戻りたくありません
第四夜鐘まであと半刻、リディアは嘘にならない返事を一つも書けなかった。
窓の外では、王家使者の馬へ飼葉を運ぶ音がしている。朝になれば、あの馬は南へ向かう。机の上の技術照会はできていた。空いているのは、アレクシスへ返す言葉だけだった。
「両方です」
声にすると、喉が擦れた。持ったままの筆が、紙の端で揺れた。
「戻れば、見つけられる不具合があります。東治癒院の床を知っています。薬師たちの顔も、夜番が鍵を掛け忘れる点検口も知っています」
「戻りたい?」
「そこへは、戻りたい」
アレクシスは続きを待った。先ほど軍議室で、彼が軍道を隠したことへの怒りは残っている。彼もまた、自分の問いに答えない人だ。それでも今、そのことを盾にすれば、リディアは話さずに済んでしまう。
「けれど、あの場所で、また以前のようにはなりたくありません」
右手を開いた。保証痕の白い輪は、灯りの下で爪より淡い。
「婚約者だから支えろと言われました。王家に育てられた恩を返せとも、できる者が私しかいないとも。そう言われて線を戻したら、次に外す時は、今より多くの人が困ります」
「そうだな」
「正しい理由です」
リディアは自分で言い、息を止めた。正しい理由だけを話す癖が、また先に口を塞いでいた。
「セレスティア様が、羨ましかった」
アレクシスの顔は動かなかった。窓から差す灯りが、片側の頬だけを照らしている。
「祈れば光る。治った人が、彼女の手を見て礼を言う。ユリウス様も、広間の人たちも、あの方が何をしたか知っていた。私は床の下にいて、朝になれば自分の名前を消していました。消さなければ、王太子妃が功を誇ったと言われるから」
あの夜の石埃は、何度手を洗っても爪に残った。翌朝、セレスティアの祈りが届いたと鐘が鳴り、リディアは人のいない廊下で聞いた。
「拍手が嫌いだったのではありません。自分へ向かなかったことが、腹立たしかった」
窓の外で桶が置かれた。馬が鼻を鳴らし、また静かになる。
「婚約を解かれた時、困ればいいと思いました」
「線が止まれば、誰が直していたか探す。細かいと言った紙を読む。私がいなくなって、初めて私を見ればいいと思った」
「患者も?」
「患者を傷つけたいとは思っていませんでした」
「同じ結果にならないとは限らない」
「はい」
宿駅で読んだ公報には、四病棟の患者の名が一人もなかった。リディアは椅子の背から手を離した。握っていた跡が、掌に赤く残っていた。
「王宮受付で、第三鐘まで待てました。待たなかった。宿駅で公報を読んだあとも、追加の急送便を出せました。財布へ触って、やめました」
アレクシスは机へ両手を置いた。
「宿駅で、あなたが北へ進むと言った時、私も止めなかった」
「待てるとは仰いました」
「北を選んでほしかった。王都へ戻れば門で留められるかもしれないと先に言い、ヴァルハルトなら予定どおり着くと続けた。どれも事実だが、並べた順は私の都合だ」
リディアは彼を見た。アレクシスは、軍議室で出した調査資料の方へ目を逸らさない。
「王都に腹を立てているあなたを雇えば、領の交渉材料になる。助けるだけの顔をしていたつもりはないが、あの朝は、あなたの怒りへ乗った」
「それで、私がしなかったことは変わりません」
「変えるために言ったのではない」
「では、なぜ」
「私だけが聞く側にいるのは、違う」
「今夜は、どうする」
「送れるものを送ります」
リディアは技術照会の三枚目を出した。王都で最後に見た床下線の区画、焼損しやすい継ぎ目、停止時に物理確認すべき石蓋の位置。ただし現在の線と一致する保証はなく、現地の薬師、外科医、正規署名者が判断すること。セレスティアの出力を上げる前に、各床で痛みの増悪を聞くこと。
「書けば届く、とは思いません。ですから受領者名と、回答期限を求めます。返事がなければ、王宮とは別に東治癒院の院長へ写しを送る」
「費用は領で持つ」
「私の照会です」
「王都の失敗を知れば、こちらの患者にも関わる。領の利害でもある」
リディアは公爵家負担の急送便と、自分の報酬から出す院長宛て写しを分けて書いた。
帰還については、一文だけにした。王家への帰参には応じない。筆先が紙を離れた。
「戻りたくありません」
今度は紙を見ず、アレクシスへ言った。自分の声が部屋に残った。
「王都を助けたくない、という意味にはしません。ですが、戻って、また誰かの当然になりたくない」
彼は長いあいだ、返書の乾いていく字を見ていた。
「では、どこにいたい」
ヴァルハルトに、と答えれば簡単だった。けれど三十日の契約が終われば、ここでの寝床も権限も、また相手の親切に戻る。
「給金があり、何を決められるかが書いてあって、断った翌朝にも部屋から追い出されない場所で働きたいです」
アレクシスが顔を上げた。椅子の脚が石床でわずかに鳴った。
「失敗した時は、私の名で責任を負います。閣下が隠す情報で判断できない時は、署名しません。それでも必要だとお考えなら」
「必要だ」
答えが早すぎて、リディアは次の文を忘れた。アレクシスは目を逸らし、少し間を置いて言い直した。
「条件を決めたい。私が欲しい権限もある。あなたが拒む条項もあるだろう」
「はい」
二人で技術照会へ封をした。アレクシスは公爵印を使い、リディアは割れた保証印ではなく自分の署名を添えた。使者へ渡す箱を閉めるころ、第四夜鐘が鳴った。
リディアは残った白紙を裏返した。一行目に、ヴァルハルト領臨時契約官・雇用条件案、と自分から書いた。




