第15話 たった一つのミスが、秘密の輪郭をはっきりさせる
その金曜日は、朝から何もかもが半歩ずつ噛み合っていなかった。
目覚ましより先に起きたのに、気分は重い。
制服のボタンを留める手元が一度だけずれる。
朝食のトーストは少し焼きすぎた。
駅までの道では信号に二回連続で引っかかり、教室へ入る直前、スマホの画面に新しい通知が灯る。
本日十九時半、案件先との事前確認前倒し。
マネージャーからだった。
前倒し。
その二文字を見た瞬間、胸の奥が微かに軋む。
今日の夜は、もともと軽い事前確認と、そのあとに短めの配信が入っていた。だから放課後に少し余裕があるはずだと思っていたのに、その“少し”が削られる。
そして今日は、学校側でも油断できない日だった。
日野が言っていた土曜のカラオケの話。
鳴海すばるの“次こそ早めに声をかける”宣言。
真白の、来れるなら来た方がいいという視線。
紬希の、静かに近づいてくる尊敬の熱。
全部が少しずつ、自分の昼の世界へ絡みついてきている。
「……嫌な感じだな」
校門をくぐりながら、小さく呟く。
こういう時の自分は、大体どこかで判断を誤る。
夜の予定を気にしすぎて、昼の顔が薄くなる。
昼の会話に引っ張られて、夜の準備へ集中しきれない。
両方を抱えたまま歩く日は、たいてい危うい。
◇
教室へ入ると、真っ先にすばるの声が飛んできた。
「おはよ! 今日ちょっと急ぎの話ある!」
「朝一でそれ?」
真白が呆れる。
「だって大事だから」
「鳴海にとっての“大事”は九割推し関連でしょ」
「今日は一応リアル寄り!」
すばるが言い切る。
「土曜の話、詰めたいの!」
日野が前の席から振り返る。
「お、ちょうどよかった。久瀬も来たし」
「……土曜」
湊人は思わずその単語を繰り返した。
「なに、その“土曜”って初めて聞いたみたいな反応」
真白が言う。
「覚えてはいます」
「“覚えてはいます”」
すばるが笑う。
「それもう来る気半分以下の人の言い方じゃん」
「違います」
「じゃあどのくらい?」
日野が聞く。
「行けるように、できれば調整したいと思っています」
一番正確で、一番曖昧な答えだった。
すばるが両手で顔を覆う。
「出た、その真面目なやつ」
「悪い?」
真白が言う。
「悪くないけど、こういう時だけ“行く”って言わないの、ほんとに久瀬くんって感じ」
「褒めてる?」
日野が笑う。
「半分は」
「残り半分は?」
「面倒」
「即答だな」
教室に小さな笑いが起きる。
湊人も少しだけ笑ったが、胸の奥の緊張はほどけない。
十九時半。
前倒し。
今夜のスケジュールを頭の片隅で何度も確認してしまう。
土曜の予定の話をされれば、本当なら自分ももう少し自然に混ざれたはずだ。
でも今は、その先の夜がちらついて、どうしても足場が不安定になる。
真白がふいにこちらを見る。
「また、今日もどっかで消えるの?」
その聞き方は、以前よりずっと柔らかかった。
責めるというより、確認に近い。
だからこそ、少しだけ苦しい。
「……帰りは、あまり遅くできないかもしれません」
「そっか」
真白は短くそれだけ言った。
だが、その“そっか”は妙に静かで、湊人はそれ以上うまく言葉を足せなかった。
◇
一限目、二限目、三限目。
授業は普通に進んだ。
少なくとも表面上は。
だが湊人の意識は、何度もスマホの通知欄を思い出していた。
前倒しされた事前確認。
そのあとに配信。
帰宅時間。
準備時間。
もし誰かに放課後少し引き止められたら、その時点でかなり危うい。
こういう時は、学校側の顔がどうしても薄くなる。
自分でも分かるくらいに。
「久瀬」
世界史の授業中、小声で日野が言う。
「ページ」
「……あ」
まただ。
教科書のページがずれている。
「すみません」
「今日ほんとぼーっとしてんな」
「少し」
「“少し”じゃないだろ」
日野は苦笑して前へ向き直った。
斜め後ろから、紬希の視線が一瞬だけこちらへ触れた気がした。
横からは、真白の小さなため息も聞こえた。
見られている。
