第14話 近づくほど、言えないことが増えていく
木曜日の朝、久瀬湊人は目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光はやわらかく、まだ春の朝らしい冷たさを少しだけ残している。布団の中で目を開けたまま、しばらく天井を見つめる。
眠れなかったわけではない。
けれど、深く眠れた気もしない。
理由は分かっていた。
昨日の配信。
小毬こはくの枠へ、自分が天瀬アルトとしてコメントを送ったこと。
その言葉がちゃんと届いて、配信の空気を少しだけ立て直したこと。
そして、その余韻が翌日の教室にまで流れ込んでしまったこと。
夜の自分の言葉が、昼の空気を変える。
それ自体は悪いことではない。
むしろ、配信者としては誇ってもいいことかもしれない。
けれど、学校の久瀬湊人として生きようとする自分にとっては、やはり少しだけ危うい。
鳴海すばるは、昨日も相変わらず解像度高く騒いでいた。
倉科紬希は、静かな熱でその言葉を受け止めていた。
柊坂真白は、“似ている”という話題そのものには線を引きながら、それでもこちらの違和感だけは見落とさなかった。
近づくほど、見られる。
見られるほど、言えないことが増えていく。
「……難しいな、本当に」
ベッドの中で小さく呟いてから、湊人は身体を起こした。
◇
教室へ入ると、いつもの景色がそこにあった。
日野が前の席で伸びをしている。
すばるは朝から何かしらスマホを見ながら一人でにやにやしている。
真白はすでに席に着いていて、机に頬杖をつきながら窓の外を見ていた。
その一角が、今ではすっかり自分の“朝の位置”になっている。
「おはようございます」
湊人が言うと、日野が軽く手を上げる。
「おはよー」
「おはよ」
すばるもすぐ返す。
真白は少しだけこちらを見てから、短く言った。
「おはよう」
それだけなのに、どこか落ち着く。
この感じに慣れてきている自分が、少し怖い。
「……眠そう」
真白が不意に言う。
「そうでしょうか」
「うん。ちょっとだけ」
「また観察されてる」
すばるが笑う。
「最近さ、真白もけっこう久瀬くんのこと見るよね」
「見てない」
「見てるよ」
「鳴海はうるさい」
「その返し雑」
「雑でいいの」
真白はそっけなく言ったあと、少しだけ目を細める。
「アンタこそ、今日も夜遅かったの?」
その一言に、湊人の心臓が一拍遅れる。
夜遅かった。
事実だ。
でも、その理由は当然言えない。
「……少し」
曖昧に答えると、真白はまた小さく眉を寄せた。
「また“少し”」
「便利ですね、この言葉」
日野が笑う。
「久瀬の中ではかなり重宝してそう」
「便利に使っているつもりはありません」
「でも使ってるよね」
すばるが言う。
会話は軽い。
けれど、その軽さの中に、こちらが曖昧なままにしているものへの引っかかりがちゃんと混ざっている。
真白はそれ以上追及しなかった。
ただ、頬杖をついたまま小さく言う。
「……寝不足なら昼寝しなさいよ」
「教室で、ですか」
「それ以外どこで」
「授業がありますが」
「それは頑張って」
「厳しいですね」
「優しすぎると勘違いする人いるから」
「誰がですか」
「知らない」
真白は視線を逸らした。
その耳が、ほんの少しだけ赤い気がしたのは、朝の光のせいだろうか。
すばるがにやっとする。
「はい出た、そういうとこ」
「鳴海」
「なに」
「今日の私は機嫌がいいわけじゃないから」
「怖」
「自覚あるんだ」
日野が笑う。
湊人もつられて少しだけ笑った。
この感じ。
少しずつ噛み合っていく会話。
でも、その噛み合いが増えるほど、曖昧にしているものも増える。
真白の言う“夜遅かったの?”に答えられない。
すばるの“なんでそんなに曖昧なの?”にも本当の理由を言えない。
紬希がもし配信や箱の話をしても、自分は何も知らない顔をするしかない。
近づくほど、言えないことが増えていく。
それを、朝のたった数分で思い知らされる。
◇
一限目と二限目のあいだの休み時間。
