第11話 憧れの人は遠いままでいい、そう思っていたのに
倉科紬希は、朝の教室という場所が少し苦手だった。
昼休みや放課後はまだいい。ざわつきにも種類があって、誰が誰と話していて、自分がどこに立てば邪魔にならないか、なんとなく見えるからだ。
でも朝だけは違う。
眠たそうな人、機嫌が悪そうな人、まだ完全に学校の顔になっていない人たちが、半端なまま同じ空間に集まってくる。
そこへ自然に入っていける人もいるけれど、紬希はどちらかといえば、少し離れた場所から様子を見てしまう方だった。
だから今日も、教室へ入ったあとすぐに席へ座って、鞄から教科書を取り出すふりをしながら、クラスの空気がほどけていくのを静かに眺めていた。
視線の先には、窓際の一角がある。
久瀬湊人。
柊坂真白。
鳴海すばる。
日野直純。
最近、あのあたりは朝から少し賑やかだ。
久瀬くんが転校してきた最初の頃は、ただ“新しい人がいる”という空気だった。
でも今は違う。
もうちゃんと、そこにいる人になっている。
不思議だな、と紬希は思う。
久瀬湊人という人は、地味だ。
派手な髪でもないし、声を張るわけでもないし、自分から輪の中心へ入っていくタイプにも見えない。
なのに、いつの間にか人が近くにいる。
それは、きっとあの人が話しかけやすいからではなく、話しかけた時に相手をちゃんと受け止めるからなのだろう。
「おはようございます」
今もそうだ。
日野くんの軽い話しかけ方にも、鳴海さんの熱量にも、柊坂さんの少し尖った言葉にも、久瀬くんは変に慌てず、でも冷たくもしない温度で返している。
柔らかい。
でも、曖昧ではない。
その会話の空気を、紬希は少し離れた席からなんとなく聞いていることが多かった。
理由は自分でもよく分からない。
ただ、聞いていると少しだけ落ち着くのだ。
◇
倉科紬希には、誰にも言っていないもう一つの顔がある。
学校では目立たない、ごく普通の女子高校生。
けれど画面の向こうでは、AstraLink所属の新人VTuber――小毬こはく。
登録者数二十万人。
新人としては十分すぎる数字だ。
でも、紬希の感覚では、二十万人という数字は安心よりも先に重さとして胸へ乗ってくる。
二十万人もの人が登録してくれている。
なら、もっと上手く話せないといけないのではないか。
もっと安定して、もっと魅力的に、もっと“来てよかった”と思われる配信をしないといけないのではないか。
そんなふうに考えてしまうと、いつまで経っても自分の配信に満足できない。
それでも続けていられるのは、たぶん、見てくれる人たちがやさしいからだ。
それから、同じ箱の先輩たちの存在があるから。
とくに――天瀬アルト。
AstraLinkの中でも、誰もが知る看板ライバー。
登録者数二百万人超え。
柔らかいのに、ただ優しいだけでは終わらない返し。
王子様っぽいのに、妙に生活の近くへ来てくれる話し方。
遠い人だ、と思う。
同じ事務所なのに、まるで別の世界にいるみたいに遠い。
直接話したことはまだない。
共有サーバーで短いメッセージを交わしたことはある。箱内通話を見学した時、チャットで挨拶をしたこともある。
でもそれだけだ。
それだけなのに、声を聞いていると、ときどき救われてしまう。
配信がうまくいかなかった夜。
少しだけ数字に落ち込んだ時。
コメントの少ない沈黙が怖くて、枠を閉じたあとに一人で反省してしまう時。
そんな時にアルトの雑談を流すと、不思議と“次もやってみよう”と思えてしまう。
遠い人のままでいい。
遠いからこそ憧れられるし、遠いままだから尊敬の形が崩れない。
紬希はずっと、そう思っていた。
◇
四限目のあと、教室が昼休みの空気に変わる。
椅子が引かれ、購買へ走る人がいて、学食へ向かう足音が続く。
紬希はいつものようにお弁当袋を取り出した。
今日は母が朝早く出る日だったので、自分で詰めた簡単なお弁当だ。見せびらかすようなものではないから、できるだけ静かに食べられる場所がいい。
窓際からは、いつもの四人の声がしている。
