第8話 知らないうちに、僕の居場所が少しずつ増えている
金曜日の放課後、教室の窓から差し込む光は、もうすっかり春の色をしていた。
柔らかくて、少しだけ眠気を誘うような橙色。
机の上に伸びる影も長くなっていて、一週間の終わりを告げるように教室全体の空気がどこか緩んでいる。
久瀬湊人は、その空気の中で教科書を鞄へしまいながら、ふと不思議な感覚に襲われていた。
――一週間前まで、ここに僕の席はなかった。
当然といえば当然だ。
転校してきたのはつい最近なのだから。
なのに今は、自分の机があり、隣には柊坂真白の席があり、前には日野直純がいて、昼休みになれば鳴海すばるが当然のように話しかけてくる。
その一つ一つが、まだ完全に“当たり前”になったわけではない。
でも確実に、“異物”ではなくなってきている。
それが少し、落ち着かない。
そして少しだけ、悪くない。
「久瀬ー」
前の席から日野が振り返る。
「今日さ、このあと暇?」
「暇、ですか」
「その聞き返し方、毎回ちょっと堅いよな」
「自覚はあります」
「自覚あるんだ」
日野は笑った。
「いや、ちょっとコンビニ寄ってから帰ろうかなって思って。真白も鳴海もなんかまだ残ってるし」
湊人は自然と視線を横へ向ける。
真白はまだ席に座って、ノートをまとめていた。
体調を崩した日以来、こちらが朝に「顔色大丈夫そうですね」と言うたびに「保健の先生みたいなこと言わないで」と返してくるのが半ば定番になっている。
今日はちゃんと元気そうで、それに少し安心してしまう自分がいる。
一方、すばるは後ろの方で女子二人に何かを熱弁していた。
聞こえてくる単語から察するに、また配信者の話らしい。
あれだけ毎日語ることがあるのは、ある意味ですごい。
「……皆さんで、ですか」
湊人が聞くと、日野は軽く肩をすくめた。
「まあ、そうなるんじゃね? 真白は“別に”とか言うだろうけど」
「聞こえてるんだけど」
当の真白が顔を上げる。
「誰が“別に”よ」
「いや言うじゃん」
「言わない時もある」
「それ、自分で認めるんだ」
「うるさい」
会話の流れが自然に自分の周りへ集まってくる。
ついこの前までは、その輪の外に立って、どう入るべきか考えていたはずなのに。
そして、その輪の中に自分がいることを、誰も不自然に思っていないように見える。
「鳴海ー、帰るぞー」
日野が声をかける。
すばるがすぐに反応した。
「え、ちょっと待って、今めちゃくちゃ大事な話してる」
「毎回そう言うけど大体推しの話じゃん」
「推しの話は全部大事だよ」
「出た」
真白が呆れたように立ち上がる。
「で、結局どうすんの」
「どうする、とは」
湊人が聞く。
「寄るの、寄らないの」
少しだけぶっきらぼうな言い方。
でも、置いていくつもりならそもそも確認しないのだから、これはつまり“一緒に来る前提の確認”なのだろう。
「……ご一緒してもよろしいのでしたら」
「その言い方」
真白が半眼になる。
「ほんとにたまに執事みたい」
「執事はやめましょうよ」
日野が笑う。
「でもちょっと分かる」
「分からなくていい」
真白が即座に言い切る。
「ほら、そういうとこ」
すばるが鞄を持ってやってくる。
「真白って、久瀬くんに対してだけ反応細かくない?」
「細かくない」
「細かいよ」
「鳴海はうるさい」
「それ否定になってない」
また小さな笑いが起きる。
湊人はその輪の中で、少しだけ息を吐いた。
この感じ。
教室の延長みたいな軽さ。
大きな意味はないのに、日常の中では妙に大きいもの。
これが“馴染む”ということなのかもしれない。
◇
校門を出て、少し歩いた先のコンビニまでは五分もかからない。
夕方の風は冷たすぎず、制服の上からでもちょうどいいくらいだった。
四人で歩く道は、思っていたより騒がしい。
いや、騒がしいのは主に鳴海すばる一人なのだが、その一人が十分すぎるほど賑やかなので、結果的に集団全体の音量が上がる。
「でね、昨日のこはくちゃんのアーカイブ見た?」
「見てない」
真白が即答する。
「はやい!」
「むしろ何で見る前提なのよ」
「だってよかったんだって! 頑張ってる新人って感じで!」
「また始まった」
日野が苦笑する。
「鳴海って一日に何回推しの話するの?」
「数えたことない」
「怖い」
「愛ってそういうものだから」
