第9話 昼の約束と、夜の予定は同じ顔ではこなせない
月曜日の朝は、たいてい少しだけ空気が重い。
休み明けの学校というのは、それだけで人の足を鈍らせる何かがあるらしい。校門をくぐる生徒たちも、金曜日の放課後みたいに肩の力が抜けてはいないし、教室へ向かう廊下のざわめきにも、週の始まり特有の眠さが混じっている。
久瀬湊人も、その空気の中を静かに歩いていた。
だが、今日の胸の中にある重さは、たぶん月曜日だからだけではない。
スマホの中には、昨夜の時点で確定していた予定がある。
二十時、AstraLink大型コラボ事前通話。
二十一時、案件込み短時間配信。
どちらも動かせない。
そして、その予定を頭のどこかで意識したまま教室へ入ると、席に着くより先に、日野が元気よく振り向いた。
「久瀬、今日の放課後ひま?」
心臓が嫌なタイミングで跳ねた。
「……放課後、ですか」
「その聞き返し方、もう“怪しいです”って言ってるようなもんだけど」
真白が横から冷静に刺してくる。
「まだ何も言ってないのに」
「だって毎回その間があるでしょ」
痛いところを突かれた。
すばるも鞄を置きながら会話へ入ってくる。
「なになに、なんかあるの?」
「駅前のゲーセンで、今日から新しい音ゲー入るんだって」
日野が言う。
「で、帰りにちょっと見に行こうかなって話」
「へえ、いいじゃん」
すばるが反応する。
「真白は?」
「私は別に」
真白が言いかけて、少しだけこちらを見る。
「……まあ、寄るだけなら」
「お、珍しい」
日野が笑う。
「じゃあ鳴海も来る?」
「行く。ていうかそういうの、むしろ見たい」
「で、久瀬は?」
三人分の視線が集まる。
湊人は、内心でごく小さく息を呑んだ。
行きたくないわけではない。
むしろ、こういう“何となく放課後に寄り道する約束”は、少し前の自分なら想像もしていなかったものだ。
普通の高校生らしくて、楽しそうで、しかも今の自分にはちゃんと混ざれる気がする。
なのに、行けない。
夜の予定があるから。
天瀬アルトとしての仕事があるから。
「……今日は、少し」
言葉を選んだ瞬間、真白の眉がわずかに動く。
「やることが?」
先回りするように言われる。
「はい」
「また?」
すばるが言う。
「また、です」
「何その、毎回ふわっとしてる予定」
日野が苦笑する。
「家の手伝いとか?」
「まあ……近いようなものかもしれません」
完全に嘘ではない。
でも、真実には遠い。
真白は頬杖をつきながら、じっとこちらを見た。
「アンタって、ほんと時々いなくなるよね」
それは、思っていたよりずっとまっすぐ胸に刺さった。
いなくなる。
たしかにそうだ。
学校にいる間はここにいるのに、放課後や夜の話になると、急に別の場所へ行ってしまう。
それは彼らから見れば、そういう印象になるのかもしれない。
「……すみません」
思わずそう返すと、真白は少しだけ顔をしかめた。
「謝れって意味じゃない」
「でも」
「別に責めてるわけじゃなくて、ただそう見えるって話」
「そう、ですよね」
湊人は曖昧に笑った。
「たぶん、そうなんだと思います」
その返しに、真白は少しだけ何か言いたそうな顔をした。
だが、そこで一限の始業ベルが鳴る。
会話はそのまま切れた。
◇
授業が始まっても、さっきの一言が頭の隅に残っていた。
時々いなくなる。
学校の久瀬湊人と、配信の天瀬アルト。
その二つを両立させるためには、どうしたって“どちらかから少し消える時間”が必要になる。
それは最初から分かっていたことだ。
ただ、実際に誰かからそう見えていると気づくと、思っていたよりずっと落ち着かない。
数学の式を追いながら、湊人は自分のノートの端を眺めていた。
金曜日までは、少しずつ学校の居場所が増えていくことを、どこか嬉しく思っていた。
教室の席。
窓際の昼休み。
放課後のコンビニ。
公園のベンチ。
でも居場所が増えるということは、そこへ“ちゃんといること”を期待されるということでもある。
当然だ。
人は、そこにいてくれると思った相手がいないと、少しだけ引っかかる。
それは配信でも同じだった。
決まった時間に配信を開けば、「今日も来てくれてありがとう」と言われる。
逆に、予定していたものが飛べば、「どうしたの」「大丈夫?」とコメントが流れる。
どちらの世界でも、自分は“いる”ことを前提にされ始めている。
それが、ほんの少し怖い。
◇
二限目が終わった休み時間、すばるが机に身を乗り出してきた。
「ねえ、ほんとに今日ダメ?」
「はい?」
「ゲーセン」
「ああ……」
「そんなに長くいないよ? 一時間もかからないと思う」
「鳴海、それもう結構いるでしょ」
真白が言う。
「え、そう?」
「放課後に一時間ってまあまあ長いわよ」