鳴海さんが今日も何か熱弁していて、日野くんが笑いながら流し、柊坂さんが呆れ、久瀬くんがやわらかく相槌を打っている。
その音を聞きながら、紬希は少しだけ席を立つのが遅れた。
「……あ」
立ち上がろうとした瞬間、鞄の持ち手にお弁当袋が引っかかり、中身が少しだけ傾いた。
慌てて支えようとしたが、箸箱が机から落ちてしまう。
軽い音。
それほど大きくはない。けれど、近くにいれば気づくくらいの音だった。
「大丈夫ですか」
真っ先に聞こえたのは、やっぱり久瀬くんの声だった。
紬希が振り向くと、彼はすでにこちらへ歩いてきていた。
そして、こちらがしゃがむより少し早く、床へ落ちた箸箱を拾い上げる。
「はい、どうぞ」
「え、あ……ありがとうございます」
受け取る時、少しだけ指先が触れそうになって、紬希は小さく肩をすくめた。
別にそれ自体は何でもない。
でも、こういう時の久瀬くんは、いつも妙に動きがきれいで、変に意識してしまう。
「中身は大丈夫そうですか」
「は、はい。たぶん」
「それならよかったです」
そう言って、彼はそれ以上踏み込まずに元の場所へ戻ろうとした。
それがまた、少しだけ不思議だった。
親切な人はいる。
でも、親切な人の中には、助けたあとにそのまま会話を広げたがる人も少なくない。
けれど久瀬くんは、必要な分だけ手を伸ばして、終わったら引く。
それが変に気楽で、ありがたい。
「あの」
気づけば、紬希の方から声をかけていた。
久瀬くんが振り返る。
「はい」
「この前も……ノート、ありがとう」
先週、移動教室の時に置き忘れかけたノートを、彼がさりげなく持ってきてくれたことがあった。
あの時はちゃんとお礼を言いそびれていたのだ。
「いえ、あれくらい」
「でも、助かりました」
「そう言っていただけるとよかったです」
短い会話。
なのに、そのやりとりの温度がちょうどよくて、紬希は少しだけほっとする。
そこへ鳴海すばるが横から顔を出した。
「倉科さん、お弁当?」
「え、う、うん」
「いいなあ。今日購買ちょっと激戦だったんだけど」
「また負けかけてたわよね、アンタ」
真白が言う。
「今日は私じゃなくて日野がでしょ!」
「俺はちゃんと買えたって」
「最後のクリームパン争奪戦、あれはだいぶ危なかった」
「鳴海、その表現だと戦場すぎる」
日野が笑う。
いつの間にか、紬希もその輪の端に少しだけ入っていた。
「倉科さんも、こっちで食べる?」
日野が気軽に聞く。
「え?」
「ここ、まあまあ人いるけど、別にうるさすぎないし」
「いや、その……」
紬希は一瞬だけ迷った。
窓際の四人組。
最近は自然とその形になっているけれど、自分がそこへ混ざるのはまだ少し早い気がする。
そう思っていると、真白があっさりと言った。
「別に食べるだけならいいんじゃない」
「柊坂、そういう時は普通に言うんだ」
「何よ」
「いや、もっと“別に好きにすれば”みたいに来るかと」
「鳴海、それ私を何だと思ってるの」
「ちょっと面倒見のいいツン」
「最後だけ余計」
そのやりとりがなんだかおかしくて、紬希は少しだけ笑ってしまった。
「……じゃあ、お邪魔じゃなければ」
「全然」
日野が言う。
「むしろ鳴海の独演会が少し薄まって助かる」
「ひどい!」
「でも事実」
真白が即答する。
結局、その日、紬希は初めて窓際の場所でお弁当を開いた。
◇
思っていたより、居心地は悪くなかった。
会話の中心は相変わらず鳴海すばるが握りがちだし、真白は必要以上に甘い空気を作らないし、日野は気軽で、久瀬くんは静かに全体を受けている。
そのバランスが妙に整っていて、紬希は少し驚いた。
「倉科さんって、わりと静かに食べるんだね」
日野が言う。
「え、あ……そうかも」
「分かる」
真白が頷く。
「たぶんこの中だと一番“ちゃんと食べる”感じする」
「それ褒めてる?」
すばるが聞く。
「たぶん」
「たぶんって」
また笑いが起きる。
紬希はその流れの中で、小さく息をついた。
自分から会話を回すのは苦手だ。
でも、こうして誰かが作ってくれた会話に少しだけ乗るのは、そこまで怖くない。
