戻れば許す、だそうです
その薄い絹の扇は、北の朝の風に当てれば骨まで凍って割れますよ――と教えてさしあげるほど、私は親切ではない。
広場を渡る風に、女官長の白い扇が弓のようにしなった。
南井戸のそばの広場は、夜のうちに石畳ごと凍りついていた。晴れた朝の日差しが、氷の膜の上で白く跳ねている。真ん中に、院の買付所から運ばせたらしい書き物台が一つ。毛皮の肩掛けにくるまった女官長が、その向こうに陣取っていた。
広場の端の焼き栗の屋台から、甘い煙が流れてくる。今朝は誰も買いに行かない。私も行けない。あとで絶対に買う。
城下の人たちは、遠巻きに輪を作っていた。桶を提げたまま足を止めた女たち、荷車の男、鍛冶場の前掛けの若者。夜明けに触れ役が回って、王宮のお使いが町の者を証人に呼んでいる、と触れて歩いたらしい。
台の脇には、院の副監が立っていた。子山羊革の手袋の両手で、銀の金具の小箱を抱えている。院の印をしまう箱だ。ギーゼラは一昨日と同じ形の笑みを、口もとに置いたままにしていた。
副監様が切った父の借金の証文の期日は、今日の日暮れだ。その話を、あの人はもう口にしない。
リディアは台の前に立った。半歩後ろに、黒い外套の気配がある。
「お懐かしいこと。北の雪にも負けず、几帳面で、辛抱強くて、お変わりなく、字ばかりおきれいな帳面係さん」
字ばかり、のところで扇がぱちりと閉じた。
王宮で六年、毎朝のように聞いた声だ。北の風の中で聞くと、案外、迫力がない。
「殿下から、お手紙をお預かりしておりますわ。皆様にも、お聞かせしなくてはね」
女官長は封を切り、広場の端まで届く声で読み上げた。
「『戻れば許す』」
広場に、続きを待つ間が落ちた。
続きは、なかった。
一行。王都では、便箋がそんなにお高いのかしら。婚約していたころから、殿下のお手紙は短かった。朝湯がぬるいと一言だけ書いてある、ああいう紙だ。
「殿下の、なんと広いお心でしょう。院長様も、帳面係さんのお体をそれはもう案じておいでで。お戻りの段取りは、こちらに全部書いてございますわ」
台の上を、院の紋を刷った厚い契約書が滑ってきた。
「読むまでもございませんでしょう。ここに一筆、お家のお名前を。町の皆様の前で、殿下のお慈悲をお断りになるような方では、ございませんものね」
筆が差し出された。穂先には、もう墨が含ませてある。
証人の欄には、流れるような飾り字の署名がすでに入っていた。女官長の名だ。
「わたくし、殿下の御前で先にお書きして参りましたわ。証人が王宮の女官長では、ご不満かしら」
輪の中で、ひそひそ声が起きた。王宮のお偉い方の名前が、もう書いてあるんだと。
リディアは筆を受け取らなかった。代わりに、右手を契約書の上に置いた。
自分の名を書かされるはずの欄は、まだ冷たくなかった。井戸の底に沈めた石のような、あの冷たさがない。
この一枚は、印を押した瞬間に線へつながる紙だ。今はまだ、ただの紙。
手を横へずらす。証人の欄。女官長の飾り字のすぐ脇に、小さく行儀のいい院の字で、一行。
『保証人を兼ねる』
本人が署名しないうちは、証人が代わりに受ける、という一行。受ける分は、私がこの右手で受けてきた大広間の灯の一件と、家の名で書かれていた三十六件。合わせて三十七件。
なるほど。
目を上げると、ギーゼラの手袋の指が、箱の留め金にかかっていた。私が筆を取るのを待っている。取らなくても、たぶん押す。
「女官長様」
リディアは、その一行を押さえたまま言った。
「副監様がこの紙に印を押された瞬間から、女官長様がこの欄で、三十七件をお受けになります」
女官長の扇が、止まった。
「……受ける?」
