第16話 僕の青春ラブコメは、まだ始まったばかりらしい
翌朝、久瀬湊人はいつもより五分早く教室の前に立っていた。
早く来たからといって、何かが解決するわけではない。
むしろ、早く来てしまうくらいには落ち着かないというだけの話だ。
昨日の放課後。
あの一言。
――でも、今日は本当に外せないので。
たったそれだけの言い回し。
けれど、鳴海すばるには“ちょっとだけアルトっぽかった”と見抜かれた。
冗談半分かもしれない。半分以上本気かもしれない。
どちらにせよ、あの瞬間、自分が“学校の久瀬湊人”ではなく、“配信者として人をやわらかく引かせる側の話し方”をしてしまったのは事実だった。
その後の配信も、案件先との確認も、表向きは何事もなくこなした。
天瀬アルトとしては、むしろ普段通りだった。
問題は、普段通りの自分を学校へ持ち込んでしまったことだ。
「……どうするかな」
小さく呟いてから、湊人は教室の扉を開けた。
まだ朝の生徒はまばらだ。
日野はいない。
すばるもまだ来ていない。
ただ一人、窓際の席に柊坂真白だけがいた。
真白は自分の席に座り、窓から入る朝の光をぼんやり眺めていた。教室のざわめきがまだ生まれきっていない時間帯だからか、その横顔はいつもより少しだけ静かに見える。
扉の音でこちらへ気づく。
目が合う。
ほんの一瞬の間。
「……おはよう」
真白が先に言った。
「おはようございます」
湊人は少しだけ驚きながら返す。
昨日の空気を引きずっているなら、もっと気まずい始まり方もありえた。
だが、真白の声色は意外と普通だった。
いや、普通というより、少しだけ考えたうえで“普通にした”声だったのかもしれない。
湊人が自席へ鞄を置くと、真白が視線をこちらへ向けたままぽつりと言う。
「昨日」
心臓が嫌な鳴り方をする。
「はい」
「ちゃんと帰れたの」
一拍、遅れて意味が分かった。
責められるのかと思った。
問い詰められるのかと思った。
でも真白の最初の言葉は、そうではなかった。
「……はい。なんとか」
「そ」
真白はそれだけ言って、また窓の外へ視線を戻した。
「ならいい」
その言葉の奥に、いろいろなものが混ざっている気がした。
昨日は引き止めるようなことを言ってしまったかもしれないという気まずさ。
でも、帰らなければならない事情があったなら、それ自体を責めるつもりはないという線引き。
そして何より、“ちゃんと帰れたか”を確認したかったという、ごく単純な心配。
「……ありがとうございます」
湊人が小さく言うと、真白はうっすらと眉を寄せた。
「だからさ」
「はい」
「アンタ、そういう時だけ礼が丁寧すぎ」
「気をつけます」
「それも違う」
真白はため息をつく。
「もういい。朝から面倒くさい」
「それはすみません」
「だから謝るなって!」
そこでようやく、少しだけいつもの調子が戻る。
そのことに、湊人は心の底から安堵した。
気まずさが全部消えたわけではない。
昨日の違和感も、言い回しのことも、たぶんどこかに残っている。
でも真白は、とりあえず朝の最初に、その残り火を大きくしない方を選んでくれたらしい。
「……柊坂さん」
「なに」
「怒って、いないんですか」
聞いてから、自分でも少し不用意だと思った。
真白は少しだけ黙って、それから目を細める。
「怒ってない」
「そうですか」
「ただ」
「ただ?」
「何かあるなら、毎回あんなふうに変な顔しながら誤魔化すの、下手だなとは思ってる」
やはり、そこは見抜かれていた。
湊人は苦笑するしかない。
「精進します」
「だからそういうの」
真白が呆れたように言う。
「……でもまあ、昨日の最後の言い方は、ちょっと変だった」
その一言に、背筋がひやりとする。
「変、でしたか」
「うん。なんか」
真白は言葉を探すように少しだけ視線を上げた。
「いつものアンタより、“ちゃんと離すための言い方”だった」
