第13話 配信者の言葉は、学校の誰かを救ってしまう
水曜日の夜、小毬こはくの配信は、いつもより少しだけ短かった。
AstraLink共有サーバーへ上がった事前告知も簡潔で、雑談のテーマも軽い近況報告が中心。けれど実際に枠が始まってみると、その“軽さ”の内側に、いつもより張ったものがあることは、画面越しにも伝わってきた。
久瀬湊人は自室の机に肘をつきながら、その配信を見ていた。
学校の宿題はもう終わらせてある。
自分の配信までは、まだ少し時間がある。
ほんの少し覗くだけのつもりだったのに、気づけば開始からずっと画面を開いたままだった。
『こんばんは、小毬こはくです。来てくださってありがとうございます。今日は少しだけ、ゆっくりお話しできたらうれしいです』
声はいつも通りやわらかい。
でも、そのやわらかさの下にある緊張の粒が、今日はいつもより細かい。
コメント欄はやさしかった。
『こんばんはー』
『今日も来たよ』
『こはくちゃんの声助かる』
『無理しないでね』
『のんびりしよう』
小毬こはくは一つずつそれを拾っていく。
『ありがとうございます。来ていただけるだけで、すごく安心します』
その“安心します”の言い方が、少しだけ本気すぎる気がした。
ただの配信の挨拶というより、本当にそう思っている人の温度だ。
湊人はコメント欄を流し見しながら、静かに画面を見続ける。
話題は学校のこと、最近少しだけ暖かくなってきた夜のこと、コンビニで見つけた小さなお菓子の話。どれも大きな事件ではない。けれど、配信がうまい人は、大きな話をしないからといって退屈になるわけではない。
小毬こはくは、まだ“うまい”とまでは言えない。
それでも、聞いているうちに自然と時間が流れる枠ではあった。
だからこそ、ときどき見える小さな乱れが、逆に目につく。
コメントを拾う直前に、一瞬だけ間が空く。
話題を変える時、少しだけ言葉を探す。
笑うところで笑いきれずに、控えめな息だけが漏れる。
普段なら“新人らしい危うさ”として流せるそれが、今日は少しだけ重く見えた。
『最近どう?』
『配信慣れてきた?』
『こはくちゃん頑張りすぎてない?』
コメントが流れる。
小毬こはくはそれを読んで、小さく笑った。
『うーん……慣れてきた、とは、まだ自信を持っては言えないんですけど』
そこで一度、言葉が途切れる。
『でも、少しずつでも、ちゃんと来てくださる方のいる場所にできたらいいなって思いながら、やっています』
また、その言葉だった。
ちゃんと来てくださる方のいる場所。
湊人は少しだけ目を伏せる。
この子は今、本気でそこを考えている。
数字ではなく、空気としての“場所”を作ろうとしている。
配信者としては正しい。
正しいけれど、そこを真面目に考えすぎると、時に自分で自分の首を絞めることにもなる。
『こはくちゃん枠、もうそうなってるよ』
『十分居場所だよ』
『頑張ってるの伝わってる』
『ちゃんと落ち着く場所になってる』
コメントはやさしい。
でも、やさしいコメントほど、今の配信者の状態によっては救いにも重圧にもなる。
小毬こはくは一つ一つ頷くように相槌を打ちながら、やがて少しだけ声を落とした。
『……ありがとうございます。でも、なんだろう……』
沈黙が入る。
いつもならすぐに次のコメントへ行くところで、今日はその沈黙から抜けるのに少し時間がかかった。
『たまに、自分がちゃんと前に進めてるのか分からなくなる時があって』
その一言で、コメント欄の流れが少しだけ変わる。
『どうしたの』
『無理しないで』
『焦らなくていいよ』
『真面目すぎるんだよー』
小毬こはくは、慌てて笑おうとした。
けれど、その笑い方が少しだけ揺れていた。
『ごめんなさい、重い話をしたいわけじゃないんです。ただ、見てくださる方が増えるほど、もっと上手くならないといけないのかなって思ったり、でも思うようにできなかったりして……』
湊人はそこで、静かに息を吐いた。
ああ、と思う。
今のこれは、たぶん“ちょっと落ち込んでいる”ではない。
かなり本気で、自分の未熟さに飲まれかけている人の声だ。