「そういえば倉科さん」
すばるが急にこちらを向く。
「配信とか見る?」
その単語に、紬希の心臓が一瞬だけ変な跳ね方をした。
「え」
「いや、なんとなく。こういう話してると全然入ってこないから、興味ないかなって」
「……み、見るよ」
「お、見るんだ」
日野が言う。
「誰とか?」
「えっと……いろいろ」
ここで具体名を出すのは、なぜか少し恥ずかしい。
もちろん、本当は言える。
AstraLink所属の天瀬アルトが好きで、雑談をよく聞いていて、返し方や空気の整え方を勉強させてもらっていることも。
でも、それを学校で言うのは、なんとなく自分の部屋の中を見せるみたいで落ち着かなかった。
「“いろいろ”はずるい」
すばるが言う。
「そこは一人くらい代表出そうよ」
「鳴海、それ毎回人に求めすぎ」
真白が刺す。
「だって気になるじゃん」
「気になっても全部聞いていいわけじゃないでしょ」
「……それはそうだけど」
そこで会話が少し途切れた。
紬希は内心、少しだけ助かる。
だが、ほっとしたのも束の間だった。
「じゃあ倉科さんは、落ち着く系と賑やか系ならどっちが好き?」
すばるが別角度から攻めてきた。
さすがにオタクの質問の回り込み方が上手い。
「ええと……」
紬希はお弁当箱を見つめる。
「どっちも好きだけど、強いて言えば、落ち着く系かな」
「ほらー!」
すばるが勢いよく机を叩く。
「絶対アルト合うじゃん!」
その名前が出た瞬間、紬希の手が止まりそうになった。
「鳴海、すぐそこに着地するのやめなさい」
真白が言う。
「だって今の流れなら自然でしょ!」
「自然じゃなくて強引」
「でも絶対合うって! 優しいし、うるさくないし、でもちゃんと人のこと見てる感じあるし」
すばるは熱弁モードに入りかけていたが、そこでふと紬希の顔を見て、あっと気づいたように勢いを緩めた。
「……あ、ごめん。急にまた布教しようとした」
「ううん、大丈夫」
紬希は少し笑った。
「知ってるから」
「えっ」
「天瀬アルトさん」
言った瞬間、なんだか妙に胸が熱くなった。
「私も……好き、というか、よく見る」
すばるの目が一気に輝く。
「まじで!?」
声が大きい。
日野が笑い、真白が「声」と小さく注意した。
「まじで!?」
今度は少しだけ小声になる。
「倉科さん、そっち側だったの!?」
「そっち側って何」
「いや、推しを共有できるかもしれない側」
「そこ曖昧だな」
日野が言う。
紬希は頬が少し熱くなるのを感じながら、続けた。
「雑談が、好きで」
「分かる!!」
すばるが今にも立ち上がりそうな勢いで頷く。
「どこ!? どこが好き!?」
「ちょっと落ち着いて」
真白が冷静に止める。
「鳴海、その質問の仕方だと尋問」
「違う、共感したいだけ!」
「今は五割くらい圧」
そのやりとりに紬希は少しだけ笑った。
笑ってから、静かに答える。
「……コメントへの返し方が、すごく綺麗だなって思ってる」
その一言で、なぜか窓際の空気がほんの少しだけ静かになった。
湊人が、わずかに視線を上げる。
でもすぐにいつもの穏やかな顔に戻った。
「わかる……!」
すばるが両手で頭を抱える。
「そこなんだよ! そこ! ただ優しいだけじゃなくて、ちゃんと前に進める感じ!」
「うん」
紬希は小さく頷く。
「やさしいのに、逃げてる感じがしないの」
言ってから、自分で少し驚いた。
かなり本音だった。
遠い人だ。
でも遠いまま、ただ綺麗なだけではない。
ちゃんと人の前に立って、言葉を返して、受け止めて、それでも崩れない。
そういうところに、憧れている。
「……へえ」
真白が言う。
「そういう見方するんだ」
「え?」
「いや、なんか」
真白は少し考えるように言葉を探した。
「鳴海の“王子〜!”って感じの好きとは、また違うから」
「それはそう」
すばるが即答する。
「私は“王子〜!”もあるけど、倉科さんのはもっと……ちゃんと分析してる感じ」
「そ、そんなことない」
「あるある」
日野まで頷く。