日野は友達のところへ行き、すばるは別の女子に何かしら布教を始めていた。
教室がほどよくばらける中で、真白がふとこちらへ顔を向ける。
「ねえ」
「はい」
「この前の話」
「この前?」
「来れる日があったらちゃんと来なさいよ、ってやつ」
湊人は一瞬だけ言葉を止めた。
「ああ」
「今度、土曜の昼にカラオケ行く話あるんだけど」
「土曜」
「うん。まだ確定じゃないけど、たぶん行く」
それはかなり危ない予定だった。
土曜の昼。
案件収録が入りやすい時間帯だ。
しかも週末は配信外の打ち合わせや、箱の企画が急に差し込まれることもある。
けれどここでまた曖昧に濁せば、“また急にいなくなる”へ戻ってしまう。
「……早めに分かれば、調整できるかもしれません」
慎重に言う。
真白は少しだけ目を細めた。
「“できるかもしれません”」
「約束は、軽く言いたくないので」
「そこは真面目よね」
「面倒ですか」
「少しだけ」
即答だった。
だがすぐに、真白は付け足す。
「でも、嫌いじゃない」
その一言に、湊人の思考がほんの一瞬止まる。
「……え」
「何その反応」
「いえ、少し驚いて」
「別に好きって意味じゃないから」
「そういう意味に取ったわけでは」
「取った顔してた」
「気のせいです」
「その言い方、ほんと便利」
真白はため息をついてから、少しだけ声を落とした。
「でもさ」
「はい」
「アンタがちゃんと来る気あるなら、それでいい」
昨日も似たようなことを言われた。
でも今のは、もう少しだけ距離が近かった。
来る気があるなら、それでいい。
つまり、来られないことそのものより、“ここに来る気がない人”だと思われる方が困るということだろうか。
そう考えると、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「……ありがとうございます」
湊人が言うと、真白はまた気まずそうに視線を逸らした。
「だからそのちゃんとした礼やめて」
「礼を言いたかったので」
「そういうのが、たまに距離近いの」
その言い方に、湊人は少しだけ息を止める。
距離が近い。
以前にも言われた言葉だ。
でもあの時とは違う。
今の真白の声音には、拒絶だけではなく、自分でもよく分からない戸惑いが混ざっている。
「近づきすぎていますか」
静かに聞くと、真白は少しだけ言葉に詰まった。
「……そういう聞き方ずるい」
「またですか」
「今日は二回目」
「数えているんですね」
「アンタがいちいち印象に残ること言うからでしょ」
そこまで言ったところで、すばるが戻ってきた。
「なに、二人でまた変な空気出してる」
「出してない」
真白が即答する。
「いや出てるって」
「鳴海は黙って」
「はいはい」
会話はそこで途切れた。
けれど、真白の言いかけた何かは、そのまま教室の空気のどこかに残った気がした。
◇
昼休み。
窓際の場所へ今日も人が集まる。
日野は購買の新商品に負けてやたら甘いパンを買っていたし、すばるはそれを見て「脳が疲れてる証拠」と勝手に診断していた。
真白はツナサンド、湊人はコロッケパン、そして紬希は今日も自分で作ったお弁当を持ってきていた。
もうこの並びはかなり自然になっている。
「そういえば倉科さん」
すばるが言う。
「昨日の配信のあと、こはくちゃん元気そうだった?」
その質問は、ファンとして聞いているだけのものだ。
もちろん、紬希が本人だとは誰も思っていない。
だが当人からすれば、かなり危うい質問でもあるはずだった。
紬希は少しだけ目を伏せてから、柔らかく答える。
「たぶん、大丈夫だったと思う」
「やっぱりアルトのコメント効いたよね」
「うん」
紬希は小さく頷く。
「すごく、救われたと思う」
その声は穏やかだ。
でも、以前より少しだけ熱が見える。
遠い人への憧れや尊敬が、静かなまま濃くなっていく音がするようだった。
湊人はその横顔を見ないようにしながらパンをかじる。
自分の言葉が、学校のすぐ近くにいる誰かを救った。
