第92話 オタクは、“気のせい”を気のせいのままにできなくなる
鳴海すばるは、推しを好きでいればいるほど、“違和感”に甘くなれないタイプだった。
普通の人なら見逃すような一拍を拾う。
声の置き方の癖を覚える。
笑う前に息を吸うタイミングとか、語尾の柔らかくなる位置とか、そういう細部が頭に残る。
オタクとしては、それはわりと便利だ。
推しの調子が分かるし、良い意味での変化もすぐ拾える。
でも今のすばるにとって、その観察癖はかなり面倒な方向へ働いていた。
天瀬アルトのアーカイブを見ている時に、
学校での久瀬湊人を思い出してしまう。
それが一回や二回なら、偶然で済ませられた。
でも最近は違う。
偶然にしては回数が多すぎる。
しかも、自分の中で“似ている気がする”の種類が、だんだん具体的になってきている。
「……だめだって、ほんとに」
月曜の夜、自室のベッドに転がりながら、すばるはスマホの画面を胸の上へ乗せた。
開いているのは、天瀬アルトの少し前の雑談アーカイブだった。
コメントを拾う時の声。
話題が逸れたあと、元へ戻す時の間。
ちょっと困った時の笑い方。
前なら、それを見て「はー好き」で終わっていた。
今は終わらない。
途中でどうしても、教室の窓際で少し困ったように笑う久瀬の顔が浮かんでしまう。
「いや、でも、まさか……」
そう呟いて、自分で分かっている。
最近の“まさか”は、否定ではなく時間稼ぎに近い。
もし本当にそうだったらどうするのか。
その答えが出せないから、まだ“気のせい”へ置いておきたいだけだ。
でも、オタクは一度見つけた違和感を、気のせいのまま放っておくのが本当に苦手だった。
◇
翌朝、すばるは少し寝不足のまま教室へ入った。
原因はもちろん、昨夜のアーカイブ見直しだ。
途中でやめるつもりだったのに、気づいたら三本も遡っていた。
その結果、余計なものまで拾ってしまった。
アルトが、何かを考えながら言葉を選ぶ時の「えっと」。
でも実際にはそんなに迷っていなくて、相手が言葉を挟める余白を一拍作るために置いているだけの“えっと”。
久瀬も、似たことをする。
まったく同じではない。
でも、あの“相手を急がせないための間”が、妙に重なる。
「おはよー……」
少しだけだるい声で言うと、日野が最初に笑った。
「なんだその死にかけ感」
「寝不足」
「推し?」
真白が聞く。
この二人、最近ほんとうにそこへの解像度が高い。
「半分」
すばるは席へ座りながら答えた。
「残り半分は?」
今度は紬希が静かに聞く。
すばるは一瞬だけ言葉を詰まらせる。
その聞き方はずるい。
やわらかいのに、かなり逃げにくい。
「……違和感の答え合わせ未遂」
そう言うと、窓際の空気が少しだけ止まる。
久瀬はすでに来ていた。
こちらの言葉を聞いて、ほんのわずかに視線を上げる。
その小さな動きすら、今のすばるには前より意味を持って見えるから困る。
「なにそれ」
日野が笑う。
「いや」
すばるは頭をかく。
「昨夜ちょっとアーカイブ見直してたら、また余計なとこ拾った」
「推しの?」
真白。
「うん」
「で?」
「で、また久瀬くんの顔が浮かんだ」
そこまで言うと、日野が「もう末期では」と言い、真白が小さく息を吐く。
紬希は困ったように笑った。
そして久瀬だけが、やや静かな顔をしている。
「……何を拾ったんですか」
久瀬が聞いた。
声は穏やかだ。
でも、少しだけ慎重でもある。
すばるは数秒だけ迷った。
ここで言いすぎると、本当に戻れなくなりそうな気がしたからだ。
でももう、最近は何も言わずに抱える方がしんどい。
「言葉を選ぶ時の間」
すばるは言った。
「え」
日野が素で聞き返す。
「それ、そんな見てんの?」
「見てる」
即答だった。
「なんかね」
すばるは続ける。
「普通に迷ってる間じゃなくて、“相手が入りやすいように一拍作る”みたいな間」
そこまで言って、自分で少しだけ顔をしかめる。
気持ち悪いくらい細かいのは自覚している。
でも、これがオタクの観察だ。
真白は少しだけ目を細めた。
「……ああ」
「真白も分かる?」
「少し」
その返答が、最近はやけに多い。
真白は推しオタクではない。
でも、久瀬を見る頻度が増えたことで、似た種類の空気の拾い方をし始めているのかもしれない。
紬希が小さく言った。
「それって、やさしい間だよね」
その表現に、すばるは本気で少し驚く。
「え」
「急がせないための」
紬希は静かに続ける。
「だから、似てるとしたら、そういうところなのかも」
その言葉が妙にしっくり来て、すばるは一瞬だけ黙った。
やさしい間。
それはたしかに、昨夜の自分が引っかかったところを一番きれいに言い表していた。
◇
一限目が終わったあと、すばるはもう一つの違和感に気づいてしまった。
