春のあと、言えなくなったこと⑥
その日の夕方、リサからメッセージが届いた。
『今日もちゃんとやった?♡』
画面を見た瞬間、雪乃の肩が小さく揺れた。責められているわけではない。確認されただけだ。それなのに、どうしてか、すぐ返さなければいけない気がした。
『うん、少しだけ』
そう返すと、数秒もしないうちに返事がきた。
『えらいえらい♡ 続けた人から変わっていけるんだよ』
それを見て、雪乃はほっと息をついた。その安堵に、自分で少し驚いた。褒められたかったわけじゃない。監視されているとも思っていない。ただ、自分のしていることが間違っていないと、誰かに言ってほしかっただけだ。でも、それをリサに預けている時点で、何かが少しおかしい気もした。
講義後、構内で彼を見かけた。友人と話している横顔はやわらかくて、雪乃は一瞬だけ立ち止まった。行けばいいのに、と自分で思う。前より少し話せるようになったはずなのに。それでも足は出なかった。彼の隣に自然にいられる人たちを見ると、自分の中のどこかが静かに縮む。変わりたい。ちゃんと、変わりたい。
その夜、アプリの更新通知が来た。新しいメニューが追加されています、という表示だった。内容は“より深いリラックス”。しばらく迷ってから、雪乃はそれを開いた。画面には、これまでより少し長い案内文が表示された。
「あなたは努力してきました。だから、次の段階へ進む準備ができています。より自然な自分になるために、少しだけ深く整えていきましょう。」
次の段階。その言葉に、雪乃は妙に目を止めた。自分は進めているのだろうか。ちゃんと、変わる方へ向かっているのだろうか。イヤホンをつける。音声が始まる。穏やかな声に導かれながら、雪乃はゆっくりと瞼を閉じた。その途中で、一度だけ彼の顔が浮かんだ。講義棟の前で笑っていた横顔。何気ない会話のとき、自分の拙い返事を急かさず待ってくれたこと。——今度こそ、ちゃんと話せるようになりたい。その願いは、たぶん本物だった。だからこそ、その願いがどこへ運ばれているのか、雪乃はまだ気づかなかった。