新人なら誰でも通る道かもしれない。
でも、通る道だからといって楽とは限らない。
しかも小毬こはくは、おそらく他人から見れば順調な側にいる。
順調な人ほど、「これで悩むのは贅沢なのでは」と自分で自分を責めやすい。
画面の右下に、事務所向けの内部チャットウィンドウが小さく点滅していた。
先輩の誰かも見ているのだろう。けれど表で口を出すタイミングを計っているのかもしれない。
湊人は少しだけ迷う。
今、自分が“天瀬アルト”としてコメントを打てば、たぶんそれだけで空気は変わる。
変わるが、それはある種の強いカードだ。
軽く切るものではない。
でも、だからといって見ているだけでいいのか、とも思う。
コメント欄では、視聴者たちがやさしく励まし続けていた。
それはもちろん正しい。
正しいけれど、今のこはくに必要なのは、ただ「大丈夫だよ」と撫でることだけではない気がした。
少しだけ、前を向かせる言葉。
今の未熟さを否定せず、その先へ繋げる言葉。
湊人は短くキーを打つ。
天瀬アルトのアカウントで、コメント欄へ一行。
『焦らなくて大丈夫ですよ。今の悩み方をしている時点で、ちゃんと前に進んでいると思います』
送信する。
数秒遅れて、コメント欄がざわついた。
『え!?』
『アルト先輩!?』
『本人きた!?』
『うわあああ』
『こはくちゃん!!』
小毬こはくの声が、ほんの少しだけ止まる。
『……え』
それは本当に、予想していなかった人の声だった。
『あ、え、アルト先輩……?』
湊人は続けて打つ。
『上手くできないことに気づけるのは、上手くなりたいと思っているからですし、それは配信者としてとても大事なことです。ただ、一度に全部を良くしようとしなくても大丈夫です。今日できたことを一つ見つけられれば、それで十分だと思います』
コメント欄が一気に流れる。
『言葉がつよい』
『王子〜!』
『これ泣くやつ』
『アルト先輩やさしい』
『こはくちゃんよかったね』
小毬こはくは、しばらく何も言えないようだった。
そしてようやく、少しだけ震える声で言う。
『……ありがとうございます』
そこで、小さく息を吸う音がする。
『ごめんなさい、えっと……びっくりしてしまって』
少し笑う。
さっきまでの、飲まれかけていた笑いではない。ちゃんと立て直しに向かう人の笑いだ。
『今の、すごく……うれしかったです』
湊人は画面の前で、ようやく肩の力を抜いた。
これでよかったのかどうかは分からない。
でも少なくとも、今の一言は、ちゃんと届いたらしい。
『今日できたこと、一つ……』
小毬こはくはゆっくり言う。
『えっと、たぶん……最初の頃より、コメントを読むのが少しだけ怖くなくなったこと、かな』
コメント欄があたたかく流れる。
『それすごい進歩』
『めっちゃ前進じゃん』
『えらい』
『いいじゃん!!』
『そうですね』
アルトとして、湊人はもう一度だけコメントを送る。
『それはとても大きいと思います』
それ以上は書かない。
あとは、本人と視聴者の空気に任せるべきだ。
小毬こはくは、その後の数分で、さっきまでよりずっと落ち着いて話せるようになっていた。
話題は大きく変わらない。コンビニの話や、最近少しだけ暖かくなった夜の話。
でも声の芯が戻っている。
配信が終わる頃には、コメント欄の空気も完全に穏やかなものへ戻っていた。
配信を閉じたあと、湊人はしばらく画面の黒を見ていた。
学校の自分ではなく、配信者の自分の言葉が、画面の向こうの誰かを確かに救った感覚が残っている。
「……よかった」
小さく呟く。
それから、少しだけ考える。
今の自分は、小毬こはくを救った。
でも、同じように誰かを学校で救えるかと言われると、自信はない。
いや、救うという言い方は大げさだ。
でも、学校の中では配信みたいに綺麗な言葉は出てこないし、出せても余計に目立つ。
その違いが、少しだけもどかしかった。
◇
翌朝。
教室に入った時点で、湊人はなんとなく空気の違いを感じた。
いつもの朝の雑談、椅子を引く音、誰かの欠伸。
