第90話 学校では地味、外では王子。その境界線が、ついに同じ街で揺れ始める
学校では地味な転校生。
外では王子様系の人気VTuber。
その二つの境界線は、今までずっと“物理的には離れている”ことで守られてきたのだと、久瀬湊人はその日ようやく痛感していた。
今日、その境界線は同じ街の中で揺れている。
学校帰りの制服の流れ。
街頭ビジョンの前に集まる人波。
AstraLink大型企画の現場待機。
スタッフの導線。
後輩ライバー。
そして、自分の学校生活側にいるはずの窓際の四人。
全部が、近い。
近すぎる。
まだ正体はバレていない。
だが、それは偶然が一つ足りなかったからにすぎない。
そんな距離まで来てしまっている。
◇
現場側では、収録そのものは大きく崩れていなかった。
短尺コメント。
立ち位置確認。
流れの再確認。
後輩フォロー。
その一つ一つを、天瀬アルトとしてこなす。
できてしまう。
そこがむしろ厄介だった。
長年の癖で、王子様の顔は作れる。
後輩を安心させる声も出せる。
スタッフとスムーズに会話し、進行の中で必要な立ち位置を取ることもできる。
でも、だからこそ時々思う。
自分はどちらが“本当”なのだろうと。
学校側の久瀬湊人も、もうただの擬態ではない。
窓際の空気が大事だ。
真白の短い確認も、
すばるの騒がしい心配も、
紬希の静かな気遣いも、
日野の雑な一言も、
全部ちゃんと大事になってしまっている。
そして今、その大事な日常のすぐ近くで、天瀬アルトが動いている。
「……ほんとに、やめてくれ」
誰にも聞こえないように、小さく呟く。
守られている。
まだ守られている。
でも、それはもう“うまく隠していれば大丈夫”の領域ではない。
もっと、偶然とタイミングに依存した危うい均衡だ。
◇
駅前のビジョン前では、すばるがずっと落ち着かなかった。
アルトの大型企画。
見たい。
普通に見たい。
ファンとしてなら、ここでビジョンを眺めながら騒いでもいいくらいだ。
でも今日はそれができない。
近いのだ。
何かが。
推しの現実が。
そしてそれが、学校側の現実とぶつかりかけている感じがする。
「鳴海」
真白が言う。
「うん」
「今、何見てる」
その問いは鋭い。
ただ“何を考えてるの”ではなく、“視線の置き場”を聞いている。
最近の真白は、そういう聞き方をする。
「人の流れ」
すばるは答える。
「あと、あの辺のスタッフっぽい人たち」
「うん」
「それと……」
言いかけて、少しだけ迷う。
「なんか、久瀬くんみたいな立ち方の人がいた気がする」
その一言で、四人の空気がぴたりと止まる。
日野が「は?」と小さく言い、
紬希は本気で少しだけ息を止めた。
真白だけは、すぐに否定しなかった。
「気のせいかもしれない」
すばるが言う。
「でも」
「でも」
「今日の感じ、もう“まさか”で流していい距離じゃない」
そこまで言うと、自分でも心臓がうるさいのが分かった。
真白は少しだけ目を細め、ビジョン前の人波を見る。
紬希は静かなまま、でも明らかに緊張している。
日野はもう笑っていない。
学校では地味。
外では王子。
その境界線が、もし今この街で揺れているのだとしたら。
それは、ただの秘密の問題ではなくなる。
窓際の空気も、
学校生活も、
推しとして見上げていたものまで、
全部の意味が変わってしまうかもしれない。
◇
現場側で、絃葉は短い待機時間のあいだ、アルトの横顔を遠くから見ていた。
やっぱりすごい、と思う。
人前での落ち着き方が違う。
現場の空気へ自然に馴染みながら、後輩の様子も拾っている。
その上で、自分が前へ出すぎもしない。
憧れる。
本当に。
でも同時に、今日のアルトは少しだけ張っているとも感じた。
打ち合わせの時より、現場の方が神経を使っている。
それが何に対するものなのかは分からない。
でも、たぶん自分が思うよりこの企画は複雑なのだろう。
その時、絃葉のスマホへ友達からメッセージが来た。
『今駅前やばい、人多い。AstraLinkの広告出てる』
学校の友達からだった。
その一文を見た瞬間、絃葉の背筋に冷たいものが走る。
駅前。
人多い。
学校の友達圏。
AstraLink。
近い。
いろいろなものが近すぎる。
思わず顔を上げると、少し離れた位置でアルトも一瞬だけスマホを見ていた。
その横顔はやはり落ち着いている。
でも、その落ち着きの奥にある張りは、さっきより少しだけ強く見えた。
◇
夕方、学校側へ戻る途中の四人は、結局そのまま駅前を離れることにした。
見たい。
でも、今日は見に行くのが正解だとは誰も思えなかった。
好奇心より嫌な予感の方が強い。
「帰ろう」
真白が言った。
短い。
でも、それで十分だった。
「うん」
紬希が頷く。
日野も珍しくすぐ従う。
すばるだけが、ビジョンを一度だけ振り返った。
そこに流れるシルエット。
王子様然とした立ち姿。
まだ名前は出ていない。
でも、ファンなら分かる。
少なくとも、自分には分かる。
「……やだな」
小さく呟く。
「何が」
日野が聞く。
すばるは少しだけ唇を噛んでから言った。
「今日、ほんとに境界が近い」
その表現に、真白が静かに頷く。
紬希も視線を落とした。
学校では地味、外では王子。
その境界線が、ついに同じ街で揺れ始める。
そしてその揺れは、次の章でいよいよ“偶然では済まない近さ”へ変わっていくのだろうと、誰も言葉にしないまま感じていた。




