第10話 その子は学校では静かで、配信では頑張り屋だった
月曜日の夜、案件込みの短時間配信を終えた天瀬アルト――久瀬湊人は、マイクの電源を落としたあともしばらく席を立てなかった。
画面の右下では、配信ソフトの終了確認が静かに点滅している。
けれど、その小さなウィンドウへ手を伸ばす前に、頭の中では別のことが回っていた。
昼休みの窓際。
真白の「また急にいなくなるんだろうなって思っただけ」という声。
放課後の「ちゃんと来なさいよ」という、半分命令みたいで、でも少しだけやわらかい言い方。
そして鳴海すばるから届いた短いメッセージ。
学校の方で、自分が“来るかどうか”を気にされている。
それは予想していた以上に、胸の奥へ残るものだった。
うれしい。
けれど、うれしいだけでは済まない。
夜の自分には夜の責任があるからだ。
「……両立って、思ったより難しいな」
独り言が部屋の静けさに溶ける。
配信者として活動を始めた頃は、学校とここまで噛み合う未来は想像していなかった。
配信は配信で完結し、学校は学校で静かに流れていくものだと思っていた。
でも現実は違う。
鳴海すばるみたいに、学校側から配信の世界へ強い関心を持つ人もいる。
そして学校側には学校側で、自分が“そこにいること”を求めてくる関係が、少しずつでき始めていた。
そんなことを考えながら、湊人は配信ソフトを閉じる。
その流れで、事務所共有サーバーを確認する。
大きな動きはない。
セレナ先輩が「今日の案件先方さん反応よかったわよ」と全体チャットへ軽く書き込み、ハルが「アルトくん今日も綺麗にまとめすぎ」と半分冗談で絡み、エルザが短く「お疲れさま」とスタンプを押している。
その何気ない流れの下の方に、ひっそりと新人向けチャンネルの通知が一つ点いていた。
小毬こはく。
その名前を見た瞬間、少しだけ意識がそちらへ寄る。
昨日、自分が短く送ったメッセージには丁寧な返信が来ていた。
まだ会ったことのない後輩。けれど、画面越しにはもう何度か声を聞いている。真面目で、少し堅くて、でも頑張りがちゃんと見える新人。
湊人は通知を開いた。
『本日、配信時間を少し早めに変更します。短めですが、近況をお話しできたらと思っています』
小毬こはくからの事務所向け共有だった。
今日は早めの配信らしい。
珍しいな、と少し思う。
新人はまだ、自分の時間帯を手探りで探していることが多い。どの時間にどういう層が来てくれて、どのくらいの長さなら自分が無理なく続けられるか。配信というのは始めるよりも、続ける方がずっと難しい。
少しだけ迷ってから、湊人はその時間を確認した。
もうすぐ始まる。
「……少しだけ見るか」
誰に言い訳するでもなく呟いて、アーカイブではなくリアルタイムの枠を開いた。
◇
待機画面には、思っていたより多くのコメントが流れていた。
『待機』
『こはくちゃんきたー』
『今日ちょっと早いね』
『無理しないでね』
『楽しみ』
新人としてはかなり恵まれている方だろう。
登録者二十万人という数字自体が、そもそも新人の入口としては十分に大きい。けれど、その数字の重さは、本人にとって必ずしも安心には繋がらないことを湊人は知っていた。
期待されるほど、失敗が怖くなる。
見られるほど、自分の足りなさが気になる。
新人のうちは特に、それが配信へそのまま出やすい。
やがて開始音が鳴り、いつものやわらかい声が流れた。
『こんばんは、小毬こはくです。来てくださってありがとうございます。今日は少しだけ、最近のことをお話ししながら、のんびりできたらうれしいです』
初回に聞いた時と同じ印象だった。
やわらかい。
でも、ただふわふわしているだけではない。
声の奥に、ちゃんと“踏ん張っている人”の芯がある。
だから聞いている側は、安心しきるのではなく、少しだけ姿勢を正して見守りたくなる。
小毬こはくは、いくつかのコメントを拾ったあと、少しだけ笑った。
『今日はですね、学校とかお仕事とか、皆さんそれぞれお忙しい時間かなと思うんですけど……その中でも来てくださって、ありがとうございます』
その言葉に、湊人の手が少しだけ止まる。
学校とか、お仕事とか。
たぶん一般的な挨拶の一つにすぎない。
けれど今の自分には、その両方がかなり切実だった。
コメント欄がやさしく流れる。
『学生だよー』
『仕事終わりです』
『今帰宅中』
『こはくちゃんの声聞きながら休む』
『今日もしっとりで助かる』
小毬こはくは、一つ一つ丁寧に返していく。
『学生さんもお疲れさまです。月曜日って、なんだか少しだけ長く感じますよね』
『お仕事終わりの方も、本当にお疲れさまです』