その中に、ごくわずかに“昨日の配信を見た人”の気配が混ざっている。
まず鳴海すばるが、見つけた瞬間に机を叩いた。
「久瀬くん!」
「はい」
「昨日見た!?」
「何をでしょう」
「何を、じゃないって! こはくちゃんの配信!」
その圧に、日野が笑う。
「鳴海、朝からフルスロットルだな」
「だってあれは語るしかないでしょ!」
すばるは身を乗り出す。
「アルトがさ、途中でコメントしたの! しかもめちゃくちゃ綺麗に支えてて!」
「へえ」
真白が横から言う。
「見たの?」
「見た」
「珍しい」
「鳴海が夜中にグループでうるさかったから」
「うるさいってなに」
「語気が強かった」
「だって興奮するじゃん!」
湊人は鞄を下ろしながら、なるべく自然な顔を作る。
昨日の件は、すばるが騒ぐだろうとは思っていた。
思っていたが、やはり学校で直接その話をされるのは妙に落ち着かない。
「倉科さんも見てたんだよ」
すばるが続ける。
「そうなんですか」
湊人はできるだけ自然に聞き返す。
その時、ちょうど教室の扉が開き、倉科紬希が入ってきた。
いつも通り控えめな動き。
でも今日は、ほんの少しだけ目元がやわらかい。
それだけで、昨夜の配信の余韻がまだ残っているのだと分かった。
すばるがすぐに手を振る。
「倉科さん!」
「え、あ……おはよう」
「昨日すごかったね!」
その言い方に、紬希は少しだけ目を丸くした。
「すごかった?」
「こはくちゃんの配信だよ! アルト来たじゃん!」
周囲の何人かも話を聞いている気配がある。
紬希は少しだけ頬を赤くしながら、自席へ向かった。
そして荷物を置いてから、小さく頷く。
「……うん。びっくりした」
「でしょ!?」
すばるは満足そうだ。
「私も見てたけど、あれ絶対救われたやつだよね」
紬希は少しだけ黙った。
それから、静かに言う。
「……救われたと思う」
その言い方は、妙にまっすぐだった。
真白がそこでちらりと紬希を見る。
「そんなに?」
「うん」
紬希は少し迷ってから続ける。
「なんていうか……“大丈夫だよ”って言うだけじゃなくて、“今の悩み方をしてる時点で前に進んでる”って言ってくれたのが、すごく……ちゃんと見てくれてる感じがして」
そこで一度言葉が止まる。
「……すごく、うれしかったと思う」
小毬こはく本人としての感情が、ほんの少しだけその声に混ざっていた。
だが学校の誰も、それに気づくわけがない。
湊人だけが、その混ざり方に気づいて、少しだけ視線を落とした。
「わかる」
すばるが深く頷く。
「アルトってさ、ただ励ますんじゃなくて、ちゃんと“今のその人”を見て言葉くれる感じあるんだよね」
「……うん」
紬希がまた頷く。
「そこが、すごいなって思う」
その“すごい”が、ただの推し語りではないことは、聞いているだけで分かった。
憧れ。
尊敬。
そして少しだけ、それ以上の熱。
紬希はまだ、自分の中のそれを恋だとは認識していないだろう。
でも、ただ遠くから憧れているだけの声では、もうない。
「なんかさ」
日野が軽く言う。
「倉科さん、こはくちゃん本人みたいな言い方するな」
空気が、一瞬だけ止まった。
湊人の心臓が嫌なタイミングで跳ねる。
だが次の瞬間、すばるが吹き出した。
「それはないでしょ!」
「冗談だって」
日野も笑う。
「いや、でも熱量が近いなと思って」
「分かるけど! でも倉科さんって静か系だし、こはくちゃんも静か系だし、そのへん重なるのかも」
「え、そうかな」
紬希が少しだけ困ったように笑う。
その笑い方が、昨夜の配信を見ていた湊人には妙に近く見えた。
真白は、その空気を一歩引いたところから見ていた。
そしてぽつりと言う。
「……みんな最近、似てる似てる言いすぎじゃない?」
「そう?」
すばるが首を傾げる。
「うん。鳴海は前からだけど、日野まで乗り始めたし」
「いや、だって面白いじゃん」
「面白がる方向が雑」
「でも真白もこの前、久瀬に“返し方がそれっぽい”って言ってたよね」
すばるに刺されて、真白が少しだけ詰まる。
「それは、まあ」
「ほら」
「でも、似てるって言ったって、別に本人って意味じゃないでしょ」