それだけでなく、“今日はちょっと違う”ことが、もう周囲に伝わり始めている。
まずい。
まだ何も起きていないのに、もうまずいと分かる。
◇
昼休み、窓際の場所。
いつも通りにパンを並べて、飲み物を置いて、会話が始まる。
だが今日は、湊人の返事が自分でも少しだけ遅い。
「で、土曜どうする?」
すばるがまた話を戻す。
「時間は昼からで、駅前集合。カラオケ二時間、そのあと自由解散でどう?」
「いいんじゃね」
日野が答える。
「真白は?」
「行く」
あっさりだ。
「意外と即答」
すばるが言う。
「別に歌うのは嫌いじゃないし」
「へえ」
すばるがにやっとする。
「久瀬くんは?」
三人の視線がまたこちらへ集まる。
ここで、ちゃんと何かを返さなければいけない。
そう思った瞬間だった。
湊人のスマホが、机の上で小さく震えた。
誰にも見えないくらいの短い通知。
だが、本人には十分だった。
確認時刻、さらに十五分前倒し可能性あり。
マネージャー。
頭の中で、夜の予定がさらに崩れる音がした。
「……あ」
その声は、ごく小さかったはずだ。
けれど、窓際の距離では十分に届いた。
「なに?」
真白が聞く。
「いえ」
反射的にスマホを伏せる。
「どうしたの?」
すばるも身を乗り出す。
「ちょっと、連絡が」
「家?」
日野が何気なく聞く。
そこで、ほんの一瞬だけ迷った。
本当は“仕事”だ。
でも、それは言えない。
「……はい」
結局、そう答えてしまった。
その一拍の間が、今日はやけに長かった。
真白がじっとこちらを見ている。
すばるも、冗談っぽい顔を少しだけ引っ込めている。
紬希はお弁当箱の上で手を止めたまま、静かに視線を下げた。
「そっか」
日野が空気を軽くしようとするように言う。
「じゃ、やっぱ難しい?」
「……たぶん」
「たぶん、ね」
真白が繰り返す。
「はい」
「最近それ多い」
その言い方に棘はなかった。
でも、あきらめに似たものが少し混ざっていた。
湊人の胸の奥が、少しだけ痛む。
「ごめ――」
「それ禁止」
真白がすぐに言う。
「でも」
「“でも”も今日は多い」
静かな指摘だった。
その静かさが余計に刺さる。
すばるが小さく息を吐く。
「久瀬くんさ」
「はい」
「無理に言わなくていいけど、言えないなら言えないで、もうちょい自然にしてくれた方が楽」
それは、思っていたよりずっと核心だった。
無理に言わなくていい。
でも、言えないことを抱えたまま不自然になるくらいなら、何か別のやり方を見つけてほしい。
そう言われているのだと分かる。
「……すみません」
小さく言ってしまう。
真白がまた眉を寄せる。
「だからそれ」
「でも、本当に」
「アンタの“本当に”って、ちゃんとしてる時ほど困るのよ」
その一言に、湊人は返せなくなった。
紬希がそこで、小さく口を開いた。
「……来られないなら、仕方ないと思う」
やわらかい声だった。
けれど、そのやわらかさがかえって苦しい。
「うん」
すばるが頷く。
「分かってる。分かってるんだけど」
「なんか、ちょっとだけ寂しいだけ」
さらっと言ったのは日野だった。
笑いながら言うくせに、余計な装飾がない。
寂しい。
その一言が、昼の空気を少しだけ静かにした。
湊人は、パンの袋を見つめたまま、何も言えなかった。
◇
五限目の終わり頃には、気持ちは完全に焦りへ寄っていた。
夜の予定はさらに前倒し確定。
帰宅後すぐに準備しなければ間に合わない。
にもかかわらず、今日の自分は学校側でもかなり失点している感覚がある。
土曜の話にちゃんと答えられなかった。
ごまかし方も下手だった。
真白にも、すばるにも、日野にも、それぞれ別の角度で引っかかりを残した。
しかも、その不安定さを紬希にまで見られている。
嫌な予感は、結局朝からずっと正しかった。
問題は、ここで終わらなかったことだ。
ホームルームが終わり、教室が放課後のざわめきへ変わる。
湊人はできるだけ自然に、でも速く荷物をまとめた。
今すぐ帰れば、ぎりぎり間に合う。
玄関を出て駅へ向かって、家へ戻って、機材を立ち上げて――。
「久瀬」