「便利な言葉だなあ、それ」
湊人はそのやりとりを聞きながら、内心少しだけ苦笑していた。
小毬こはくの話題が、学校側でも出るようになった。
もちろん、これは“同じ箱の新人の話”であって、自分との距離が縮まったわけではない。
でも、学校と配信の世界が少しずつ同じ会話の中に入ってくるのは、やはり不思議な感覚だった。
「久瀬くんは?」
すばるが急に振り向く。
「はい」
「こはくちゃん、興味ある?」
「また急ですね」
「だって最近、ちょっとだけ食いつくじゃん」
「食いついてはいないと思いますが」
「その“食いついてはいないと思いますが”の言い方、ちょっとずるい」
真白が言う。
「またずるい」
湊人が小さく笑う。
「今日は何回目ですか」
「知らない」
「数えてないんだ」
「たまには数えない日もある」
「日によって数えてたんだ……」
日野が妙なところで感心する。
コンビニに入ると、空気は少しだけ散る。
飲み物コーナー、パンの棚、雑誌の前。
四人がそれぞれ何となく別れながら、それでも完全には離れない距離感で動いていく。
湊人は冷蔵棚の前でお茶を手に取った。
その横で真白がスポーツドリンクを選んでいる。
「まだ完全じゃないんですか」
思わず聞くと、真白がちらりとこちらを見る。
「何が」
「体調です」
「……もう大丈夫」
「スポーツドリンクですが」
「なんとなく飲みたいだけ」
「そうですか」
「そう。あと」
「はい」
「アンタ、そういうのまだ気にしてるんだ」
「隣でしたから」
「それ便利ね」
「事実です」
真白は少しだけ息を吐いた。
「まあ……ありがと」
「どういたしまして」
「そこはちゃんと返すのね」
「大事ですから」
「……そういうとこ、ほんと変」
その“変”は、今ではもう挨拶みたいなものになりつつある。
最初の日に向けられた時ほど棘がなく、半分は呆れ、半分は受け入れに近い。
それに気づいている自分がいて、少しだけくすぐったかった。
レジへ向かうと、日野とすばるがちょうど会計を終えるところだった。
「鳴海、また甘いのばっかだな」
「いいでしょ別に。脳が糖分を求めてる」
「勉強しろってこと?」
「推しを追うのにも脳使うの」
「それはちょっと分かる」
真白が言う。
「え、真白が?」
すばるが目を丸くする。
「何それ、私を何だと思ってるの」
「もっと“非オタク”の民」
「いや別にオタクじゃなくても好きなもの追うのに気力使うでしょ」
「……たしかに」
すばるが妙に素直に頷いた。
「じゃあ真白も推し作ればいいのに」
「いらない」
「断言」
「推しに振り回される人生って忙しそうだし」
「楽しいよ!?」
「今の鳴海見てると、楽しいより大変そうが勝つ」
「ひどい!」
湊人はレジへペットボトルを置きながら、そのやり取りを聞いていた。
こういう会話の中にいる自分が、まだ少し信じられない。
学校というのはもっと、個別に人と向き合う場所だと思っていた。
もっと緊張感があって、もっと距離があって、少なくとも“放課後に何となくコンビニへ行く集団”の一員になるような場所ではないと。
けれど今は、その集団の中に自然に組み込まれている。
しかも、自分で強く求めたわけでもないのに。
◇
コンビニを出たあと、日野の提案で近くの小さな公園のベンチに少しだけ座ることになった。
部活へ行くわけでも、どこか遠くへ出かけるわけでもない。
ただ飲み物を片手に、夕方の空気の中で少し話してから帰るだけ。
でも、その“だけ”が高校生っぽいのだと、湊人は何となく思った。
「なんかさ」
日野が缶コーヒーを開けながら言う。
「久瀬、最初よりだいぶ普通になったよな」
「それ、褒められてますか」
「褒めてる褒めてる」
「いや、普通になったっていうか、クラスに馴染んだだけでしょ」
真白が言う。
「最初から普通じゃないのは変わってない」
「ひどい」
「事実」
「でもまあ分かる」
すばるも頷く。
「最初は“何か妙に丁寧な転校生”って感じだったけど、今は“何か妙に丁寧だけどちゃんと会話できる人”って感じ」
「前半が消えてない」
湊人が言うと、すばるは笑った。
「だってそこは消えないし」
「消そうとしてるんだけどな」
ぽつりと本音が漏れる。
三人が一瞬だけこちらを見る。
「消したいの?」
真白が聞く。
「え?」
