第12話 隠しているはずなのに、似ていると言われすぎる
その週の木曜日、久瀬湊人は朝から嫌な予感がしていた。
こういう予感は、たいてい外れない。
空が曇っているとか、財布の中の小銭が偏っているとか、そういう物理的な兆候ではない。もっと曖昧で、でも自分の生活においてはかなり高い確率で当たる類のものだ。
たとえば、誰かの視線が少しだけ多い日。
たとえば、昨日の会話の続きを今日は掘られそうだなと感じる日。
たとえば、自分の中で「今日は変に目立たないようにしよう」という意識がいつもより強い日。
そういう日は、だいたい何か起こる。
「おはようございます」
教室に入った瞬間、いつものように日野が軽く手を上げた。
「おはよー、久瀬」
すばるも続く。
「おはよ。あ、今日ちょっとだけ眠そう」
「そうでしょうか」
「うん。ほんのちょっと」
「鳴海さんの観察眼が怖いです」
「怖くない。解像度が高いだけ」
もはや定番の返しになっている。
真白は机に肘をつきながらこちらを見た。
「アンタ、最近ほんとに鳴海のそういうのを受け流すの上手くなったわよね」
「受け流しているつもりはありません」
「それが受け流しなの」
「そうなんですか」
「そうなの」
朝のやりとりは、表面だけ見ればいつも通りだった。
なのに、湊人の中では小さな警報が鳴り続けている。
理由の一つは、鳴海すばるの顔だ。
この数日、すばるは以前にも増して、こちらの言葉や声色に妙な引っかかり方をしている。
本人は“推しに似てる気がする”くらいの冗談半分で処理しているようだが、その半分がどこまで本当に冗談で済んでいるのかは分からない。
もう一つの理由は、倉科紬希の存在だった。
ここ数日、昼休みの窓際に彼女が自然と混ざるようになった。
会話の中心にいるわけではない。けれど静かに耳を傾け、必要な時だけ柔らかく口を挟む。その距離感が、思っていたより心地よく、同時に少しだけ落ち着かない。
しかも彼女は、天瀬アルトを知っている。
よく見ている。
そして、ちゃんと“会話の返し方”や“逃げてる感じがしないところ”まで見ている。
鳴海すばるとは違う種類の危うさだった。
すばるは熱量で近づいてくる。
紬希は静かに、でも深いところを見てくる。
そこへさらに、柊坂真白までいる。
真白は配信を見ていない。
でも逆に、“配信者としての自分”という先入観がないぶん、ただ久瀬湊人という人間の違和感を、まっすぐ拾ってくる。
方向の違う三人の観察が、少しずつ同じ場所へ集まってきている。
そう思うと、嫌な予感も強くなる。
◇
一限目は現代文だった。
教師が教科書の一節を読み上げ、生徒たちがノートを取る。教室は静かで、窓の外の空もまだ白っぽい。
その静けさの中、すばるが一度だけこちらをちらりと見た。
それだけなら普段からあることだ。
だが今日は、その視線のあとに何かを確かめるような間があった。
やはり、何か起こる。
湊人はそう確信し始めていた。
案の定、それは一限目と二限目の間の短い休み時間だった。
「ねえ、久瀬くん」
すばるが机へ身を乗り出してくる。
「はい」
「ちょっとだけいい?」
「ちょっとだけなら」
「今から私が言うセリフ、普通に読んでみて」
「……え?」
嫌な予感が急速に具体化した。
「鳴海、何始める気?」
真白が半眼になる。
「実験」
「ろくでもなさそう」
「ろくでもなくない。超健全」
すばるはそう言いながら、自分のスマホを出した。
「昨日、アルトの切り抜き見返してたんだけど、ここの返しがすごい好きで」
「もうその時点で健全じゃない」
真白のツッコミは正しい。
すばるはスマホ画面を見せながら言った。
「これ。『その言い方だと、皆さんが少しだけ誤解してしまいますから』」
湊人の指先がほんの少し止まりそうになる。
「……なぜそれを僕が」
「いや、ただ聞きたいだけ! 普通に読んだらどうなるかなって」
「それを学校でやる意味が?」
「意味はあるよ。私が気になる」
「それを意味と呼んでいいのかしら」
真白が言う。
日野まで振り返ってきた。
「なになに、また始まった?」
「始まった」
真白が即答する。
「鳴海の解像度確認タイム」
「そんな名前つけないで!」
だが、すばるの目はかなり真剣だった。
