第17話 約束を守ろうとするだけで、青春は少しうれしくなる
土曜日の約束というものは、平日の教室にいる時より、放課後の帰り道より、夜の自室にいる時の方がずっと重く感じられる。
金曜の夜、久瀬湊人は机の前に座ったまま、スマホのカレンダーと事務所のスケジュール表を何度も見比べていた。
土曜、十二時、駅前集合、カラオケ二時間。
それだけなら難しくない。
むしろ、今の湊人にとっては少し楽しみなくらいだ。
問題は、その周辺に生えている別の予定だった。
AstraLink側の共有カレンダーには、午後からオンラインの軽い確認打ち合わせの仮予定が入っている。確定ではない。だが“仮”というのが一番扱いに困る。なくなる可能性もあれば、そのまま直前で本決まりになることもある。
さらに、夜には自分の配信もある。
それ自体はいつものことだ。だが、昼の時間が後ろへずれるほど、夜の準備も圧迫される。
「……行くだけなら、いける」
小さく呟く。
ただ“行くだけ”ではだめなのだろうとも思う。
来ると言っておいて、途中で慌ただしく帰る。
いてもどこか上の空。
それでは結局、“また急にいなくなる”人のままだ。
だから、ちゃんと来る。
できるだけ自然に、一緒にいる。
そういう土曜にしたい。
そう思っている自分に、少しだけ驚く。
前の自分なら、学校の約束よりも“無難にやり過ごすこと”を優先していたはずだ。
目立たないこと。深入りしないこと。急な予定変更で誰かに何かを思われるくらいなら、最初から距離を取ること。
それが一番楽で、一番安全だった。
でも今は違う。
真白の「来れるなら、来た方がいい」も。
すばるの「今度は早めに言うから」も。
日野の「また一緒に行こうぜ」も。
紬希の「来られたら、たぶん楽しいと思う」も。
全部がちゃんと胸に残ってしまっている。
「……約束、守りたいな」
その言葉を口にした瞬間、妙に照れくさくなって、湊人は自分で自分に苦笑した。
学校の約束を守りたい。
たったそれだけのことが、どうしてこんなに落ち着かないのだろう。
結局その夜は、打ち合わせ仮予定の担当マネージャーへ、できるだけ早い時間で調整できないか問い合わせを入れてから眠った。
◇
翌朝、教室へ入ると、月曜特有の少し眠い空気の中で、日野がいつものように前の席から振り向いた。
「おはよー、久瀬」
「おはようございます」
「なんか今日ちょっとちゃんとしてる」
「普段はちゃんとしていないみたいな言い方ですね」
「いや、そうじゃなくて」
日野は笑う。
「なんか決意した人の顔してる」
ぎくりとした。
そこまで分かりやすいだろうか。
「何それ」
すばるが会話へ混ざる。
「久瀬くん、今日は朝から“私は真面目です”みたいな顔してるの?」
「それはいつもじゃない?」
真白が言う。
湊人が自席へ鞄を置くと、真白は机に頬杖をついたままこちらを見上げた。
「……で」
「はい」
「土曜」
いきなり本題だった。
心臓が少し跳ねる。
「はい」
「来るの、来ないの」
真白の聞き方は相変わらずぶっきらぼうだ。
でもそのぶっきらぼうさの奥に、“ちゃんと先に確認しておきたい”という感じがあるのは、もう分かるようになっていた。
「今のところは、行けるように調整しています」
「そこまだ確定しないんだ」
すばるが言う。
「でも前よりは前向き」
「それは、まあ」
「“それは、まあ”だって」
日野が笑う。
真白はそこで、少しだけ視線を細めた。
「アンタ、それほんとに来る気ある?」
「あります」
これは、かなり即答だった。
自分でも少し驚くくらいに。
真白も、ほんの少しだけ目を見開いた。
それからすぐに、何でもない顔へ戻る。
「……そう」
「はい」
「じゃあ、遅れないで」
「善処し――」
「それ禁止」
真白がすぐに切る。
「“善処します”も“努力します”も“調整します”も、最近のアンタ全部ちょっと逃げてる感じするから」
「厳しい」
湊人が思わず言うと、すばるが笑った。
