第95話 静かな子は、“今日しんどい”の奥に“今日は嘘が多い”を感じる
倉科紬希は、嘘を見抜くのが得意なわけではない。
誰かの言葉尻から矛盾を拾うとか、
表情の変化で本心を当てるとか、
そういう器用なことはたぶん真白や朱莉の方が向いている。
でも、近くにいる人が“今日は少し嘘が多い日だ”ということだけは、最近なんとなく分かるようになっていた。
それは大きな嘘ではない。
もっと小さいものだ。
大丈夫です。
平気です。
少しだけです。
まだいけます。
そういう、相手を安心させるために置かれる小さな嘘。
しかも厄介なことに、その嘘はたいてい悪意がない。
むしろやさしさから出てくる。
心配を増やしたくなくて、
面倒をかけたくなくて、
自分で持てるところまでは持とうとしてしまう。
だからこそ、見ている方は苦しい。
久瀬湊人がそういう嘘を使う時、紬希には少しだけ分かる。
声のやわらかさが増えるからだ。
本当に平気な時より、少しだけ言葉が静かになる。
それは落ち着いているからではなく、相手を安心させたい時の静かさだ。
最近の紬希は、そこに気づくたび胸のあたりが少し痛くなる。
◇
水曜の朝、教室へ入った瞬間、紬希は今日が“そういう日”だと分かった。
危ない日。
前から共有されていた日。
放課後、久瀬が別の顔の方へ切り替わらなければならない日。
だから朝から少し緊張していた。
自分が、ではない。
窓際の空気全体が、だ。
日野はいつもより少し軽く振る舞っていて、
すばるは逆に妙な静けさがある。
真白は朝から何も言わなくても、もう“今日は要注意”の顔をしている。
そして久瀬は、ちゃんと来ている。
来ていて、いつも通りに見せようとしている。
「おはよう」
紬希が小さく言う。
「おはようございます」
返事はやわらかい。
でも、そのやわらかさが今日は少し痛い。
ああ、と思う。
今日はたぶん、嘘が多い。
「今日」
真白がすぐに切り込む。
「はい」
「もう朝の時点で無理な日」
問いではない。
確認だ。
「そこまででは」
久瀬が言いかけて、
その瞬間、紬希は思わず目を伏せた。
ほら、と思う。
そうやって小さく否定から入る時点で、もう少し無理をしている。
「そこまで」
真白が即座に切る。
「あります」
そこへすばるも続く。
「今日、“まだいける”系の言い方したら減点だから」
日野が笑う。
「採点厳しいな」
「必要だから」
真白とすばるが、今日は珍しくぴったり同じ方向を向いていた。
久瀬は少しだけ苦笑して、
「……はい」
とだけ言った。
その“はい”も、やっぱり少しやわらかい。
紬希はもう、そのやわらかさが“今日は本音を丸くして出している日”の音に聞こえてしまう。
◇
二限目のあと、紬希は自分のノートを閉じながら、ふと久瀬の横顔を見た。
授業はちゃんと受けていた。
板書も取っていた。
返事も自然だった。
だから、教室全体から見れば普通の高校生だ。
でも、窓際の距離から見ると少し違う。
チャイムが鳴ったあと、ほんの一瞬だけ肩が落ちる。
そのあとで、すぐ持ち直す。
何かを確認したいようにポケットのスマホへ触れかけて、やめる。
机の上の会話へ戻る前に、小さく息を吐く。
たぶん本人はうまくやれているつもりなのだろう。
でも、近くで見ていると、その“うまくやろうとしている感じ”自体がもう少し苦しい。
「ねえ」
紬希が小さく呼ぶ。
「はい」
久瀬が視線を上げる。
「今日」
「うん」
「平気?」
短い問い。
でも、それだけで充分だった。
久瀬は少しだけ目を丸くした。
たぶん、真白みたいに“今日無理な日”と断定されるのとは別の方向から来たからだろう。
「……大丈夫です」
やっぱり、そう返ってくる。
でも今日は、その言葉が少しだけいつもより軽かった。
軽いというのは、気楽という意味ではない。
中身より先に形が置かれた感じだ。
「そっか」
紬希はそれ以上追わなかった。
追わない代わりに、ちゃんと覚えておく。
今の“大丈夫です”は、本当の意味の大丈夫ではない。
少なくとも、かなり丸めた言い方だ。
そういうことだけは分かる。
◇
昼休み、窓際の空気は一見いつも通りだった。
すばるがパンの新作について語っていて、
日野が「それ甘すぎない?」と適当に返し、
真白が「食べてもないのに言うな」と切る。
その流れへ、久瀬も少しだけ入っている。
笑っている。
ちゃんと会話にいる。
そこだけ見れば普通の昼休みだ。
でも、紬希には分かってしまう。
今日は、笑っていることと平気であることが一致していない。
「これ」
紬希は、小さな栄養バーを机へ置いた。
久瀬が目を上げる。
「え」
「あとで」
短く言う。
「たぶん、今日いらないって顔しても」
そこまで言ってから、少しだけ間を置いた。
「あとで食べた方がいいと思う」
かなり踏み込んだ。
でも、今日はそうしたかった。
すばるが横で「出た」と小さく笑う。
