春のあと、言えなくなったこと⑧
指定された場所は、駅から少し離れた雑居ビルの一室だった。連休の昼下がり。街はどこかのんびりしているのに、その建物の前に立った瞬間だけ、雪乃の呼吸はひどく浅くなった。古びているわけではない。むしろ普通だった。外から見れば、事務所か、小さなサロンか、その程度にしか見えない。それでも、ここへ来るまでの足取りのひとつひとつが、どこか自分のものじゃない気がしていた。
ほんとうに入るの。頭のどこかで、そう問いかける声がする。ここで帰ればいい。まだ間に合う。帰ってしまえば、それで終わる。なのに、雪乃はスマホを握ったまま、その場に立ち尽くした。
『着いたらそのまま上がっていいよ♡』
リサからのメッセージ。見慣れた軽い文字。それを見ると、少しだけ呼吸が整う。整ってしまう。逃げるみたいで嫌だった。ここで帰るのは、自分がまた何もできなかったことを認めるみたいで、もっと嫌だった。
エレベーターに乗る。数字が上がっていく。狭い箱の中で、自分の顔が扉にぼんやり映っている。降りた先の廊下は静かで、足音がやけに響いた。案内された部屋の前で、雪乃は一度だけ立ち止まる。呼び鈴を押そうとして、指先が止まった。帰りたい。その気持ちは、ちゃんとあった。でも、ここまで来たんだから。少しだけ整えるだけなら。本当に、少し楽になれるだけなら。自分にそう言い聞かせて、雪乃はボタンを押した。
扉は、思ったよりすぐに開いた。出てきた男を見て、雪乃は一瞬だけ息を止めた。年上なのはわかる。けれど、落ち着いているというより、妙に馴れ馴れしい。整って見えるわけでもないのに、距離の詰め方だけがやけに滑らかだった。
「水城さん? 待ってたよ」
初対面のはずなのに、まるで前から知っているみたいな言い方だった。その時点で、雪乃の背中には薄く汗がにじんでいた。




