第91話 あと数分ずれていたら、日常はたぶん壊れていた
あと数分ずれていたら、たぶん何かが壊れていた。
久瀬湊人は、現場の撤収が一段落したあと、駅前ビルの裏手にある搬入口近くで、ようやく息を吐いた。
AstraLink大型企画の事前収録は、表向きには滞りなく終わった。
短尺コメント撮り。
立ち位置確認。
街頭ビジョンとの連動チェック。
簡易的な導線確認。
どれも仕事としては成立している。
スタッフ側も、今日は大きなトラブルなしと判断しているだろう。
後輩の小鳥遊絃葉も、緊張してはいたが、きちんと立っていた。
天瀬アルトとしての自分も、少なくとも現場で崩れは見せていない。
だが、それで安心できるほど今日は甘くなかった。
近かったのだ。
本当に。
学校帰りの生徒の流れ。
駅前ビジョンの前に集まる人の群れ。
いつもなら交わらないはずの、学校側の時間と配信側の現場。
その二つが、今日は同じ街の中でほとんど重なりかけていた。
しかも、自分の中ではもうほぼ確信があった。
窓際の四人も、この近さを感じ取っていた。
特にすばるは、あの大型ビジョンの前で間違いなく何かを拾いかけていたはずだ。
「……ほんとに、危なかった」
小さく呟く。
それは、秘密がバレかけたという意味だけではない。
学校生活と、
配信生活と、
そのどちらにも属してしまった今の自分の気持ちが、
同時に引き裂かれかけたという意味でもあった。
もしあのタイミングで、
もしもう少しだけ現場の開始が遅れていたら、
もし窓際の四人がもう少し駅前に残っていたら。
たぶん、久瀬湊人としての自分も、天瀬アルトとしての自分も、今までみたいには守れなかった。
◇
その頃、駅前から少し離れた帰り道で、鳴海すばるはまだ妙な気持ち悪さを引きずっていた。
「……なんかさ」
ぽつりと言う。
「まだ言うの?」
真白が返す。
「言う」
すばるは唇を尖らせた。
「だって、ほんとに変だったもん」
四人は駅前のビジョンを離れ、少し裏道寄りの通学ルートを歩いていた。
日野は手をポケットに突っ込みながら、いつもの軽さを取り戻そうとしている。
紬希は静かに歩いているが、やはりどこか落ち着いていない。
真白だけは、一番静かで、一番神経を残しているように見えた。
「何が変」
真白が聞く。
短い。
だが、その短さは“ちゃんと聞く”側の短さだ。
「全部」
すばるは言った。
「ビジョンもそうだし、人の流れもそうだし、スタッフっぽいのがいたのもそう」
「うん」
「でもそれだけじゃなくて」
そこで一度言葉を切る。
言ってしまうと、戻れなくなりそうな気がしたからだ。
「……一瞬だけ」
「うん」
「久瀬くんっぽい立ち方、見えた」
その一言に、空気が止まる。
日野が「またそれ?」と笑い飛ばしかけて、でも最後まで軽く言えずに止まる。
紬希は、目を伏せたまま歩く速度を少しだけ落とした。
真白だけは、数秒沈黙してから聞いた。
「顔は見た?」
「見てない」
「じゃあ断定はできない」
「わかってる」
すばるは即答した。
「わかってるけど、でも」
「でも?」
「今日の近さは、たぶんもう“気のせいで済ませる用の距離”じゃない」
それが、今のすばるの精一杯だった。
推しと、
学校の男子と、
その両方を同時に気にしてしまう自分の勘が、
今日はずっと嫌な方向へ鳴っている。
そして真白も、それを完全には否定しない。
「……そうね」
小さく返した。
「今日のは、近すぎた」
その言葉に、紬希も静かに頷く。
日野がようやく息を吐いた。
「なんか最近、ほんと笑えなくなってきたな」
「元から半分笑えてなかった」
真白が切る。
でもその切り方にも、今日は少し疲れが混ざっていた。
◇
夜、久瀬湊人は帰宅後すぐにシャワーも浴びず、ベッドに腰かけたままスマホを見つめていた。
窓際のグループチャット。
普段はそんなに活発ではない。
必要な連絡か、たまに写真共有みたいな話題が流れる程度だ。
でも今日は、さすがに何か一言入れておくべきだと思った。
問題は、どう書くかだ。
今の自分は、久瀬湊人としては“今日は少し危ない日だった”と共有している。