その目が、紙からリディアの右手へ下りた。指から手首へ這い上がった、霜の筋のような白い痕。祝宴の夜、杯を取り落とした手だ。
それから目は、ゆっくりと台の脇へ動いた。
ギーゼラは、箱を抱く腕をゆるめなかった。
「わ、わたくしは、殿下のお言葉を信じて署名いたしましたわ。院長様も、形ばかりの欄だと――」
「契約を読まずに署名した方ほど、そう仰います」
扇が、もう一度開いた。北の風にあおられて、薄い骨がきしむ。
「よろしいこと、帳面係さん。殿下は、戻れば、とお書きくださいましたわ。お戻りになりさえすれば、こんな欄など、どなたも――」
「『戻れば』と仰いましたね」
リディアは、契約書の向きを女官長のほうへ回した。
「私が署名した契約は、大広間の灯の一件きりでございます。あの夜、皆様の前で撤回いたしました」
息を一つ吸う。白く出た。
「契約上、もう戻れません」
風が、契約書の端をめくった。
ギーゼラの手の中で、箱の金具が小さく鳴った。
次の瞬間には、女官長がそれを掴んでいた。
爪の先まで磨きたてた手が、厚い束を胸もとへ引き寄せる。縦に一度。重ねて、もう一度。院の紙が裂ける音は、氷が割れる音に似ていた。自分の飾り字の署名ごと四つになり、八つになり、それでも手は止まらない。
速かった。王宮の六年で一度も見たことのない速さで、王宮の女官長が紙を破っている。
ギーゼラの指は、留め金にかかったまま動かなかった。印を押す先が、もうどこにもない。
「あらあら。紙代は、院につけておくわね」
女官長の目が、その声のほうへ刺さった。さっきまで並んで立っていた相手を見る目では、なかった。
父の手に線を回す、と副監様は脅した。けれど証文は金の紙で、線の紙ではない。それに院がほしいのは、線を読める右手だ。お父上の手では一冬ももたない、と副監様が自分で言った。父の手は、脅しの的にすぎない。
本当の人質は、別の手だった。今朝、自分で飾り字を書いて、北まで運んできた手だ。私が筆を取らなければ、町の皆の前で女官長様が冷える。そういう形で、私の右手を縛る紙だった。
日暮れの期日は、私に筆を取らせるための鐘にすぎない。残るのは、ただのお金の話だ。今夜は、缶の下の便箋に二行目が書ける。
裂けた切れ端が、凍った石畳の上を風に転がっていった。
肩で息をしている。空になった手が、扇の柄を探して宙をさまよう。
「……殿下には、帳面係さんがお心を踏みにじったと、そのとおり申し上げますわ」
毛皮の裾をひるがえして、踵を返す。
ひるがえった裾ごと、靴底が氷の上を前へ抜けた。
白い扇が宙を飛んだ。女官長は、石畳に尻もちをついていた。
笑ってはいけない。頬の内側を噛んだのに、喉の奥が勝手にくっくっと鳴った。
輪のあちこちからも、こらえきれない声がこぼれた。
「肩が、三度跳ねた」
後ろから、低い声がした。
「跳ねておりません。寒いのでございます」
「寒いなら、石を一つ焼かせる」
「では、二つお願いいたします。閣下の口の端の分も」
返事はなかった。振り向かなくても分かる。あの口の端は、まだ戻っていない。
輪の中から、エッダが桶を提げて出てきた。空の桶を、縁を先にして女官長の鼻先へ突き出す。
「つかまるかい、お前さん。うちの桶は、王都の飾りもんよりは、よっぽど頼りになるよ」
女官長は桶を見上げた。唇を一度結び、白い手で縁を掴む。エッダが、薪でも起こすようにひょいと引き上げた。
立ち上がった拍子に、その腕から漆の文箱が滑り落ちた。
蓋が外れて、乾いた音が氷に跳ねる。中の一枚が風に押され、リディアの靴の先まで流れてきた。
王家の紋。宿駅の名が、南から北へ行儀よく並んでいる。いちばん下の行は、この城下で終わっていた。
殿下ご自身の、北への旅程表だ。




