戻れば許す
召還状に書かれていない患者を、リディアは返書の一行目へ置こうとした。
王家の使者は、夜の第三鐘までに出立の可否を聞くよう命じられていた。馬を休ませれば帰路は明朝になるが、その場合も答えだけは今夜中に封じたいという。
「東治癒院の四病棟は、現在何人を受け入れていますか」
「私は王宮書記局から参りました。治癒院の報告は預かっておりません」
「停止した床は四病棟すべてですか。セレスティア様の祈りを流した線と、薬師が使う補助線は分離されていますか」
使者は困った顔で、召還状の裏まで確かめた。添付欄は空白だった。
「こちらにあるのは、殿下のご命令だけです」
使者は召還状を両手で持ったまま、添付欄の空白をもう一度見た。
リディアは召還状を最初から読み直した。王都の祝福秩序に重大な乱れがある。元王太子婚約者リディア・エルンストは、王家の教育と庇護を受けた者として帰参し、復旧に協力せよ。直ちに応じるなら、祝宴での無礼と無断の職務放棄を不問にし、宮中での地位を再考する。
中ほどには、聖女候補セレスティアの祈りが多くの命を支えている、とあった。その働きを正しい経路へ戻すことが、リディアの務めだとも。
患者の名は一人もない。誰にどんな痛みや熱があり、薬師が今夜何を使えるかも分からない。誰がどの線へ署名しているかすら、添付されていなかった。
「私が王宮へ着いた後、どなたの権限で治癒院を調べるのですか」
「まず侍従長へ帰参を報告し、殿下のご指示を待っていただきます」
「床下へ入る通行章と、神官局へ検査を求める委任状は」
「到着後にお渡しするものかと」
「ご覧になったのですか」
使者は首を横へ振った。帰路の護衛命令と、リディアを乗せる馬車の手配書なら持っている。王都へ着いた彼女が、誰の印で何を止められるかは、彼の荷に入っていなかった。
「第1鐘に出れば、明後日の夕刻までには東門へ着けます。道中の宿駅へは先触れを出します」
使者は移動についてだけ、確かな時刻で答えた。そのために二度馬を継ぎ、ここまで来たのだ。
「王宮へ戻れば、原本を見られます」
使者は、リディアの沈黙を迷いと受け取ったらしい。携行簿は閉じたままだった。
「殿下は、あなたを罰するために呼んでおられるのではありません。戻りさえすれば、以前のように働ける道を残してくださっています」
以前のように。その言葉を聞いた右手が、机の下で閉じた。三十七本の保証痕は薄くなっても、強く握ると皮膚の内側が引きつる。
「私は現在、王家の職員でも保証人でもありません。召還へ従う法的義務はありません」
使者はすぐに反論しなかった。携行簿を開き、今の言葉をそのまま書いた。
「拒否、と記してよろしいですか」
「技術照会を返します。帰還承諾とは分けてください」
「承知しました。私の欄には、本人帰還せず、照会文一通、と書きます」
携行簿の帰着予定欄には、王宮書記局への報告時刻がもう書かれていた。リディアは彼に食事と替え馬を出すよう城の者へ頼み、旧い床下図を取りに客室へ戻った。
王都から持ってきた二つの鞄は、一つがまだ寝台の下で閉じたままだった。三十日後に帰るつもりで、式服も冬の室内履きも出していない。リディアは留め金を外し、底に入れた青紐の控えを探した。
旅外套が一緒に引き出され、寝台へ落ちた。畳めば、そのまま明朝の馬車へ載せられる。母の短い鉛筆、着替え、王都の部屋で使っていた茶缶も、一つの鞄に収まっている。
リディアは外套を畳まなかった。床下図だけを抜き、開いた鞄を残して文書室へ戻った。
机へ二枚の紙を並べる。一枚目には、帰還命令が自分を拘束しない理由を書く。二枚目には、遠隔で判断するための質問を並べた。
最初に、病棟ごとの患者数を尋ねた。次に、祈りを流した時刻と出力、痛みや発熱や痺れが悪化した例を求める。蓄積石の残量、床下線を最後に物理確認した者、現在の保証印と起動印の名も要る。祈祷を止めても薬と外科処置を続けられる床まで分からなければ、何を止め、何を残すか決められない。
「公開祈祷の停止を求めるのか」
向かいで召還状を読んでいたアレクシスが聞いた。軍議室で分かれてから、初めて交わす言葉だった。
「求める、と今は書けません。セレスティア様の祈り自体で生きている患者がいれば、一斉停止も危険です。症状悪化時には増量せず、各床を薬師が確認するまで出力を保留、と」
「あなたなら、戻ればもっと早い」
「そうでしょうね」
王都まで通常の馬車で三日。使者の替え馬を使えば、二日より短くできるかもしれない。通行章がなくても、召還状があれば門は開く。床下の癖を知る者も、王都に残った誰よりリディアの方が多い。
筆が、帰還を拒む、の直前で止まった。大広間の拍手が聞こえた気がした。セレスティアの掌から光が生まれ、傷を負った人は彼女を見て泣いた。リディアが夜明けまで床石を外したことを誰も知らないまま、翌朝、治癒院の鐘がまた鳴った。
あの光が壊れれば、床の下を見た人間がいたと、ようやく分かる。そう望んだことがあった。一度ではない。王宮受付の箱へ引継ぎを落とした朝も、宿駅で急送便の札を見た時も、同じ考えは消えずにいた。
リディアは文を続けた。帰還を拒む。だが照会への回答が到着すれば、旧点検位置と危険箇所の写しを提供する。保証の再接続、現地権限を欠く起動指示、患者を見ない出力指定は行わない。そこまで書いて、理由欄を空けた。
「公務の返事は、これで足りると思います」
アレクシスは紙を取らなかった。机に置かれたまま、空いた理由欄を見ている。
「公務ではなく聞く」
リディアは筆を置く場所を探し、結局、指に持ったままにした。先から墨が一滴、落ちかけている。
「本当は、戻りたいのか」
すぐに否定できるはずだった。言葉は出なかった。
アレクシスはもう一つを聞いた。声の高さは変わらなかった。
「それとも、気づかせたいのか」