「でも駅前行って、ちょっと見て、ちょっと遊んでってしたらそれくらい経たない?」
「それをまあまあ長いって言うの」
そんなやりとりの間にも、すばるは完全に行く気だった。
日野も「せっかくだしなー」という顔をしている。
ここで改めて断るのは、想像以上に気が重い。
最初に聞かれた時点で無理だと答えているのに、なお誘ってくれるのは、それだけ“いて当然側”へ自分が少し寄っているからだろう。
それは本来、うれしいことのはずなのに。
「本当に、今日は難しいんです」
なるべくやわらかく言う。
「夜までに済ませないといけないことがありまして」
「また夜?」
真白が言う。
「……そうです」
「ほんと夜に多いね」
「家の都合、なんだっけ」
日野が何気なく言う。
「そんな感じです」
「ふーん」
すばるは頬を膨らませた。
「なんか、ずるいなあ」
「何がですか」
「そこまで言われると、それ以上聞きにくいとこ」
その言葉に、湊人は少しだけ目を伏せる。
まさにその通りだった。
具体的に話せないから、曖昧な言い方で線を引く。
すると相手は、それ以上踏み込めなくなる。
それは便利だ。
便利だけれど、同時に、相手との距離に薄い膜を張るやり方でもある。
「……ごめんなさい」
今度は、さっきより少し小さな声で言った。
すると、真白がすぐに反応する。
「だから謝るなって」
「でも」
「行けないなら行けないでいいでしょ。ただ」
「ただ?」
真白は一瞬だけ言葉を止めた。
「……毎回そんな感じだと、こっちが勝手に予定に入れにくくなる」
それは責めているようで、責めていなかった。
むしろ、少しだけ寂しそうに聞こえた気がしたのは、自意識過剰だろうか。
「すみま――」
「それ禁止」
真白が即座に遮る。
「じゃあ、ええと」
「困ったら黙ってなさい」
「厳しいですね」
「アンタにはちょうどいい」
すばるがそこへ割って入る。
「でも分かる。なんか久瀬くんって、ちゃんと断るけど、ちゃんといない感じするんだよね」
「日本語が少しおかしくないですか」
「おかしいけど伝わるでしょ」
「……少しだけ」
「でしょ」
伝わる。
嫌なくらいに。
ちゃんと断る。
でもちゃんといない。
天瀬アルトとして活動している夜の自分のぶんだけ、学校の自分はどこか欠ける。
それを、彼らはもう感じ始めているらしい。
◇
昼休みの窓際は、いつも通りだった。
パンを買って、飲み物を置いて、なんとなく四人が集まる。
ただ、いつもと違うのは、今日は少しだけ会話の間に引っかかりがあることだった。
すばるは基本的に引きずらない性格だ。
日野も空気を重くするタイプではない。
真白は、言いたいことがあれば言う。
だから本来なら、朝の「放課後どうする?」の話なんて、すぐに流れていてもおかしくない。
でも流れきっていない。
少なくとも湊人自身の中では、まだ残っている。
「今日のコロッケパン、ちょっと潰れてる」
すばるが言う。
「購買ってたまに雑だよね」
「激戦区だし」
日野が返す。
「真白は今日何?」
「ツナ」
「安定」
「鳴海は甘いの?」
「脳が疲れてるから」
「まだ昼なのに?」
「午前から疲れることもある」
「例えば?」
「例えば……」
すばるは一瞬だけこちらを見てから、わざとらしく視線を逸らした。
「いろいろ」
それは、明らかに“分かるでしょ”の顔だった。
つまり、今朝のことをまだ少し引きずっているのだろう。
湊人は小さく息を吐く。
ここで下手に取り繕っても、たぶん余計によくない。
「鳴海さん」
「なに」
「もし、次に皆さんでどこかへ行く話がある時は」
三人がこちらを見る。
「……なるべく早めに言っていただければ、その、合わせられるかもしれません」
言いながら、自分でも曖昧だと思った。
絶対に合わせられるわけではない。
配信や案件の予定は、急に入ることもある。
でも、何も返さないよりはいい気がしたのだ。
すばるはぱちぱちと瞬きをしてから、少しだけ表情をやわらげた。
「それって、行きたくないわけじゃないってこと?」
「はい」
湊人は正直に頷く。
「むしろ、行けるなら行きたいです」
「……そっか」
すばるの声が少しだけ軽くなる。
「じゃあ今度はちゃんと先に言う」
「ありがとうございます」
「だからそこ丁寧すぎ」
真白が言う。
「でもまあ、分かったならいい」
「柊坂さんは」
「なに」
「怒っていましたか」
「別に怒ってない」
即答だ。
でも、そのあとに少しだけ間を置いて続ける。
「ただ、また急にいなくなるんだろうなって思っただけ」
さらりと言われたその一言が、妙に重かった。
また急にいなくなる。
言葉としては軽い。
でも、自分がここ数日で作ってしまった印象を、そのまま言い当てている。
「……そう見えるなら、気をつけます」
湊人が言うと、真白は少しだけ眉をひそめた。