『ご帰宅中の方は、お気をつけてくださいね』
ああ、と思う。
この子は、ちゃんと見ようとしている。
まだ上手さだけで言えば足りない部分もある。コメントの流れに少し遅れる時もあるし、間を怖がって余計な一言を挟みそうになる瞬間もある。
でも、画面の向こうに“今来ている人”を置こうとしているのが分かる。
それは配信の根本として、かなり大事なことだった。
しばらく雑談が続いたあと、ふと小毬こはくは声の調子を少し変えた。
『最近、ちょっとだけ思うんですけど……配信って、ちゃんと来てくださる場所にしたいなって』
コメント欄が少しだけゆっくりになる。
『それ、すでにそうだよ』
『十分来てる場所だよー』
『こはくちゃん枠落ち着く』
『どうしたの?』
小毬こはくは、慌てず、でも慎重に続きを言う。
『いえ、あの……毎回来てくださる方がいたり、少しずつお名前を覚えられるようになってきたりして、それがすごくありがたいなと思う一方で……その分、ちゃんと“ここにいてよかった”って思ってもらえるようになりたいなって』
湊人は画面を見たまま、少しだけ息を止めた。
ちゃんと来てくださる場所。
ここにいてよかったと思ってもらえるように。
それは、今の自分がまさに学校側でも突きつけられ始めた感覚に近い。
いること。
来ること。
そして、その場にいてよかったと思われること。
配信も、学校も、本質的には似ているのかもしれない。
人との繋がりを作るという意味では。
『十分そう思ってるよ』
『こはくちゃん真面目で好き』
『あんまり背負いすぎなくていいよ』
『そこが好き』
コメントはやさしい。
でも、そのやさしさが逆に重圧になる時もあることを、湊人は知っていた。
小毬こはくは少しだけ照れたように笑う。
『ありがとうございます。えへへ……なんだか、変なこと言っちゃったかもしれません』
変なことなんかじゃない。
むしろ、かなり大事なことだ。
画面の端に内部メッセージの通知が上がる。
見なくても分かる。たぶん、事務所の誰かが裏で見ていて、何かしら書き込んだのだろう。
でも今は、その通知を開かずに、小毬こはくの配信を見ていたかった。
◇
翌日、学校では一限目から移動教室があった。
理科室へ向かう階段を上がりながら、湊人は昨夜の配信をまだ少し引きずっていた。
小毬こはくの声。
“ちゃんと来てくださる場所にしたい”という言葉。
たぶん、自分が過剰に反応している。
でも今の自分には、その言葉がやけに近く感じられた。
「久瀬ー、ぼーっとしてると階段踏み外すぞ」
日野の声で我に返る。
「すみません」
「最近多くない? 考えごと」
すばるが言う。
「またアルトに似てる顔してる」
「どういう顔ですか」
「ちょっと遠く見てる顔」
「それは人類共通じゃない?」
真白が冷静に言う。
理科室の前で、四人が自然に固まる。
席は自由ではないので授業中は離れることもあるが、移動の時にこうしてなんとなく一緒になるのは、もうかなり自然な流れになっていた。
「そういえば」
すばるが鞄の持ち替えと同時に言う。
「昨日、こはくちゃん見た」
心臓が一瞬だけ跳ねた。
「どうでしたか」
なるべく自然に聞く。
「よかったよー。やっぱり真面目なんだよね。なんか、“ちゃんと来てくださる場所にしたい”みたいなこと言ってて」
その一言で、湊人は少しだけ視線を下げた。
同じ場所を聞いていた。
同じ言葉を覚えていた。
「へえ」
真白が相槌を打つ。
「それ、なんか分かるかも」
「真白、見たの!?」
すばるが飛びつく。
「見てない。鳴海の話から想像しただけ」
「なんだー」
「でも、そういうの考える子なんでしょ」
「考える考える。ああいうとこほんと真面目」
すばるは満足そうに頷いた。
「アルトが“安心して見てられる人”なら、こはくちゃんは“ここから良くなるって信じたくなる人”って感じ」
「へえ」
日野が感心したように言う。
「推し解説してる時の鳴海、ほんと語彙増えるよな」
「推しは語彙を育てるから」
「変な名言みたいに言うなよ」
湊人はその会話を聞きながら、少しだけ不思議な気持ちになっていた。
配信の世界の話を、学校の廊下で、制服姿の同級生たちがしている。
そして、その話題の中には自分もいて、まだ会っていない後輩もいる。
世界が少しずつ重なっている。
でも、重なり方はまだ遠い。
◇
三限目のあと、教室へ戻る途中で、小さなハプニングが起きた。
廊下の角で、前から歩いてきた女子と軽くぶつかりそうになったのだ。
その瞬間、湊人は反射的に半歩引いて相手を先に通し、「どうぞ」と道を譲った。
ほんの一秒もない自然な動きだった。
だが、それを見ていたのがすばるだった。
「……ほら」