真剣だからこそ、たちが悪い。
ここで露骨に拒むと、それ自体が不自然だ。
逆に乗りすぎても危ない。
最適解を探している間にも、周囲の空気は少しずつこちらへ寄ってくる。
「……読み上げるだけでいいんですか」
なるべく平静に言う。
「うん! 自然にでいいから!」
「それ、本人が言うと絶対自然じゃないでしょ」
真白が呆れる。
「でも聞きたいんだもん」
「鳴海さんって、こういう時だけ押しが強いですね」
「こういう時“だけ”じゃないと思うけど」
日野が笑う。
逃げ道は薄い。
湊人は小さく息を吐いた。
「では……」
一度、言葉を頭の中でばらす。
その言い方だと。
皆さんが。
少しだけ。
誤解してしまいますから。
自分が配信で実際に使ったことのある類の言い回しだ。
だからこそ、変に意識すると危ない。
意識しすぎると、逆に普段通りの温度が出てしまう。
「――その言い方だと、皆さんが少しだけ誤解してしまいますから」
言った瞬間、教室の空気が一拍だけ静かになった。
しまった、と思う。
やわらかく言いすぎた。
もう少し雑に読めばよかったのに、言葉の並びが身体に馴染んでいるせいで、自然と“届く言い方”になってしまった。
「ほら!!」
すばるが机を叩く。
「今の!」
「何がですか」
「何がって、ほぼそうじゃん!」
「ほぼ、とは」
「間! 声の落とし方! “少しだけ”の置き方!」
「そこまで見るの?」
日野がちょっと引いている。
「見るでしょ、そこが大事なんだから!」
「大事なんだ……」
真白は黙っていた。
それが逆に怖い。
「……柊坂さん?」
湊人が聞くと、真白はゆっくりこちらを見る。
「今の」
「はい」
「たしかに、ちょっとだけそれっぽかった」
その一言が、思っていた以上に重かった。
「真白まで!?」
すばるが食いつく。
「いや、でも“ほんのちょっと”ね」
「でも今までで一番近かった!」
「鳴海」
「なに」
「だからって同一人物とは言わないでしょ」
「そこまでは言ってないもん!」
「顔に出てる」
「出てない!」
「出てる」
真白はさらりと言って、そしてもう一度こちらを見る。
「でもまあ」
「はい」
「アンタって、こういう“相手をやんわり止める”系の言い回し、妙に似合うわよね」
「それは……」
「昔から?」
真白の問いは、軽いようでいて、かなり深いところを突いてくる。
昔から。
そう答えるしかない。
でも、その“昔”を説明することはできない。
「……たぶん」
曖昧に返すと、真白はわずかに目を細めた。
「また“たぶん”」
「便利だねえ」
すばるが言う。
「気のせいです」
「その返しも好きなんだよなあ」
「鳴海、それ毎回言うのやめなさい」
真白が止める。
「誤解されるから」
「だから推し文脈の好きで――」
「最近その言い訳の精度落ちてるわよ」
「ひどい!」
笑いが起きる。
けれど湊人の内側では、全然笑えなかった。
◇
二限目は世界史だった。
教師の声が遠く聞こえる。
黒板に書かれる年号や地名は目で追えているのに、頭の別の場所ではさっきのやりとりが何度も再生されていた。
失敗した。
たぶん、かなり。
すばる一人ならまだいい。
あの程度なら、“やっぱり似てる気がする”のまま盛り上がって終わる可能性が高い。
でも、そこに真白が乗った。
しかも“相手をやんわり止める系の言い回しが似合う”という、かなり本質寄りの指摘をした。
それは、ただ声が似ているとか、雰囲気が少し近いとか、そういう表層の話ではない。
人との接し方の癖を見られている。
そして、そういうものは、一度誰かに言語化されると、他の人の中でも意識されやすくなる。
まずい。
今、自分の中にある感情はその一言に尽きる。
さらに、教室の斜め後ろから別の視線を感じた。
紬希だ。
振り向くわけにはいかない。
でも彼女もまた、今のやりとりを聞いていたはずだ。
小毬こはくとしての彼女は、天瀬アルトの返し方や、言葉の置き方をちゃんと見ている。
学校の倉科紬希としての彼女は、それをまだ“まさか”として打ち消せる位置にいる。
その“まさか”を、こちらから強く揺らすようなことはしたくない。
「久瀬、教科書」
日野が小声で言う。
「……あ」
いつの間にか教師がこちらの列を見ていた。