そのうえで、実際にかなり危なかった。
でも、何がどこまで危なかったのかは当然書けない。
数秒迷ったあと、湊人は短く打ち込んだ。
『遅くなりました。今日は終わりました。かなり疲れましたが、問題はなかったです』
送信。
少しだけ間が空く。
すぐに既読がついた。
最初に返ってきたのは、すばるだった。
『終わったならよかった。でも“問題はなかったです”が今日は逆に怖い』
思わず小さく笑う。
やはり、そう来る。
次に真白。
『生きてるならそれでいい。帰ったらちゃんと食べて寝て』
短い。
でも、今日の真白らしい。
詮索しない。
その代わり、最低限守らせたいことだけをちゃんと押す。
紬希からは少し遅れて来た。
『おつかれさま。先にゼリー飲んでから休んで』
その一文が、やけに胸へしみた。
昼に机へ置かれていた小さなゼリー飲料を、湊人はようやく思い出す。
鞄の中から取り出し、蓋を開ける。
甘い。
そして、少しだけ泣きたくなるくらい、やさしい味がした。
最後に日野。
『無事ならよし。来週もやばいなら先に言えよ』
雑だ。
でも、今はその雑さがひどくありがたい。
「……ずるいよな」
小さく呟く。
誰に向けた言葉なのか、自分でもよく分からない。
窓際の四人かもしれないし、こういう関係を大事だと思ってしまった自分かもしれない。
◇
翌日、土曜日。
学校は休みでも、湊人の頭の中はまったく休みにならなかった。
AstraLink側の追加連絡、
現地収録の候補日再調整、
導線変更の可否、
街頭ビジョンとの連携時間帯、
新人枠のフォロー体制。
しかも、その裏で自分の感情の方も少しずつ整理を迫られている。
もう偶然で守れる距離ではない。
だったら、次はもっと本格的に線を引かなければならない。
学校生活と配信生活が同じ街で揺れるなら、その揺れを前提にした動き方が必要になる。
そう考えていた時、AstraLinkの社内チャットに、新しいメッセージが入った。
『大型企画第二弾、街頭連動強化案を検討中。学生層リーチを意識したエリア選定を優先』
それを見た瞬間、湊人は本気で顔をしかめた。
「……学生層リーチって、おい」
最悪だ。
かなり。
向こうはビジネスとして当然の判断をしている。
だが、その当然が今の自分には一番困る。
学校生活の近くに、
わざわざ学生層向け導線を寄せてくる。
つまり、今後は今回よりさらに“近くなる”可能性すらあるということだ。
◇
同じ頃、小鳥遊絃葉は自室で事務所チャットを見ながら、また少しだけ落ち着かない気分になっていた。
昨日の現場。
アルトのフォロー。
スタッフの空気。
街頭ビジョンの大きさ。
初めて触れた“配信の現実が街へ出てくる感じ”。
全部が新鮮で、緊張して、でも少しだけうれしかった。
そして、その全部のあとで、また学校のことを考えてしまう。
もし昨日、駅前で学校の誰かとすれ違っていたらどうなっていただろう。
もし久瀬くんみたいな、静かな日常側の人が、あの現場を見ていたらどう感じただろう。
「……変なこと考えてるなあ」
小さく呟く。
でも、止まらない。
天瀬アルトへの憧れが強くなるほど、
久瀬湊人の“話しやすさ”まで一緒に思い出される。
そしてその二つを、自分はまだきちんと分けて考えられていない。
◇
月曜の朝、教室へ入ったすばるは、やはり最初に久瀬を見た。
いる。
今日もいる。
その事実にまず安心する。
でも、安心した次の瞬間にまた思う。
あと数分ずれていたら、どうなっていたのだろうと。
「おはよ」
少しだけ低めの声で言う。
「おはようございます」
返事は穏やかだ。
でも、先週までより少しだけ違う。
なんというか、“一線越えかけたあとで戻ってきた人”の静けさがある。
「……今日の顔」
すばるが言う。
「なに」
真白が聞く。
「生き残った人の顔」
日野が吹き出した。
「物騒」
紬希も少しだけ困ったように笑う。
でも真白は、少しだけ沈黙してから頷いた。
「わかる」
その一言で十分だった。
あと数分ずれていたら、日常はたぶん壊れていた。
だからこそ今の窓際の空気は、先週までより少しだけ重く、そして少しだけ大事なものになっていた。