ぼそっと言う。
「またそれ」
「何がですか」
「そういうとこ」
「ただ道を譲っただけですが」
「その“だけ”が自然すぎるの!」
すばるは小声なのに勢いだけはある。
「今の、絶対アルトのコラボ時の受け方と同じ種類のやつじゃん」
「種類のやつ、って日本語雑ね」
真白が呆れる。
「でも分からなくもない」
「真白!?」
「いや、配信は見てないけど、鳴海の言ってる“相手を先に立てる感じ”はなんとなく」
真白がさらりと言ってのける。
それが一番危ない。
湊人は少しだけ肩をすくめた。
「昔からこうなので」
「でた、“昔から”」
すばるが即座に反応する。
「便利ワード」
「事実です」
「その返し方も好きなんだよなあ」
「鳴海、それ毎回言うのやめなさい」
真白が冷静に刺す。
「誤解されるでしょ」
「いや、だから推し文脈の好きで――」
「もうその言い訳も危ない」
日野が笑う。
教室へ戻る道すがら、すばるはまだ少し納得していない顔をしていた。
だが、その表情には以前よりも遊びがある。
本気で“本人かもしれない”と疑っているというより、引っかかる共通点を見つけるたびに、オタクとしての勘が勝手に騒ぐのを自分でも楽しんでいるような顔だ。
それはそれで困るのだが、少しだけ救いでもある。
少なくとも今は、決定的な何かに辿り着いているわけではない。
◇
昼休みの窓際。
いつものようにパンと飲み物を並べながら、日野が何気なく言った。
「そういやさ、来週あたり、またどっか寄る?」
「え、なに急に」
すばるが反応する。
「この前ゲーセン行けなかったし。今度は早めに言えば久瀬も来れるんだろ?」
その言葉に、湊人は少しだけ手を止めた。
早めに言えば。
その約束は、たしかに自分で口にしたものだ。
「……たぶん」
「たぶんかよ」
日野が笑う。
「でも前よりは前向きじゃん」
「それは、まあ」
「来てほしいってこと?」
すばるがにやにやしながら聞く。
「鳴海、聞き方」
真白が呆れる。
「だって大事じゃん」
「大事なのは分かるけど雑」
「じゃあ真白はどうなの」
「何が」
「久瀬が来た方がいい?」
一拍、間が落ちる。
真白はツナパンの袋を開けながら、視線を上げずに言った。
「……来れるなら、来た方がいいんじゃない」
「おお」
日野が面白そうに声を出す。
「今の結構レアじゃね?」
「うるさい」
真白は即座に睨む。
「別に深い意味はないし」
「なくてもだいぶ進歩」
「うるさい」
「二回言った」
「日野」
「はいはい」
湊人はそのやりとりを聞きながら、少しだけ胸のあたりがあたたかくなるのを感じた。
来れるなら、来た方がいい。
それだけの言葉なのに、不思議と残る。
学校の居場所は、放っておくと勝手に増えていくわけではない。
そこに“来る”こと、“いる”ことを少しずつ重ねて、ようやく形になる。
そして今、自分はその入口で立ち止まりかけているのかもしれない。
夜の予定と、昼の約束。
その両方を抱えたまま、どこまでやれるのか。
まだ答えは出ない。
でも少なくとも、答えを出さなければならない段階には入ってきている。
◇
その日の夜、湊人は自室でAstraLink共有サーバーを開いていた。
小毬こはくから、また短い書き込みがある。
『本日の配信、少しだけコメントを拾う余裕が増えた気がしました。昨日いただいたお言葉も意識してみました。ありがとうございます』
昨日自分が送ったメッセージへの返答も兼ねているのだろう。
一つずつで大丈夫。
その言葉を、ちゃんと受け取って試したらしい。
湊人は少しだけ考えてから、短く返す。
『ご自身で変化を感じられたなら、それはとても良いことだと思います。少しずつでも積み重ねれば、必ず形になりますよ』
送信してから、少しだけ天井を見上げる。
少しずつ。
積み重ね。
形になる。
それは小毬こはくへの言葉でもあり、今の自分への言葉でもある気がした。
学校の方でも、配信の方でも、居場所は急には完成しない。
少しずつ、来て、話して、笑って、断って、また約束して。
その繰り返しの中でしかできない。
まだ会ったことのない後輩は、画面の向こう側で頑張っている。
学校では、隣の席や窓際の場所が、自分を少しずつ待つようになっている。
そのどちらも、思っていた以上に大事になり始めていた。
PCの画面には、自分の次の配信予定が表示されている。
その横には、学校のスケジュールが入ったスマホ。
昼と夜。
現実と配信。
静かな教室と賑やかなコメント欄。
その全部を眺めながら、湊人は小さく息を吐いた。
「……やっぱり、簡単じゃないな」
でも、簡単じゃないからこそ、少しだけ本気になってしまうのかもしれない。