「わかるー。でも今日の真白ちょっと正しい」
「“ちょっと”じゃなくてかなりでしょ」
真白が言う。
「来るなら来る、来られないなら来られない、そこだけは先に言いなさいよって話」
「……はい」
「そこで素直に頷くとこは好き」
「鳴海」
真白が低い声を出す。
「はい」
「その“好き”を軽く使うな」
「いや推し文脈じゃなくて」
「もっとだめ」
日野が吹き出す。
いつものやりとり。
いつもの軽口。
その流れの中で、湊人の胸の内には小さく熱いものが残っていた。
来るなら来る、来られないなら来られない。
それをちゃんと伝えてほしいと言われるのは、それだけ自分の存在が“予定に入っている”ということだ。
それは、少しうれしい。
そして少し怖い。
◇
一限目が始まる少し前、紬希が教室へ入ってきた。
今日も派手ではない。
いつも通り控えめで、静かで、自分の席へ向かう足音までやわらかい。
でも最近の湊人には、彼女が教室の空気の中へ以前より自然に馴染んでいることがよく分かる。
窓際の会話へも少しずつ入るようになったし、真白やすばると短くやりとりする時の表情も、最初よりずっとやわらかい。
紬希は席に鞄を置いたあと、こちらへ気づいて小さく会釈した。
「おはよう」
「おはようございます」
それだけの短いやり取りだったのに、妙に胸へ残る。
すばるがすぐにそこへ割って入った。
「倉科さん、土曜どうする?」
「え?」
「カラオケ」
「あ……行く、つもり」
紬希は少しだけ迷いながら答える。
「たぶん」
「“たぶん”だ」
日野が笑う。
「仲間がいる」
真白が湊人を見る。
「アンタだけじゃなかったわね」
「少し安心しました」
「そこ安心するとこ?」
「一人だけ曖昧だと目立ちそうだったので」
「十分目立つと思うけど」
すばるが言う。
紬希はそのやりとりを見て、小さく笑った。
ほんのわずかな笑みだったが、それが前より自然だった。
「……久瀬くんも、来られたらいいね」
やわらかい声だった。
さりげない言葉だった。
でも湊人は、その“来られたらいいね”に、想像以上に気持ちが引っ張られるのを感じた。
「はい」
できるだけ自然に返す。
「そうしたいと思っています」
紬希は少しだけ驚いたように瞬きをして、それから小さく頷いた。
「うん」
それだけ。
それだけなのに、妙に教室の空気が明るくなった気がした。
すばるが何か察したようににやにやし始め、真白がそれに気づいて「鳴海、その顔やめなさい」と冷たく刺し、日野が「今日も平和だな」と笑う。
湊人はそんな朝のやり取りの中で、気づいてしまった。
学校へ来るのが、少しだけ楽しみになっている。
それは、あまりにも危うくて、でも否定しにくい変化だった。
◇
二限目と三限目のあいだの休み時間。
廊下側の窓が少しだけ開いていて、春の風が教室へ入り込んでいた。
プリントを配る音。誰かの椅子を引く音。遠くから聞こえる別のクラスの笑い声。
そんなありふれた学校の音の中で、湊人は何となくスマホを確認した。
事務所からの返信はまだ来ていない。
打ち合わせ時間の調整がつくかどうか。それだけで土曜の難易度がかなり変わる。
朝からずっと、その小さな通知を待っている自分がいた。
「久瀬」
真白が小さく呼ぶ。
「はい」
「今、また予定見てたでしょ」
「……少しだけ」
「少しだけって顔じゃない」
さすがだと思う。
そして、そのさすがさに少し困る。
「土曜、そんなに綱渡りなの」
真白は言葉を選ばずに聞いてくる。
だがその聞き方が、今は少しだけ助かる。
変に遠慮されるより、こうして直球で来てもらった方が、自分も変なごまかし方をしにくい。
「はい」
正直に頷く。
「わりと」
「へえ」
「へえ、ですか」
「だってアンタがそこまで言うなら、本当にそうなんでしょ」
「信じていただけるんですね」
「疑う理由もないし」
真白はそう言ってから、少しだけ声を落とした。
「……でも、来ようとしてるのは分かる」
その一言が、胸の奥へ静かに落ちた。
「はい」