真白はそう言いながら、じっと湊人を見た。
「ただ、変なところが似合いすぎるってだけ」
「変なところ?」
日野が笑う。
「相手をやんわり止めるとことか、妙に落ち着いてるとことか」
「それ、もうだいぶ褒めてるよな」
「褒めてない」
「半分は褒めてるでしょ」
「……半分くらい」
「認めた」
小さな笑いが起こる。
湊人はその会話の輪の中で、少しだけ息を吐いた。
危ない。
でも、まだ大丈夫だ。
“似ている”という言葉が増えすぎているのは確かだ。
けれど今のところ、それはまだ“似ている人がいる”という遊びの範囲を出ていない。
問題は、そこから先だ。
誰かが本気で線を結び始めた時、たぶん一気に危うくなる。
◇
昼休み、窓際の場所。
今日の話題は当然、昨夜の配信のことだった。
「やっぱりあれってさ、こはくちゃん本人めちゃくちゃうれしかっただろうなあ」
すばるが言う。
「そりゃね」
真白が頷く。
「実際、かなり効いてた感じしたし」
「効いてた」
紬希が静かに言う。
「……見てて分かった」
その一言に、すばるはまた深く頷く。
「だよね。ああいう時に“今の悩み方をしてる時点で進んでる”って言えるの、ほんと強い」
「鳴海」
真白が言う。
「今日は珍しく、ちゃんといいこと言ってる」
「珍しくって何!」
「でもほんとにそう」
紬希がまた言った。
「ちゃんと見てないと、ああいう言葉って出ないと思うから」
その言葉は、本人へ向けられたものではない。
でも湊人の胸には、ちゃんと届いてしまう。
配信者としての言葉が、学校の誰かを救った。
しかもその“誰か”は、昼休みのすぐ近くにいる。
それは少し、不思議で、少しだけこそばゆかった。
「久瀬くん、黙ってるけどどう思う?」
すばるに振られて、湊人は少しだけ肩を揺らした。
「ええと……」
「はい、感想どうぞ」
「感想」
「そう。アルトのあのコメントについて」
逃げ道が少ない。
だがここで妙に否定的なことを言えば不自然だし、持ち上げすぎても自画自賛みたいで危ない。
「……とても、よい言葉だと思います」
結局、かなり無難なところへ着地した。
だが、紬希がその言葉に反応する。
「うん」
小さく頷く。
「そうだと思う」
その声が妙にまっすぐで、湊人は少しだけ視線を逸らした。
すばるは満足そうに笑っている。
真白はそんな二人を見て、少しだけ呆れたように息をついた。
日野は何も考えていなさそうにパンをかじっている。
窓際の空気はいつも通りだ。
でも、その中に昨日の配信の余韻が確かに残っている。
夜の自分の言葉が、昼の空気の中へ混ざってしまう。
それは本来なら困ることのはずなのに、なぜか少しだけうれしいと思ってしまった。
◇
その日の放課後、紬希は帰り支度をしながら、ふと一人で考えていた。
昨夜の言葉。
アルトのコメント。
“今の悩み方をしてる時点で、ちゃんと前に進んでいる”。
それを思い出すたびに、少しだけ背中が軽くなる。
遠い人だ。
やっぱりそう思う。
でも、遠いまま、ちゃんと届く言葉をくれる。
それがうれしかった。
そして不思議なことに、その余韻を抱えたまま久瀬くんの声を聞くと、少しだけ近い方向のやさしさを感じてしまう。
もちろん、別人だ。
別人に決まっている。
なのに、昼休みの短い会話の中で、アルトに救われたあとに久瀬くんの「よい言葉だと思います」を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
「……変なの」
小さく自分へ言う。
配信者の言葉は、学校の誰かを救ってしまう。
そして救われた側は、そのぬくもりを抱えたまま、昼の教室で別の誰かへ少しだけやさしくなれるのかもしれない。
もしそうなら、それはとてもきれいな循環だ。
でも今の紬希にとっては、それ以上に困ることが一つあった。
アルトの言葉で軽くなった心が、学校で久瀬くんと話す時にも少しだけ弾んでしまうこと。
それがただの偶然なのか、それとも自分の中で何かが少しずつ混ざり始めているのか――まだ、うまく分からなかった。