それは誇らしくもあり、妙に落ち着かなくもある。
「倉科さん、ほんとアルト好きなんだね」
日野が何気なく言う。
「え」
紬希が少しだけ固まる。
「いや、なんか話し方が」
「たしかに」
すばるが頷く。
「“推しです!”って熱量じゃなくて、もっと静かに大事にしてる感じ」
その言い方は的確だった。
紬希は頬を少しだけ赤くして、お弁当箱を見つめる。
「……好き、というか」
「というか?」
すばるが身を乗り出す。
「尊敬、かな」
「うわ、強い」
「いやでも分かる」
真白が言う。
「そういう好きもあるでしょ」
「真白」
すばるがじっと見る。
「何」
「今日ちょっと大人じゃない?」
「意味わかんない」
「いや、なんか……言い方が」
「うるさい」
真白はそっけなく返しつつ、ほんの少しだけ紬希を見る。
「でも、尊敬っていちばん厄介よね」
「厄介?」
紬希が聞き返す。
「だって、好きより否定しづらいじゃん」
その言葉は、妙に真っ直ぐだった。
すばるが「それは分かる」と深く頷く。
日野は「そういうもんか」と呑気にパンをかじる。
湊人だけが、その一言を少し重く受け取っていた。
尊敬って、いちばん厄介。
たしかにそうかもしれない。
恋ならまだ、照れとか勢いとか、そういう感情の波で説明しやすい。
でも尊敬は、相手の言葉や振る舞いをじっくり見て、そのうえで積み上がる。
つまり、見られている時間が長い。
それは配信者にとってはありがたいことだ。
けれど、自分の秘密を隠したい人間にとっては、時に危うい。
「久瀬くんは?」
不意に、すばるが振ってきた。
「何がですか」
「尊敬から始まるのと、好きから始まるの、どっちが重いと思う?」
「急に重い話題きたな」
日野が笑う。
「鳴海、それ昼のパン食べながらする話?」
「するでしょ」
「しない」
真白が即答する。
だがもう、全員の視線がこちらを向いていた。
答えないわけにもいかない。
「……どちらも、軽くはないと思います」
慎重に言う。
「いや、模範解答すぎ」
すばるが不満そうに言う。
「もうちょい踏み込んで?」
「踏み込んでよろしいんですか」
「今さらそこ確認する?」
「大事なので」
「そこが久瀬くん」
すばるは笑う。
真白は小さくため息をついてから、横目でこちらを見る。
「でも、まあ……」
「はい」
「アンタはたぶん、尊敬される方が厄介そう」
その一言に、湊人は思わず言葉を失った。
「なぜでしょう」
やっとそれだけ聞くと、真白は少しだけ言いにくそうな顔をした。
「……だって、変にちゃんとしてるから」
「それ、褒めてます?」
「知らない」
「でも合ってるかも」
紬希がぽつりと言った。
全員がそちらを見る。
紬希は自分で言ってから少し驚いたように目を瞬かせる。
「えっと……」
「どういう意味?」
すばるが聞く。
「なんとなく、久瀬くんって……」
紬希は少しだけ言葉を探す。
「好きになるというより、先に“すごいな”とか“ちゃんとしてるな”って思う感じがあるから」
その言葉は、本人がまったく自覚していない角度からの真実だった。
好きより先に、すごいなと思う。
たしかに、天瀬アルトとしての自分へ向けられる感情も、最初はそういう形が多い。
そこから親しみや憧れや恋へ変わっていくことはあるけれど、入口はだいたい“すごい”だ。
そして学校の久瀬湊人もまた、同じ入り方をされ始めているのかもしれない。
「……困りますね」
半分本音でそう言うと、すばるが吹き出した。
「そこ困るんだ」
「困るでしょ」
真白が言う。
「アンタ、すごいって思われるの苦手そうだし」
「否定はしません」
「それも合ってる」
今度は日野まで頷く。
笑いが起きる。
けれど、その笑いの下で、言えないことはまた一つ増えていた。
もし自分が本当に“尊敬されるタイプ”なら、その入口の先にあるものへ、どうやって正体を隠したまま向き合えばいいのか。
真白のツンデレめいた距離の近さ。
紬希の静かな尊敬。
すばるの解像度高すぎる興味。
近づくほど、言えないことが増えていく。