それしか言えなかった。
真白はそこで視線を逸らす。
「なら別にいい」
「よくないんじゃなかったんですか」
「よくないのは、何も言わないで消えるやつ」
「今回は、まだ消えていません」
「消えそうな顔してる」
「……すみません」
「だから謝るなって」
また同じやりとり。
でも、その繰り返しが今はむしろありがたかった。
◇
昼休み、窓際。
今日は珍しく、日野がパンを買い損ねた。
購買へ行った時には、目当ての惣菜パンがほとんど消えていたらしい。
「だから言ったじゃん、今日ちょっと遅かったって」
すばるが言う。
「鳴海の布教に付き合ってたからだろ」
「人のせいにしないで」
「実際そうだし」
「でもちゃんと面白かったでしょ?」
「それはまあ」
「ほら」
真白が牛乳パックを開けながら呆れる。
「アンタたち、朝から元気ね」
「真白だって今日は機嫌いいじゃん」
すばるが言う。
「別に」
「出た」
「その“別に”は半分くらい認めてるやつだな」
日野が笑う。
紬希は今日もお弁当を広げながら、その輪の端で静かに笑っていた。
以前より明らかに、ここで食べることに慣れてきている。
湊人はその空気の中でコロッケパンを齧りながら、少しだけ思う。
約束を守ろうとする。
ただそれだけのことで、教室の中の見え方が変わる。
前は“できるだけ目立たずにやり過ごすこと”しか考えていなかった。
でも今は、“ちゃんと来たい”とか“できれば一緒にいたい”と思ってしまう。
それが、青春の入口みたいで少し怖い。
「久瀬くん」
すばるが急に声をかける。
「はい」
「今、ちょっといい顔してた」
「何ですか、それ」
「“土曜ほんとは楽しみなんだろうな”って顔」
図星だった。
真白が即座にこちらを見る。
紬希も、少しだけ目を上げる。
日野は「まじで?」と笑っている。
「……鳴海さんの想像力が豊かですね」
湊人はできるだけ平静に返す。
「否定しないんだ」
すばるがにやりとする。
「危ない」
真白が言う。
「今日の鳴海、やたら勘がいい」
「今日に限らずでしょ」
「それはそう」
日野が頷く。
湊人はパンを持ったまま、小さく息を吐いた。
「行けるなら、楽しみではあります」
ついに、少しだけ本音が出た。
一瞬、窓際の空気が静かになる。
そして次の瞬間、すばるが机を叩きそうな勢いで言った。
「よし!」
「何が」
真白が呆れる。
「今ので十分! 来られるように調整してるし、楽しみでもある。もうそれだけで高得点!」
「評価が雑」
「でも大事でしょ」
すばるはそう言ってから、少しだけやわらかく笑う。
「来られなくても責めないけど、来たいって思ってくれてるなら、それでちょっとうれしい」
その言葉は、冗談っぽく始まったくせに、最後だけ妙にまっすぐだった。
真白も何も言わない。
紬希は小さく頷く。
日野は「それはまあ、分かる」と軽く笑う。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
約束を守りたいと願う。
ただそれだけで、こんなふうに受け取ってもらえる。
それが少し、うれしい。
少しどころではなく、かなりうれしいのかもしれない。
◇
放課後、授業が終わったあとも、湊人は何となくスマホを確認していた。
まだ返信はない。
打ち合わせ時間が決まらない限り、土曜の予定は確定しない。
それでも、今日は昨日までより気持ちが軽かった。
真白も、すばるも、日野も、紬希も、自分の曖昧さだけを責めているわけではないのだと、少し分かったからだ。
来られないことそのものより、気持ちが見えないことの方が、たぶん距離を作る。
なら、言える範囲で伝えればいいのかもしれない。
行きたいこと。
来る気があること。
でも全部は言えないこと。
それでも、前より少しだけ“ちゃんとここにいる人”へ近づける気がした。
「久瀬」
真白が席でノートを鞄にしまいながら言う。
「はい」
「今日、わりとマシ」
「何がですか」
「顔」