まさにその通りだった。
ただ断るのではなく、相手を傷つけないように、でもこれ以上は踏み込ませないように、やわらかく線を引く。
それは配信者の癖だ。
教室では、必要ないはずの技術だった。
「……よく見ていますね」
思わずそう言うと、真白は小さく鼻を鳴らす。
「前から言ってるでしょ」
「そうでした」
「アンタが分かりやすく変だから」
「褒められてます?」
「今日は三割」
「低いですね」
「妥当でしょ」
また少しだけ笑いが混ざる。
朝の光の中で交わされるその会話は、昨日よりずっと呼吸がしやすかった。
◇
日野が来て、すばるが来て、教室はいつもの朝のざわめきを取り戻した。
問題は鳴海すばるだった。
昨日のメッセージ。
さっきの言い方、ちょっとだけアルトっぽかった。
あれを送ってきた本人が、今日はどんな顔でこちらを見るのか。
湊人は表面上はいつも通りを装っていたが、内心ではかなり身構えていた。
「おはよー!」
すばるが教室へ滑り込んでくる。
いつも通り元気だ。
だが、席に着くなりこちらを見る目だけが少し違う。
「……おはようございます」
「うん、おはよ」
返事は普通。
でも、そのあとに一拍置いてから続く。
「昨日はごめん」
予想外の言葉だった。
「え?」
「メッセージ」
すばるが鞄を置きながら言う。
「ちょっと変だったかなって」
湊人は一瞬だけ言葉を失う。
すばるは熱量が高い。
勢いで踏み込みすぎることもある。
でも今の言い方は、その自覚がちゃんとある人のものだった。
「……いえ」
湊人は慎重に返す。
「気にしてはいません」
「ほんとに?」
「はい」
「そっか」
すばるは少しだけ肩の力を抜いた。
「ならよかった。でもまあ、その……」
「はい」
「似てるって思ったのはほんとなんだけど」
「鳴海」
真白が低い声を出す。
「はい」
「朝一で蒸し返すな」
「いや、蒸し返すっていうか、整理したかっただけ!」
「朝から人の心拍数を上げる整理やめて」
「そんなに上がってる?」
日野が笑いながらこちらを見る。
「久瀬、今ちょっと固まったよな」
「……気のせいです」
「それ昨日も聞いた」
すばるが言って、少しだけ笑う。
その笑い方には、前ほどの勢いがない。
「でも、大丈夫。私もさすがに“本人かも!”って本気で言ってるわけじゃないから」
「そこを本気にされたら困ります」
「だよねー」
すばるは頬杖をついた。
「ただ、たまに似てるとこ見つけると騒ぎたくなるの。オタクだから」
「それで全部済ませるの、強いわね」
真白が言う。
「でもそういう生き物だから」
「雑」
「真理」
日野が吹き出す。
この流れなら、もう少しだけ自然に着地できる。
湊人はそう判断して、小さく笑った。
「では、鳴海さんの中では、僕は“たまに推しに似ている同級生”ということで」
「うん」
すばるが即答する。
「今のところは」
「“今のところ”って付けるな」
真白がすぐに刺す。
「いやだって、これからもたまに“ん?”ってなるかもしれないし」
「それ以上を掘らないなら好きにしなさい」
「真白、今日ちょっと保護者っぽくない?」
「うるさい」
すばるが笑い、日野も笑い、教室の空気はようやく普段に近づく。
救われた、と思う。
すばるの中で完全に消えたわけではないだろう。
けれど少なくとも、“本人説を深掘る”より、“似てて面白い同級生”の方へ落としてくれたらしい。
それだけでも今は十分だった。
◇
三限目のあと、昼休み。
窓際には今日も自然に人が集まった。
パンの袋を開く音。
飲み物のキャップを回す音。
紬希のお弁当箱の蓋が開く小さな音。
何気ない、でももうすっかり馴染んだ昼の風景だった。
「そういえば」
日野がコロッケパンをかじりながら言う。
「土曜、駅前集合でほぼ決まりな」
「時間は?」
真白が聞く。
「十二時でどう?」