教科書のページが一枚ズレていたらしい。
「すみません」
慌てて開き直す。
日野が苦笑した。
「珍しくほんとにぼーっとしてたな」
「少し」
「少し、で済む?」
「済ませたいところです」
その返しに日野は小さく笑ったが、湊人としては笑い事ではなかった。
◇
三限目のあと、昼休み。
窓際の定位置へ集まる流れは今日も自然だった。
だが、湊人の中では朝の余波がまだ消えていない。
パンを開ける。
飲み物を置く。
会話の輪ができる。
いつも通りの動きなのに、今日はその“いつも通り”が少しだけ危うい。
「ねえ」
すばるが口火を切る。
「今朝のやつ、やっぱりかなり似てたと思うんだけど」
「まだ言うの?」
真白が呆れる。
「だって事実だし」
「事実っていう言い方は危ない」
「じゃあ感想!」
「それもどうかと思う」
日野が言う。
紬希は少し離れた位置でお弁当箱を開きながら、その会話を静かに聞いている。
その横顔は穏やかだが、耳はたぶんこちらへ向いている。
湊人はコロッケパンの袋を開けながら、できるだけ自然な声を出した。
「そこまで似ているなら、一度直接会ってみたいですね」
言ってから、自分でも少し危ないと思った。
だが、これは逆方向の逃がし方でもある。
“本人じゃない前提”を、自分の口から強めておく。
すばるは一瞬だけ目を丸くして、それから苦笑した。
「それ言われると、たしかにそうなんだけど」
「でしょ」
真白が言う。
「本人だったらむしろ怖いわよ」
「いやまあ、そうなんだけど……でも声似てる人って現実にいるんだなって」
「そこに落ち着くのが平和ね」
真白の言葉は、半分は本気で、半分は自分に言い聞かせるようでもあった。
紬希がそこで、小さく口を開く。
「……でも」
四人の視線がそちらへ向く。
彼女は少しだけ迷ってから続けた。
「鳴海さんが言いたいこと、少しだけ分かるかも」
湊人の指が止まりそうになる。
「倉科さんまで!?」
すばるが勢いよく反応する。
「いや、同一人物とかじゃなくて」
紬希は慌てて言い添える。
「ただ……なんていうか、返し方とか、相手を困らせないように話す感じが、ちょっと近い気がする」
それは、今朝の真白の指摘とほぼ同じ方向だった。
しかも、紬希の言葉にはすばるの熱量とは違う静かな確信がある。
だから余計に重い。
「ほらー!」
すばるが机を叩きそうになる。
「やっぱり私の耳おかしくないじゃん!」
「鳴海、机」
真白が止める。
「あと、だからって“本人説”に寄るな」
「寄ってないよ! でも二人も言うならさあ」
「だから、似てる“感じ”の話でしょ」
「そうだけど!」
すばるはもどかしそうに唸る。
日野がそこへ呑気に言う。
「まあでも、久瀬ってたしかに学校の中でもなんか……会話の仕方がきれいだよな」
その一言で、湊人は思わず顔を上げた。
日野は基本的に深く考えずに口に出すタイプだ。
だからこそ、今の言葉には余計な色がなくて、逆に怖い。
「きれい、ですか」
「うん。別に声似てるとかは俺わかんねーけど、なんか、雑じゃないじゃん」
「それは褒めてる?」
真白が聞く。
「褒めてる褒めてる。嫌な感じしないし」
「へえ」
すばるが妙に得意げになる。
「ほら、そういうことだよ!」
「なんでアンタが威張るのよ」
「だって最初に気づいたの私だし」
「“気づいた”って言い方やめなさいって」
真白がまた刺す。
窓際の空気は笑いを含んでいる。
周りから見れば、ただ同級生をいじっているだけの昼休みだろう。
でも湊人にとっては、じわじわと包囲されているようなものだった。
すばるの耳。
真白の違和感。
紬希の静かな観察。
日野の無意識な言語化。
別々の角度から、同じ“会話の癖”へ触れ始めている。
◇
午後の授業が終わったあと、湊人は珍しく自分から真白へ声をかけた。
「柊坂さん」
「なに」
「今朝の件ですが」
「どれ」
「鳴海さんの……実験のようなものです」
「ああ」
真白は鞄へノートを入れながら、ちらりとこちらを見る。
「気にしてるんだ」
「少し」
「そりゃまあ、あれはちょっと鳴海が暴走してた」
「それもありますが」
「それも?」
「柊坂さんまで乗ったので」
言ってから、少しだけ後悔した。
責めているように聞こえただろうか。