真白はそっけなく返す。
「昨日みたいに“今にもどっかへ消えます”って顔してない」
「……褒められてます?」
「今日は四割」
「上がりましたね」
「だからそういうとこ」
でも、その声には少し笑いが混じっていた。
そこへ日野が割り込む。
「お、じゃあ土曜ワンチャンある?」
「あるように頑張ります」
「それ善処と何が違うの」
すばるが言う。
「気持ち」
湊人はわりと本気で答えた。
一瞬、三人とも黙る。
そして日野が吹き出した。
「それ言えるならだいぶ来る気じゃん」
「鳴海、今のメモっといて」
真白が言う。
「してる」
「してるんだ」
「心の中で」
すばるが得意げに胸を張る。
紬希は少し離れた席で帰り支度をしながら、そのやりとりを見ていた。
目が合うと、小さく笑う。
「……来られるといいね」
その一言に、湊人も自然と笑った。
「はい」
短く返す。
その瞬間だった。
スマホが震えた。
全身の意識がそこへ集まる。
画面を見る。
事務所からだった。
土曜打ち合わせ、十六時へ変更。
一気に息が抜けた。
昼のカラオケは、かなり余裕を持って行ける。
「……っ」
思わず声にならない息が漏れる。
「なに」
真白がすぐ聞く。
すばるも日野も、視線をこちらへ向ける。
紬希も少しだけ立ち止まった。
湊人は画面を見たまま、珍しく迷わず言った。
「土曜、行けそうです」
一拍、教室が静まる。
そして次の瞬間、すばるが「よっしゃ!」と声を上げた。
「うるさい」
真白が刺すが、自分も少しだけ口元が緩んでいる。
「……へえ、ちゃんと来るんだ」
「来ます」
今度は、かなりはっきり言えた。
「遅れないようにします」
「そこも大事」
日野が笑う。
「よし、じゃあ決まりな」
紬希も、小さくだけど、ちゃんとうれしそうに笑っていた。
その笑顔を見た瞬間、湊人は不思議に思う。
約束が一つ守れそうになっただけで、どうしてこんなに胸が軽くなるのだろう。
◇
その夜、自室で配信準備をしながら、湊人は何度も土曜のことを思い返していた。
行けそうだ。
ちゃんと行ける。
途中で消えなくて済む。
少なくとも、昼のあの時間は、学校側の自分でいられる。
それだけのことなのに、心が少し浮ついている。
配信ソフトの待機画面を開き、コメント欄の流れを確認し、音声チェックをする。
いつも通りの夜の準備。
でも、今夜は胸の中に学校側の余韻が強く残っていた。
真白の「遅れないで」。
すばるの「それだけで高得点」。
日野の「ワンチャンある?」。
紬希の「来られるといいね」。
どれも軽い言葉だ。
けれど、その軽さが、今の自分には妙にあたたかい。
「……約束を守ろうとするだけで、こんなに違うのか」
口にしてみると、自分でも少し照れくさくなる。
学校では地味でいたい。
配信では人気者でいなければならない。
さらに家の事情という、誰にも言えない別の世界まである。
そんなややこしい自分が、土曜のカラオケにちゃんと行けることを、こんなにうれしく思っている。
それはたぶん、かなり危うい。
でも、危ういくらいでちょうどいいのかもしれないとも思う。
スマホの画面に、クラスのグループ通知が一つだけ上がる。
すばるからだった。
『土曜の選曲、気合い入れて考えとくね』
その下に、日野が『普通に歌いやすいやつも入れろよ』と返し、真白が『鳴海の選曲、偏るから任せすぎないで』と続けている。
そして少し遅れて、紬希が『私は何でも大丈夫』と短く書き込んだ。
その流れの一番下に、湊人は少しだけ考えてから打ち込む。
『ありがとうございます。当日はよろしくお願いします』
送信したあとで、自分でも少し硬すぎたかと思った。
だがすぐに、すばるが『そこは相変わらず真面目』と返し、日野が笑いのスタンプを送り、真白が『そのくらいでいい』とだけ書いた。
その一言に、胸の奥が静かに温かくなる。
約束を守ろうとするだけで、青春は少しうれしくなる。
そんな単純なことを、ようやく知り始めたところなのかもしれない。




