春のあと、言えなくなったこと⑩
「難しいことはしないよ。いつもやってることを、もう少しやりやすくするだけ。水城さん、変わりたいんでしょ?」
その一言で、雪乃は言葉を失った。変わりたい。それは、たしかに自分が思っていたことだ。誰にも言っていないはずなのに、見透かされたみたいで胸がざわつく。
「もっと楽に笑えるようになりたいとか。人前で緊張しすぎないようになりたいとか。そういうの、ずっと思ってたんじゃない?」
図星だった。反射的に否定したくなったのに、うまく声が出なかった。
男は雪乃の沈黙を、抵抗とは受け取らなかった。むしろそのまま、やわらかく言葉を落としてくる。
「大丈夫。恥ずかしいことじゃないよ。そうなりたいって思うのは、ちゃんと前を向いてるってことだから」
前を向いてる。そう言われると、帰りたいと思っている自分の方が間違っているように思えてくる。
帰る理由。断る理由。さっきまではたしかにあったはずなのに、いざ言葉にしようとすると、どれも幼く、弱く、情けないものに思えた。怖いから。知らない人だから。なんとなく嫌だから。そんな理由で、変わるチャンスを手放すのか。そんなふうに、自分で自分を追い詰め始めているのがわかった。
「少しだけ目を閉じてみようか」
男の声が、いつの間にか少し低くなっていた。
「無理なら閉じなくていい。でも、閉じた方が楽だよ」
楽。その言葉が、妙に甘く耳に残る。雪乃は目を閉じなかった。閉じたら、何かが少し遠くへ行く気がした。それでも視線は落ちていき、膝の上で組んだ指先に力が入る。
「緊張してるね」
当たり前のことを言われただけなのに、心臓が跳ねた。
「でも平気。水城さんはちゃんとできる子だから」
ちゃんとできる。その言葉は、安心に似ていた。褒められたいわけじゃない。なのに、認められたような気がしてしまう。部屋の中には、低い環境音が流れ続けている。一定の速さ。一定の呼吸。その単調さに、少しずつ意識が引っ張られる。
変だ。変なのに。今ここで立ち上がって、「やっぱり帰ります」と言えばいいだけだ。それだけのことのはずなのに、その一言がうまく形にならない。ここまで来たんだから。少しだけなら。ちゃんと楽になるためなら。自分の中で、そんな言葉ばかりが静かに増えていく。嫌だ。そう思っているはずなのに。断る理由が、うまく浮かばなかった。