久瀬が、教科書を閉じる時に小さく息を吐く。
そのあと、何かを言う前にほんの一拍だけ視線をずらす。
それから丁寧すぎない言葉を選ぶ。
その流れが、昨夜見たアルトの雑談アーカイブの一場面と重なった。
「……やば」
思わず漏れる。
「なに」
真白がすぐ聞く。
「今、また増えた」
「何が」
「一致ポイント」
その言い方に、日野が笑う。
だが真白も紬希も笑わなかった。
最近はもう、この手の話がただのオタクの暴走ではないことを知っているからだ。
「どこ」
真白が聞く。
「息」
「息?」
「話す前に一回だけ落とすやつ」
そこまで言うと、久瀬が小さく咳払いをした。
それがまた妙に“間を整える人”の動きに見えて、すばるは本気で頭を抱えたくなる。
「……鳴海さん」
久瀬が困ったように言う。
「はい」
「それ、かなり見られていますね」
「見てるもん」
反射でそう返してから、少しだけ沈黙が落ちる。
言ってしまった、と思う。
でも嘘ではない。
最近の自分は本当に、見てしまっている。
真白が横から口を挟んだ。
「でも、鳴海が言ってること、今日はちょっとわかる」
その一言で、すばるは少しだけ救われる。
自分だけが変な方向へ走っているわけではないと分かるからだ。
「私も」
紬希が小さく言う。
「言葉の置き方、少し似てる時ある」
そこまで来ると、もう“オタクの見すぎ”だけでは片づかない。
複数人が別ルートで同じ種類の違和感を拾い始めている。
日野がそこでようやく少し真面目な顔になった。
「それ、もうさ」
「うん」
「逆に答え欲しくならない?」
その一言に、すばるは本気で黙る。
欲しい。
かなり。
でも、それと同じくらい怖い。
もし答えが本当にそうなら、
今までの推し方も、
学校での距離感も、
窓際の空気も、
全部少しずつ意味が変わってしまう。
「……欲しいけど」
すばるは小さく言った。
「出たらしんどい」
その本音に、今度は誰もすぐには笑わなかった。
◇
昼休み、すばるは一人でスマホのメモ帳を開いていた。
もちろん、誰にも見せるつもりはない。
でも頭の中だけで整理すると、どんどん曖昧になる気がしたのだ。
アルトと久瀬の共通点。
・言葉を選ぶ前の間
・相手を急がせない返し
・困った時の笑い方
・息の置き方
・やさしい時ほど引き気味の距離感
・緊張している相手を一段だけ楽にする感じ
「……こわ」
自分で打って、自分で引く。
これでは、気のせいを気のせいのままにしておきたい人間のメモではない。
むしろ、答え合わせを始めた人間のメモだ。
そこへ、背後から声がした。
「それ」
真白だった。
すばるは本気で飛び上がりかける。
「見た!?」
「最後の行だけ」
「最悪」
「でもだいたい分かる」
そう言って、真白はすばるの隣の机へ軽く腰を預けた。
「鳴海」
「なに」
「気のせいを、気のせいのままにできなくなってる」
図星だった。
あまりにも図星すぎて、すばるは反論できない。
「……うん」
「でも」
真白は続ける。
「今の段階で無理に答え出すのも違う気がする」
「それもわかる」
すばるは即答した。
「だって、もし本当にそうだったら」
「うん」
「学校の空気、変わる」
それが一番大きかった。
推しとして憧れていた天瀬アルト。
クラスの近くで顔色を見てしまう久瀬湊人。
その二人が同じ人間だったとして、今までみたいにただ騒いで、ただ気にして、ただ好きでいられるだろうか。
たぶん無理だ。
だからこそ、知りたいのに知りたくない。
◇
放課後、帰り道で、すばるはまた一つだけ気づいてしまった。
日野が何か変なことを言って、
真白が切って、
紬希が小さく笑ったあと。
久瀬が少しだけ遅れて、「わかります」と言った。
その“わかります”の温度が、以前見たアルトの雑談で、コメントの冗談に少しだけ乗る時の声とやけに近かった。
「……もうやだ」
思わずそう言うと、日野が笑う。
「急にどうした」
「今また増えた」
「一致ポイント?」
真白が聞く。
「うん」
「何」
「“わかります”の言い方」
そこまで来ると、さすがに日野も少し引いた顔をした。
「オタクこわ」
「知ってる」
すばるは即答する。
でも、その“怖さ”が今は自分にとって一番厄介だった。
◇
夜、自室で、すばるはメモ帳を閉じた。
もう十分だった。
これ以上増やしたら、本当に“気のせい”の避難場所がなくなる。
オタクは、“気のせい”を気のせいのままにできなくなる。
そして今の自分は、まさにその一番しんどい地点に立っているのだと思う。
知りたい。
でも、知るのが怖い。
確かめたい。
でも、確かめた瞬間に今の学校の空気まで変わってしまう気がする。
「……ほんと、どうすんの」
小さく呟いて、すばるはスマホを伏せた。