呼び止めたのは真白だった。
心臓がまた嫌な鳴り方をする。
「はい」
「今日、ほんとに急ぐの?」
「ええ」
嘘ではない。
「……そっか」
真白はそこで少しだけ言葉を止めた。
「いや、別に引き止めたいとかじゃなくて」
「はい」
「ただ」
視線が少しだけ揺れる。
「またそうやって急にいなくなるんだなって思っただけ」
昼休みにも似た空気があった。
でも今のは、さらに近い。
どう返せばいいのか分からない。
言えることが少なすぎる。
けれど何も言わずに立ち去るのは、もっと違う。
「……本当は」
気づけば、言葉が先に出ていた。
「行きたいんです」
真白の目が少しだけ見開かれる。
近くにいた日野とすばるも、動きを止めた。
紬希も、帰り支度の手を止めている気配がある。
「土曜も」
湊人は続ける。
「こういう放課後も、できれば」
そこまで言って、言葉が詰まる。
できれば、の先を言えない。
言えば、たぶんもっと多くのことを説明しなければならなくなるからだ。
配信があるから。
仕事があるから。
帰らないといけないから。
でもそれは言えない。
沈黙が落ちた。
その沈黙の長さに耐えきれなくなった瞬間、湊人は一番よくない形で言葉を継いでしまう。
「――でも、今日は本当に外せないので」
その言い方。
言った瞬間、自分でも分かった。
今のは、完全に“天瀬アルト”の方の言い回しだった。
学校の久瀬湊人なら、もっと曖昧に、もっと雑に言えたはずだ。
でも焦ったせいで、相手をなだめながら線を引く配信者の癖が、そのまま出た。
教室の空気が、ほんの一瞬だけ変わる。
「……あ」
最初に小さく漏らしたのは、すばるだった。
その“あ”には、驚きと確信未満の何かが混ざっている。
真白も、目を細めた。
紬希の肩がわずかに揺れたのが見えた。
しまった。
今のは、まずい。
湊人はすぐに視線を逸らして鞄を持ち直す。
「すみません。では、また明日」
逃げるように教室を出る。
背中に、誰の声も追ってこない。
それが逆に怖かった。
◇
廊下を早足で歩きながら、湊人は心臓の音を押さえられなかった。
今のは何だ。
ただの言い方だ。
たった一つの言い回し。
それだけのことのはずだ。
なのに、あの一瞬で、空気の輪郭が変わったのが分かった。
すばるはきっと引っかかった。
真白は違和感として受け取った。
紬希は――紬希はたぶん、一番深いところで何かを揺らした。
たった一つのミス。
でも、そういうものほど輪郭をはっきりさせる。
校舎を出て、駅へ向かう途中も、その感触は消えなかった。
◇
家に着き、制服を脱いで機材の前へ座る。
時間はぎりぎりだ。
案件先との事前確認に入るまで数分しかない。
本来なら仕事へ完全に意識を切り替えるべきタイミングなのに、頭の中ではまだ教室の空気が離れない。
「……失敗した」
自分で言う。
かなりはっきりと。
配信が始まれば、天瀬アルトとしてはいつも通りにやれるだろう。
先方とのやり取りも、コメントの温度管理も、場の整え方も。
それはもう身体に馴染んでいる。
でも、今日の学校側で残した違和感は、夜のうちに消えてくれない気がした。
スマホが震える。
クラスのグループではない。
個人メッセージ。
送り主は、鳴海すばる。
画面を開くと、短い文が一つだけあった。
『さっきの言い方、ちょっとだけアルトっぽかった』
それだけ。
絵文字もスタンプもない。
湊人はしばらくその文字列を見つめていた。
冗談半分だろうか。
それとも、半分以上本気だろうか。
どちらにせよ、“引っかかった”ことだけは確かだった。
すぐには返せない。
返す時間もないし、返し方も分からない。
そのままスマホを伏せると、今度は事務所の通知が鳴る。
事前確認開始。
画面の向こう側へ入る直前、湊人は一度だけ深く息を吐いた。
教室では、たった一つのミスで秘密の輪郭が少しだけはっきりした。
でも、今から入る場所では、その“言い方”こそが武器になる。
昼と夜。
学校と配信。
そのどちらも自分なのに、今日ほどその切り替えが残酷に感じたことはなかった。




