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春のあと、言えなくなったこと⑨

「……あの、今日は」

「うんうん、緊張してるよね。大丈夫。みんな最初はそうだから」

言葉を最後まで言わせないような調子。笑っているのに、どこか軽すぎる。それが、雪乃にはひどく気味悪く感じられた。帰ろうか。今ならまだ。そう思う。けれど男はもう自然な動きで扉を広く開けていて、中の静かな部屋が見えていた。白っぽい壁。整った椅子。小さなテーブル。拍子抜けするくらい普通の部屋だ。


普通だ。何もおかしくない。おかしく見えるのは、自分が緊張しすぎているだけかもしれない。

「どうぞ。座って少し話すだけだから」

少し話すだけ。それくらいなら。それだけで、もっと楽になれるなら。雪乃は小さく息を吸って、一歩だけ中へ入った。背後で扉が閉まる音がした。それは大きな音ではなかった。静かで、乾いた、ただの音だった。なのに、その瞬間だけ、雪乃はひどく後戻りしにくくなった気がした。


「そんなに固くならなくていいよ」

男の声は、部屋の中に入るとますます近く聞こえた。椅子に座るよう促されて、雪乃はぎこちなく腰を下ろす。膝の上で指先を組むと、自分の手が少し冷えているのがわかった。

「リサちゃんから聞いてるよ。真面目で、ちゃんと頑張る子だって」

その言い方に、雪乃は曖昧に頷いた。褒められているようで、妙に居心地が悪い。自分の知らないところで、自分のことが言葉になっているのも落ち着かなかった。


「アプリ、続いてるんでしょ?」

「……はい」

「えらいね。そういうの、途中でやめちゃう子も多いから」

また“えらい”と言われる。そのたびに、少しだけ安心する自分がいる。その安心に寄りかかりそうになる自分が、また少し嫌だった。男は穏やかな口調のまま、いくつか当たり障りのない質問をした。眠れているか。緊張しやすいか。自分に自信がある方か。大学生活はうまくいっているか。雪乃は答えながら、自分の声がいつもより少し遠い気がしていた。


おかしい。部屋の空気が重いわけじゃない。変なことをされているわけでもない。それなのに、言葉を返すたびに、自分の輪郭がぼんやりしていく感じがする。

「水城さんはね、もう少し力を抜く練習をした方がいい」

男はそう言って、テーブルの上の小さな機器を指先で軽く叩いた。音楽プレイヤーのようにも見えるそれから、低く静かな環境音が流れ始める。


「ここでは頑張らなくていいから。ちゃんと委ねた方が、楽になる」委ねる。その言葉に、雪乃の肩が小さく揺れた。委ねるのは、苦手だった。だからずっと疲れてきたのかもしれない。でも、そうやって簡単に言われると、急に怖くなる。

「……あの、今日は、どういうことを」

尋ねると、男は笑った。安心させるような、というより、すでにわかっていることを確認するような笑い方だった。

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