「今の“逃げてる感じがしない”とか、だいぶ見てる人の言葉じゃん」
紬希はさらに頬が熱くなるのを感じた。
「……たまたま」
「その“たまたま”も怪しい」
すばるがにやにやする。
「倉科さん、けっこうガチで見てるでしょ」
「ガチって」
「推しへの解像度が高い感じする」
その言葉は、紬希の胸の奥を少しくすぐった。
ガチで見ている。
たしかに、その通りかもしれない。
遠い人だと思っていた。
遠いままでいいとも思っていた。
でも、何度も雑談を聞いて、言葉の選び方を覚えて、箱内通話の返し方を見ているうちに、ただ“好き”や“すごい”だけでは済まなくなっていた。
もっと知りたい。
どうしてあんなふうに話せるのか。
どうしてあんなふうに空気をやさしく整えられるのか。
それは憧れだ。
でも、少しだけ、それ以上の何かにも似ている気がした。
◇
昼休みが終わって自分の席へ戻ったあとも、紬希の胸の内は少しだけざわついていた。
天瀬アルトの名前を、学校の会話の中で自分から出した。
それだけなら大したことではないのに、妙に緊張したのはなぜだろう。
ノートを開きながら、ふと斜め前を見る。
久瀬くんが席に着き、教科書を取り出している。
その動きは相変わらず静かできれいだ。
それでいて、嫌味がない。
そこで紬希は気づく。
似ている、のだ。
声だけじゃない。
空気の置き方が少しだけ似ている。
もちろん、天瀬アルトその人だとは思わない。
そんなことあるわけがない。
でも、たとえばコメントにやさしく返す時のアルトの“少しだけ低くなる声”と、久瀬くんが誰かを気遣う時の声の温度は、なんとなく近いものがある。
「……まさかね」
心の中で小さく呟く。
そんな都合のいい話、鳴海さんじゃあるまいし、本気で考えるわけにはいかない。
たぶんただ、自分がアルトをよく聞いているから、似た方向のやさしさに反応しているだけ。
そう整理しようとしても、引っかかりは完全には消えなかった。
◇
その日の放課後、紬希は珍しく少しだけ足取りが軽かった。
窓際の場所で一緒に昼を食べたこと。
天瀬アルトの話を、学校で少しだけできたこと。
それが思っていたより、やわらかい余韻として残っている。
校門を出て駅の方へ歩きながら、紬希はスマホを取り出した。
AstraLink共有サーバーを何となく開く。
大きな動きはない。
でも、少し前に天瀬アルトからもらった短いメッセージはまだ残っている。
『ご自身で変化を感じられたなら、それはとても良いことだと思います。少しずつでも積み重ねれば、必ず形になりますよ』
やさしい。
でも、ただやさしいだけではなくて、ちゃんと前を向かせる言葉だった。
昼休みに自分が言った“逃げてる感じがしない”という表現は、やっぱり間違っていないと思う。
憧れの人は、遠いままでいい。
そう思っていた。
同じ箱でも、話したことはない。
きっと自分のことなんて、たくさんいる後輩の一人としてしか知らない。
それでいいはずだった。
なのに今は、その遠い人の言葉が、学校帰りの足取りまで少し軽くしている。
「……よくないな」
自分で自分に言う。
でも、声は少しだけ笑っていた。
遠い人に憧れるだけなら、安全だ。
届かないと最初から分かっていれば、心は勝手に線を引く。
けれど、同じ事務所にいて、たまに短いメッセージが返ってきて、しかもその言葉がちゃんとあたたかいと――遠いままでいるつもりだった線が、少しだけ揺らぐ。
スマホをしまい、紬希は小さく息を吐いた。
学校では、久瀬くんと話すと少し気が楽になる。
配信では、天瀬アルトの言葉に救われる。
別々のもの。
別々の人。
そう思っているのに、なぜだろう。
ときどき、その二つのやさしさが、同じ方向を向いているように感じる瞬間がある。
そんなはず、ないのに。
夕方の光が少しずつ街へ落ちていく。
紬希はその中を歩きながら、胸の奥にある小さな熱の名前をまだつけられずにいた。
憧れの人は遠いままでいい。
そう思っていたのに。
気づけば、遠いままでは少しだけ足りない気がしてしまっている自分がいた。