「気をつけるって何」
「その……」
「いなくならないように?」
「できれば」
「できれば、なのね」
「はい」
「じゃあ、まあ、努力して」
それは真白なりの譲歩のようにも聞こえた。
日野がそこで空気を変えるように笑う。
「なんか今日ちょっと重くね?」
「お前が言う?」
すばるが呆れる。
「いや、だってせっかくの昼じゃん。もっと軽い話しようぜ」
「例えば?」
「例えば……久瀬が次に購買でどこまで進化するか」
「まだそこやる?」
真白が半眼になる。
「もうたまごサンド卒業したんでしょ」
「コロッケパンまで行きました」
「地味」
「でも揚げ物ですよ」
「そこ胸張る?」
ようやく、いつもの調子の笑いが戻る。
少しだけ、救われた。
◇
放課後。
日野とすばるは本当に駅前へ寄る気らしく、教室でまだ少し話していた。
真白も、今日はどうするか迷っているらしく、荷物をまとめながら曖昧な顔をしている。
その空気の中で、湊人は時計を見た。
もう、余裕はあまりない。
帰宅して、機材を立ち上げて、事前通話の準備をしなければならない。
けれど、こんな日に限って、立ち去るのが妙に後ろめたい。
「……僕は、今日は先に」
鞄を持ちながらそう言うと、日野が顔を上げた。
「おう、了解。またな」
その返事は軽い。
だが軽いぶんだけ、余計に胸に残る。
すばるも「今度は早めに言うからね」と言ってくれた。
真白だけは少し遅れてから、ぽつりと口を開く。
「久瀬」
「はい」
「今日は仕方ないとして」
「……はい」
「次、もし来られる日があったら」
言葉を探すように少しだけ目を逸らしてから、続ける。
「ちゃんと来なさいよ」
その言い方は命令口調なのに、なぜか少しだけ救いみたいに聞こえた。
湊人はほんの少し目を見開いて、それから小さく笑った。
「努力します」
「そこは“行く”でしょ」
「約束を軽く言いたくないので」
「そういう真面目さ、たまに面倒」
「すみません」
「だから謝るなって」
真白は呆れたように息を吐いた。
「……でも、まあ」
「はい」
「来る気があるなら、それでいい」
それだけ言って、視線を逸らす。
湊人はその横顔を少しだけ見てから、「では、また明日」と教室を出た。
◇
家に着く頃には、空はほとんど夜の色になっていた。
靴を脱ぎ、自室に入り、制服を脱ぎながらも、頭の中ではさっきの会話が何度も反芻される。
また急にいなくなる。
ちゃんと来なさいよ。
来る気があるなら、それでいい。
どれも大きな言葉ではない。
でも、自分が学校の側で“いてほしい相手”として少しずつ扱われ始めているのが分かるには十分だった。
それはうれしい。
でも、苦しい。
PCを立ち上げ、配信機材の確認を始める。
事前通話の通知が点滅し、マネージャーからは「本日少し巻き進行になるかもしれません」とメッセージが入っている。
こちらの世界では、待ってくれている人がいる。
天瀬アルトが時間通りに現れることを前提に、スタッフも、先輩も、リスナーも動いている。
学校と配信。
どちらにも“いること”を求められる。
でも同じ顔ではこなせない。
それが今の自分だ。
「……難しいな」
独り言が静かな部屋に落ちる。
マイクの位置を直しながら、湊人はふと思った。
昼休みに約束した“今度は早めに言ってもらえれば、合わせられるかもしれない”という言葉は、自分にとっても一種の約束だったのかもしれない。
配信をやめることはできない。
学校生活を捨てたいわけでもない。
なら、隠すだけではなく、少しは工夫しなくてはならない。
そうしなければ、きっとまた“時々いなくなる人”のままだ。
通知が鳴る。
AstraLink事前通話開始。
画面の向こう側へ入る前に、湊人は一度だけ深く息を吐いた。
今夜も天瀬アルトとして笑う。
先輩の距離感をやんわりかわし、コメント欄の温度を整え、見ている人に安心してもらう。
それは自分にできる。
でも、昼休みの窓際や放課後の約束に対して、同じように上手く振る舞えるかは分からない。
学校の僕と、配信の僕。
どちらも嘘ではない。
どちらも自分だ。
だからこそ、その間でこぼれるものがある。
通話へ接続する直前、スマホが一度だけ震えた。
クラスのグループではなく、個人メッセージだ。
送り主は、鳴海すばる。
『今日は残念だったけど、今度ほんとに早めに声かけるから』
短い一文。
そのあとに、なぜか音ゲーキャラのよく分からないスタンプが一つ。
湊人は思わず小さく笑ってしまった。
それにすぐ返信する時間はない。
けれど、そのメッセージが胸のあたりを少しだけ軽くしたのは事実だった。
昼の約束と夜の予定は、同じ顔ではこなせない。
でも、それでも、どちらも失いたくないと思ってしまった時点で、もう簡単な話ではないのだろう。