「それなら平気」
「鳴海は?」
「余裕」
三人分の視線が、最後にこちらへ向く。
湊人は一瞬だけ迷った。
でも、今日は昨日とは違う返しをしたいと思った。
「……まだ確定とは言えませんが」
「うん」
日野が待つ。
「行けるように、調整します」
昨日より一歩だけ前に出た言い方だった。
すばるが目を丸くする。
「お」
真白も少しだけ瞬きをした。
紬希は黙ったままだが、その横顔がほんの少しだけやわらかくなったように見える。
「それ、昨日よりだいぶ前向きじゃん」
すばるが言う。
「努力してみます」
「だからそこ、“行く”じゃないんだ」
真白が半分呆れながら言う。
「でもまあ、昨日よりはマシ」
「マシいただきました」
日野が笑う。
「評価が低めでリアル」
「それが真白だから」
すばるが言う。
小さな笑いが起きる。
その空気の中で、紬希が静かに口を開いた。
「来られたら、たぶん楽しいと思う」
それはさりげない一言だった。
でも、紬希からそう言われるのは初めてだった。
「……ありがとうございます」
湊人が言うと、紬希は少しだけ照れたように笑う。
「ううん。なんとなく」
その“なんとなく”のやわらかさが、妙に胸へ残る。
真白はそのやりとりを見ながら、少しだけ目を細めた。
「倉科さん、最近ちょっと積極的よね」
「え」
「そう?」
紬希が困ったように目を瞬かせる。
「前より話す」
真白は淡々と言う。
「悪い意味じゃなくて」
そこへすばるが頷く。
「わかる! 最初はもっと静かに端っこにいた感じだったのに」
「今は普通に混ざってるし」
日野も言う。
「そうかな」
紬希は少しだけお弁当箱を見つめる。
「……でも、ここ、話しやすいから」
その一言で、窓際の空気が少しだけ静かになった。
話しやすい。
その言葉は、何でもないようでいて、かなり大きい。
湊人はふと、自分も同じことを感じていたのだと気づく。
ここは話しやすい。
教室の中の、少しだけ呼吸がしやすい場所だ。
それができたのは、自分がここへ来たからではなく、もともといた三人の空気がそうだったからだろう。
でもそこへ、自分も少しは加わっているのかもしれない。
「……なんか、いいね」
すばるが言う。
「何がですか」
「こういうの」
「雑だな」
真白が呆れる。
「でも分かるでしょ。なんか“クラスの居場所”って感じ」
「鳴海にしては珍しく、ちゃんとしたこと言う」
「失礼すぎない?」
また笑いが起きる。
笑いながら、湊人は少しだけ思う。
この場所は、自分の青春ラブコメの舞台というより、もう少し手前の――ただ誰かと一緒にいられる日常の場所なのかもしれない。
だからこそ、大事で、壊したくない。
◇
放課後、教室の人が少しずつ減っていく中で、湊人のスマホが一度だけ震えた。
事務所の通知だった。
来週火曜、家側との面談。時間詳細後送。
その一文を見た瞬間、胸の奥が冷える。
家側。
その単語だけで、学校とも配信とも違うもう一つの世界の気配が立ち上がる。
忘れていたわけではない。
むしろ、ずっと視界の端にはあった。
けれど最近は、学校と配信の綱渡りだけで手一杯になっていて、その第三の輪郭を少し遠ざけていた。
だが向こうは、ちゃんとこちらを見ているらしい。
「……どうしたの?」
紬希の声だった。
気づけば、教室にはまだ彼女と真白、それから自分が残っていた。
「いえ」
反射的にスマホを伏せる。
この動きがもう不自然だという自覚はある。
でも、どうしてもそうしてしまう。
真白がその手元をちらりと見る。
「また?」
短い一言。
でも意味は十分すぎるほど分かる。
また、何か言えない連絡。
また、急に遠くなる気配。
また、自分たちのいる場所とは別の何か。
「……そう、ですね」
湊人は苦笑するしかない。
嘘をつきたくない。
でも、本当のことは言えない。
その時、紬希が静かに言った。