◇
放課後、教室にはいつものように少しだけ人が残っていた。
日野は部活の友達に呼ばれて先に出た。
すばるは先生へ提出物を持っていくと言って教室を離れた。
教室に残ったのは、真白と紬希と、湊人。
気まずいわけではない。
でも、妙に静かだ。
紬希は席でノートを鞄へしまっている。
真白は窓の外を見ながら、何か考えごとをしているようだった。
その静けさを最初に破ったのは、紬希だった。
「あの」
「はい」
湊人が顔を上げる。
「この前、移動教室の時……」
「ああ、ノートの件ですか」
「うん。あれもそうだけど」
紬希は少しだけ迷ってから続ける。
「たぶん、久瀬くんって……人が困ってる時に、すぐ気づくよね」
その問いはやわらかい。
でも核心に近い。
真白も、窓の外を見たまま少しだけ耳を向けているのが分かる。
「どうでしょう」
湊人は慎重に言う。
「気づける時もあれば、気づけない時もあります」
「でも、わりと早い」
紬希は小さく笑った。
「そういう人、すごいなって思う」
その言葉に、真白が小さく息を吐く。
「ほらね」
ぽつりと呟く。
「え?」
紬希が見る。
「だから言ったじゃない。アンタ、尊敬される方が厄介そうって」
「柊坂さん」
「何」
「今、それを本人の前で言いますか」
「言う」
真白はそっけなく返した。
「だって本当だし」
そして少しだけこちらを見る。
「アンタ、自分がそういうふうに見られるの、たぶん苦手でしょ」
図星だった。
「……まあ」
苦笑いしか出ない。
「否定はしません」
「やっぱり」
真白は小さく頷く。
その横で、紬希が少しだけ不思議そうにこちらを見る。
「苦手なんだ」
「そうですね」
「なんで?」
純粋な問いだった。
だからこそ、答えづらい。
なんで。
そんなもの、本当のことを言えば簡単だ。
尊敬の入口の先には、いつも“知られてはいけない何か”がぶら下がっているから。
配信でも、家でも、そして今の学校でも。
でも、それは言えない。
「……期待されると、少し緊張するので」
できるだけ本音に近い形で返す。
紬希は「そっか」と小さく頷いた。
真白はそれを聞いて、少しだけ複雑そうな顔をした。
「でも」
紬希が言う。
「期待されるのって、ちゃんとそう見えてるからだと思う」
その一言は、アルトへ向ける感情にも、久瀬へ向ける今の気持ちにも、どちらにもかかっていたのかもしれない。
湊人は何も言えなかった。
言えないことが、また増える。
少しずつ、確実に。
◇
その夜、自室で配信準備をしながら、湊人は昼と放課後の会話を思い返していた。
紬希の「好きになるというより、先にすごいなと思う感じ」。
真白の「アンタ、自分がそう見られるの苦手でしょ」。
そして、「期待されるのって、ちゃんとそう見えてるからだと思う」というやわらかな一言。
どれも正しい。
正しいからこそ、刺さる。
天瀬アルトとしての自分は、そう見られることに慣れている。
見られ、期待され、その期待に応えることで場を作ってきた。
でも久瀬湊人としての自分は、まだそれに慣れていない。
むしろ逃げたいと思っている部分すらある。
なのに、学校の側では少しずつ“そういう人”として認識され始めている。
近づくほど、言えないことが増えていく。
でも同時に、近づかなければ今の居場所はできなかった。
矛盾している。
けれど、それが今の現実だった。
配信ソフトを立ち上げ、マイクの前に座る。
コメント欄には今日も待機の文字が流れていた。
夜の自分は、やっぱり少しだけ上手く笑える。
でも今日の胸の奥に残っているのは、昼休みの窓際や放課後の静かな教室で交わした、不器用で正直な言葉たちだった。
それらを振り切れないまま、それでも配信を始める準備をする自分に、湊人は小さく苦笑した。
「……本当に、難易度高すぎるな」
誰に聞かせるでもなく呟いて、開始時間のボタンへ手を伸ばす。
学校では言えないことが増える。
配信では言葉が武器になる。
そのあいだで揺れている自分を、今はまだ誰も知らない。




