国資格の審査へ回る。アレクシスは二つの欄を一つの朱枠へ囲まず、それぞれに小さな領印を置いた。
二人は昼を過ぎても署名しなかった。城会計吏が報酬額を確認し、ガルドが緊急指揮との重複を削り、南井戸のエッダが現場責任者欄を読んだ。最後に、外部監査へ提出する写しの封を別に用意し、そのころには日没まであと一刻になっていた。
アレクシスが二部の領主欄へ署名し、黒い印を置く。リディアは、ヴァルハルト臨時契約官雇用第一号、その下の王国登録第7241号までを読んだ。客人でも、王太子の元婚約者でもなかった。臨時、という終わりのある名に、ほっとした自分がいた。リディア・エルンストと二部へ署名する。
二つの印から出た細い線は、契約書の外へ広がらなかった。井戸の水も増えず、薬草も戻らない。報酬、権限、解除、賠償の各欄を一度だけ通り、軍道除外の箇所で途切れる。それが、この紙に書いた範囲だった。
会計吏が第一号の二部へ同じ時刻を記し、満了欄へ秋第8月第1日の同時刻と写して、監査用の写しを封じた。アレクシスが一部をリディアへ渡そうとした時、廊下で子どもの声がした。
「今日なら見てもらえるって、お母さんが」
衛兵に止められていたのは、井戸番エッダの娘だった。十二歳のニナは、両腕で細長い木札を抱えている。南井戸の沈殿槽から泥を掻き出した時、古い石蓋の下で見つけたという。
「契約のお話が終わるまで待ちなさいと言っただろう」
エッダが追ってきたが、ニナはもう机の前にいた。新しい南井戸札と、黒ずんだ木札を並べる。古い方には、欠けた文字が四つ残り、ニナは二つ目の字の溝を小さな指でなぞった。
「こっちも水の札なのに、名前が違う」
「これ、雨って読めませんか」