だが真白は、意外にもあっさりと息を吐いた。
「……まあ、それは悪かったかも」
「いえ、そういう意味では」
「でもさ」
真白はそこで、少しだけ表情を変えた。
「アンタって、隠そうとすると逆に変になる時あるわよ」
心臓が大きく一つ鳴る。
「隠そうと……?」
「うん。普段は普通にしてるのに、変に話題逸らそうとしたり、何でもないですって顔しようとした時だけ、逆に“何かあります”ってなる」
鋭い。あまりにも鋭い。
でも、配信を見ていない真白がそれを言うということは、つまり久瀬湊人という人間だけを見ていても、そのくらいの不自然さは出てしまうということだ。
「……気をつけます」
ようやくそれだけ言うと、真白は少しだけ眉を寄せた。
「だから、そういうとこ」
「はい?」
「すぐ“気をつけます”って言うの」
「駄目でしたか」
「駄目じゃないけど」
真白は一瞬だけ言葉を止める。
「全部を直そうとしなくていいでしょ、って意味」
その言い方に、湊人は思わず目を瞬いた。
全部を直そうとしなくていい。
それは、驚くほどやさしい言葉だった。
そして同時に、昨夜小毬こはくへ送ったメッセージと少しだけ似ていた。
一度に全部を整えようとしなくてもいい。
少しずつでいい。
配信でも学校でも、自分は意外と同じことに追われているのかもしれない。
「……ありがとうございます」
静かに言うと、真白は少しだけ目を逸らした。
「別に」
それから小さく付け足す。
「アンタが変なのは今さらだし」
「褒められてますか」
「半分くらい」
「残り半分は」
「知らない」
その返しに、少しだけ救われる。
真白は鋭い。
でも、その鋭さが全部こちらを追い詰める方向に向いているわけではない。
◇
その日の夜、湊人は自室で配信準備をしながら、朝からの出来事をずっと反芻していた。
今朝は危なかった。
かなり危なかった。
だが、一番怖かったのは、誰か一人が決定的なことに気づいたからではない。
小さな違和感が、複数人の中でそれぞれ積み重なり始めていることだ。
すばるは“似てる”を楽しんでいる。
真白は“隠そうとすると変になる”と見抜いている。
紬希は“返し方が近い”と感じている。
日野は“会話の仕方がきれい”だと何気なく言う。
全部を別々に見れば、ただの印象でしかない。
でも、こうして並べると、じわじわと一つの輪郭を作り始める。
「……よくないな」
独り言が漏れる。
配信ソフトを立ち上げる。
待機画面にはすでにコメントが集まり始めていた。
『待機』
『王子きたら起こして』
『今日もしっとりめ?』
『雑談助かる』
『一日おつかれ』
この場所では、自分の“会話の癖”は武器になる。
やわらかく止めること。
相手を立てながら流れを整えること。
困らせないように返すこと。
でも学校では、それが逆に“普通じゃない”として目立ち始めている。
同じ自分なのに、場所が変わるだけで意味が変わる。
それが面白くもあり、厄介でもある。
通知が一つ、別窓に上がる。
AstraLink共有サーバーだ。
小毬こはくから短い書き込みがあった。
『本日も短めですが配信予定です。少しずつでも、自分の話し方を見つけられるように頑張ります』
湊人はそれを見て、ほんの少しだけ息をついた。
少しずつでも、自分の話し方を見つける。
それはまるで、今の自分には逆方向の課題みたいだった。
こちらは“自分の話し方”が見つかりすぎていて、それを学校では隠さなければならないのだから。
画面の前で、小さく笑う。
「難しいな、本当に」
だが、その難しさの中にいるのは、自分だけではないらしい。
遠い場所で頑張っている後輩も、学校で少しずつ距離を測ってくる同級生たちも、それぞれ別の形で“自分の居場所”を探している。
なら、自分だけが逃げているわけにはいかないのかもしれない。
配信開始時間が近づく。
マイクを調整し、喉を軽く整える。
隠しているはずなのに、似ていると言われすぎる。
それは困る。
かなり困る。
でもその一方で、そんなふうに細かく見られるくらいには、自分が学校の人間関係の中へ入り込んでしまっているのだとも思う。
それを完全に嫌だと言い切れないところが、今の自分の一番面倒なところだった。




