春のあと、言えなくなったこと⑦
連休が近づくにつれて、学内の空気は少し浮ついていった。友人同士で予定を話す声。サークルの集まり。旅行の話。連日、そんな言葉が耳に入る。雪乃には、はっきりした予定はなかった。家で過ごすつもりだったし、それでいいと思っていた。むしろ、人の多い場所に出るより落ち着く。
それなのに、連休前のある日、リサに呼び止められたとき、胸の奥がわずかに固くなった。放課後の廊下。人通りはまだあるのに、リサの声だけが妙に近く感じた。
「雪乃ちゃん、今ちょっといい?」
「う、うん……」
「前に言ってたやつ、あるじゃん。アプリのサポートみたいな」
「サポート……?」
「そう。対面で一回整えてもらうと、すごい入りやすくなるの。雪乃ちゃん、真面目だからちゃんとやれてるけど、逆に変な力入りやすいタイプっぽいし」
軽い口調だった。冗談みたいに笑いながら言う。けれど、その内容は思ったより重かった。
「対面って……人に会うの?」
「会うっていうか、カウンセリングみたいな感じ。変なやつじゃないよ。私も前やったし」
私も。その一言は、雪乃を少しだけ安心させた。でも、それだけでは足りなかった。
「……知らない人、だよね」
「最初はそうだけど、べつに怖いことしないって。ほんとに整えるだけ。雪乃ちゃん、このままでも悪くないけど、せっかくならちゃんと効果が出た方がよくない?」
ちゃんと変われる。その言葉に、雪乃は返事を詰まらせた。怖い。正直に言えば、それがいちばん近い。アプリを使うだけでも、ときどき自分が少し遠くなる感じがするのに、対面なんて。でも、同時に思ってしまう。ここでやめたら、また何も変われないんじゃないかと。
その日の帰り、講義棟の前で彼とすれ違った。ほんの少し立ち止まって、言葉を交わす。
「連休、何か予定ある? 」
何気ない問いだった。けれど、雪乃はその瞬間だけ、胸の奥を掴まれたみたいになった。もし今、自分がもう少し自然に話せる人だったら。もし今、自分がもう少し可愛く笑える人だったら。この会話の先に、何かあったのだろうか。
「……たぶん、あんまり」
「そっか。ゆっくり休めるといいな」
そう言って笑う彼の顔を見て、雪乃はうまく笑い返せなかった。家に帰ってからも、その言葉が頭の中に残った。ゆっくり休めるといいな。やさしい言い方だった。でも、そのやさしさに甘えられるほど、雪乃は自分に自信がなかった。今のままじゃだめだ。このままじゃ、また同じ距離のまま終わる。
夜、リサからメッセージが届いた。
『予約、入れといてあげよっか?』
『一回だけだし、大丈夫だよ♡』
雪乃はしばらくスマホを見つめた。断る理由を考える。面倒だから。怖いから。よくわからないから。どれも本当だった。でも、そのどれもが、ひどく情けない言い訳に思えた。変わりたいと思ったのは、自分だ。少しでも前に進みたいと思ったのも、自分だ。
『……お願い』
送信したあと、指先が少し震えた。
すぐに返事が来る。
『えらい♡ じゃあ連休中に一回ね』
『ちゃんと変わろうね、雪乃ちゃん。新しいあなたに』
画面を閉じても、その文字がしばらく瞼の裏に残っていた。