「言えないなら、無理に言わなくてもいいと思う」
やわらかい声だった。
やわらかいのに、妙に胸へ沁みる。
「でも」
湊人が何か返そうとすると、真白がそこで言葉を継いだ。
「その代わり」
「……はい」
「毎回そんな顔しないで」
真白は窓際に寄りかかるように立ったまま、こちらを見る。
「“言えません”“でも言いたいです”“ごめんなさい”みたいな顔」
「そんなに出てますか」
「出てる」
即答だった。
紬希も少しだけ困ったように笑う。
「……出てるかも」
二人に同時に言われると、さすがに否定できない。
湊人は小さく息を吐いた。
「……努力します」
「そこじゃない」
真白がまた言う。
「だから、アンタは一回そこをやめなさいって」
「では、どうすれば」
「……難しい顔のまま黙るくらいなら、普通にして」
それはかなり無茶な注文のようにも思えた。
だが真白の言いたいことは分かる。
言えないなら言えない。
でも、そのたびに“何か大きな秘密があります”みたいな顔をしていたら、余計に周りをざわつかせるだけだ。
「……善処します」
「それも似たようなもんでしょ」
真白が呆れる。
紬希が小さく笑った。
その笑いで、教室の空気が少しだけ和らぐ。
でも湊人の胸の奥では、通知の文面がまだ冷たく残っていた。
家側との面談。
第三の世界。
配信とも学校とも違う、自分の出自に繋がる場所。
その輪郭が、とうとうまた近づいてきた。
◇
夜、自室の机に向かいながら、湊人は今日のことをずっと考えていた。
真白は昨日の違和感を大きくせず、今朝を“普通”で始めてくれた。
すばるは、自分なりに線を引く形で“今のところは似てる同級生”へ落としてくれた。
紬希は、静かな言葉で“ここは話しやすい場所”だと伝えてくれた。
そして、最後には二人揃って、“言えないなら言えないで、もう少し普通にして”と教えてくれた。
言えないことは増えていく。
でも、その増えた言えなさを抱えたまま、どう振る舞うかは選べるのかもしれない。
画面の端には、家側からの通知がまだ残っている。
学校。
配信。
そして家。
三つの世界は、今のところまだ別々だ。
けれど、その境界は思っていたより脆い。
もしどれか一つが強く触れれば、他の二つにも波が立つ。
その予感が、今日はいつもよりはっきりしていた。
湊人は椅子にもたれ、天井を見上げる。
「……まだ始まったばかり、か」
小さく呟く。
学校の居場所は、ようやく形になり始めたところだ。
真白との距離も、すばるとの軽口も、紬希の静かな熱も、まだ全部“これから”の顔をしている。
配信の方も、箱の中での立場や、こはくとの距離が少しずつ変わり始めている。
そしてその先に、家側の世界がある。
どれもまだ途中。
何一つ終わっていない。
むしろ、ようやく始まりかけたところなのだろう。
スマホの画面を閉じる。
PCの待機画面には、今夜の雑談枠のコメントが少しずつ集まり始めていた。
学校では地味。
配信では人気。
さらに、隠し事まである。
それなのに、教室の窓際には少しずつ“いてほしい場所”ができてしまった。
コメント欄の向こう側には、“来てよかったと思える場所”を作ろうとしている後輩がいる。
そして家側は、そろそろこちらへ手を伸ばしてくる。
それら全部を前にして、湊人は小さく笑った。
困ったような、でも少しだけ楽しそうな笑いだった。
「僕の青春ラブコメは……」
そこで一度言葉を止める。
その先は、誰に聞かせるでもない独り言だ。
「――まだ、始まったばかりらしい」
そしてその夜もまた、天瀬アルトとしてマイクの前に座る前の数秒だけ、湊人は学校の窓際の光景を思い出していた。
あの場所へ、また明日も普通の顔で行けるだろうか。
言えないことを抱えたまま、それでも笑えるだろうか。
答えはまだない。
でも、ないままで進むしかないことだけは、もう分かっていた。