「最近の倉科さん、静かに読み切ってくる」
真白も小さく頷いた。
「うん」
日野は「もう完全に見守りの精度が高い」と笑った。
久瀬は少しだけ困ったような顔になる。
「……そんなに分かりやすいですか」
「今日は」
紬希は言う。
「少し」
本当は“かなり”だった。
でも、そこで自分まで強く言いすぎると、この人はまた余計に整えてしまう気がした。
「……ありがとうございます」
久瀬が小さく言う。
やっぱり礼から入る。
でもその礼も今日は少しだけ疲れている。
紬希はそこで、ようやくはっきり思った。
この人は今日、平気なふりをしているだけじゃない。
平気なふりをする回数が多い日なのだ。
授業の前に少し。
会話へ入る前に少し。
心配されそうになった時に少し。
そういう小さな嘘を一日じゅう重ねている。
「……久瀬くん」
「はい」
「今日は」
そこまで言って、紬希は少しだけ言葉を探した。
言いすぎたくはない。
でも、飲み込むのも違う。
「平気なふり、多い日」
その一言で、窓際の空気がきれいに止まる。
日野が「おお」と小さく声を漏らし、
すばるは目を丸くして、
真白だけがすぐに息を吐いた。
たぶん彼女も、別の言葉で同じことを感じていたのだろう。
久瀬は、しばらく何も言わなかった。
その沈黙が、何よりの答えみたいだった。
「……そんなに」
ようやく出てきたのは、それだけ。
紬希は小さく頷く。
「うん」
「たぶん、いつもより」
そこまで言うと、久瀬は少しだけ目を伏せた。
否定はしない。
できないのだろう。
◇
真白が腕を組んだまま、低く言った。
「それ」
「うん」
「私も思ってた」
すばるもすぐに続く。
「わかる」
「今日の久瀬くん、なんか全部一回やわらかくして返してる感じ」
「それ」
日野まで頷く。
「俺でもちょっとわかる」
珍しい。
でも、今日の空気はそのくらいはっきりしているのだ。
紬希はそこでようやく、自分だけが変に敏感になっていたわけではないと分かる。
見えていたのはたぶん、自分だけではなかった。
ただ、自分が一番先にそれを“嘘の回数”として受け取っただけなのだろう。
「……すみません」
久瀬が小さく言った。
その瞬間、真白がすぐに返す。
「謝るより先に認めて」
容赦がない。
でも今はその容赦のなさが必要だった。
「今日、きつい?」
真白が聞く。
単刀直入。
逃げ道なし。
そこへすばるも、紬希も、日野も、今は口を挟まない。
久瀬は小さく息を吐いた。
そのあと、少しだけ苦笑する。
「……きついです」
短い。
でも、ようやく出た本音だった。
紬希はそこで、胸の奥が少しだけやわらかくなるのを感じた。
よかった、と思う。
その言葉が出たこと自体が。
平気なふりの奥に、本当にきついがあるのだと共有できたこと自体が。
「じゃあ」
真白が言う。
「今日は、その前提で見る」
「はい」
「終わったあと、連絡」
「ええ」
「消えたままはだめ」
すばるが言う。
「わかりました」
「ちゃんと飲んで」
紬希が机の上の栄養バーを指す。
「はい」
日野が最後に笑った。
「包囲網、今日も強いな」
その一言で、少しだけ空気が戻る。
◇
放課後、教室のざわめきが帰り支度へ変わる中で、紬希は久瀬の横顔を見ていた。
朝より少しだけ本音が出たぶん、逆に顔は静かになっている。
全部が楽になったわけではない。
でも、“きついです”と一度言えた人の静けさだ。
それを見て、紬希は思う。
やっぱり、自分は中身を全部知りたいわけではないのかもしれない。
知らないことが多くてもいい。
でも、今しんどいかどうかだけは、ちゃんと知っていたい。
好きな人が無理をしている時、
平気なふりの回数が増えている時、
そこだけは見逃したくない。
「じゃあ」
久瀬が小さく言う。
「行ってきます」
それに真白が短く頷き、
すばるが「終わったら連絡」と念押しし、
日野が「無事で帰れよ」と笑い、
紬希は静かに言った。
「今日は」
「うん」
「平気なふり、もう増やさなくていいから」
それは、たぶん今日一番言いたかったことだった。
久瀬は一瞬だけ目を見開いて、それから少しだけ、ほんとうに少しだけ、肩の力を抜いたように見えた。
「……はい」
その返事は、朝よりずっと本音に近かった。
◇
夜、自室。
紬希はベッドの上で膝を抱えながら、今日のことを何度も思い返していた。
平気なふり、多い日。
あの言葉は、思っていたよりずっとはっきり相手へ届いた。
そして、届いたあとでようやく久瀬は“きついです”と言った。
大きな告白ではない。
秘密が明かされたわけでもない。
でも、今の自分たちにはその一言で充分だった気がする。
静かな子は、“今日しんどい”の奥に“今日は嘘が多い”を感じる。
そしてその嘘の数を数えてしまうくらいには、もう相手を好きになっているのだと、自分でも分かってしまうのだった。