「その、丁寧な感じとか、変な育ちの良さみたいなの」
夕方の光の中で向けられる視線は、いつもより少しだけ真っ直ぐだった。
湊人は少し考える。
「……どうでしょう」
「そこで考えるんだ」
日野が言う。
「いえ、完全に消したいわけではないのかもしれません」
「へえ」
すばるが興味深そうに身を乗り出す。
「じゃあ何で?」
「目立つから、困ることもある、というだけで」
「なるほどね」
日野は素直に頷いた。
「でも別に今のままでよくね?」
「よくないわよ。目立ちたくないんでしょ、この人」
真白が言う。
「だったら、今のままはちょっと損」
「損、ですか」
「うん。本人にその気がないのに、勝手に目につく感じするし」
その言い方は少しだけ鋭い。
でも、責めているわけではなさそうだった。
すばるはそこへ、少し違う角度から口を挟んだ。
「でも私は、今のままの方が好きかも」
「またそういう言い方」
真白が呆れる。
「いや、恋愛の意味じゃなくて!」
「最近それ多いな」
日野が笑う。
「違うってば。なんていうか、変に砕けようとしてぎこちないより、今のままの方が自然じゃん」
「それは少し、分かります」
湊人は正直に言った。
「ですよね!?」
すばるが勢いよく立ち上がりかける。
「やっぱり自然体が一番なんだよ!」
「座って、鳴海。公園で急に語気強くするの怖い」
「ひどい!」
また笑いが起きる。
風が少しだけ吹いた。
公園の木が揺れて、頭上でかすかに葉音が鳴る。
その何でもない時間の中で、湊人は静かに思っていた。
居場所。
たぶん、こういうことなのだろう。
大げさなイベントがあるわけでもない。
深い話をするわけでもない。
でも、何となく同じ空間にいて、言葉を交わして、少し笑って、それで時間が成り立つ。
学校に来てから、自分の“場所”は教室の中だけだと思っていた。
けれど今は、放課後のコンビニや、小さな公園のベンチにまで、それが少しずつ伸びている。
「……なんか、不思議ですね」
気づけば口に出していた。
「何が?」
日野が聞く。
「いえ、その……こういうふうに、皆さんと一緒にいるのが」
「えー、なにその改まった言い方」
真白が半眼になる。
「今さら」
「そう?」
すばるが言う。
「でも分かるかも。クラスって、最初はただ同じ部屋にいるだけだもんね」
「だよなー」
日野も頷く。
「俺も一年の時は、最初全然しゃべんなかったし」
「え、そうなの?」
すばるが驚く。
「うん。最初はもっと普通だった」
「“もっと普通”ってことは今は普通じゃないって自覚あるんだ」
「そこ拾う?」
「拾う」
真白が呆れながらも笑う。
話題はそのまま、一年の時の話や、クラス替えの話に流れていく。
自然な雑談。
ただの雑談。
なのに湊人は、その流れの中で少しずつ肩の力が抜けていくのを感じていた。
◇
家に帰る頃には、空はかなり暗くなっていた。
玄関を閉めて自室に入ると、学校帰りの空気がまだ服に残っている気がする。
コンビニの匂い。
外の風。
ベンチでの何でもない会話。
机の前に座り、PCを立ち上げる。
夜になれば、今度は天瀬アルトとしての時間が始まる。
コメント欄に集まる人たち。
先輩や後輩との距離感。
仕事としての配信。
そこにも、たしかに自分の居場所がある。
だが今日の湊人の胸の中には、学校側の余韻がいつもより長く残っていた。
「知らないうちに、増えてるんだな……」
自分の席。
昼休みの窓際。
放課後のコンビニ。
公園のベンチ。
意識して作ったわけではない。
守ろうとしたわけでもない。
むしろ目立たないようにしていたはずなのに、気づけばそこに自分の居場所ができている。
それは少し危うくもある。
学校側の人間関係が増えれば、当然、秘密を抱えた生活は難しくなる。
配信の時間とぶつかることも増えるだろう。
言い訳の回数も、誤魔化しも、きっと増える。
でも、それでも。
あの何でもない帰り道を、悪くないと思ってしまった。
画面の端に通知が出る。
AstraLink共有サーバーだ。
開くと、小毬こはくが今日は短めの配信を終えたらしい報告を書いていた。
『本日もありがとうございました。今日は少しだけ落ち着いて話せた気がします』
その短い一文に対して、何人かが反応している。
よかったね、という軽い言葉。
少しずつで大丈夫、という先輩の一言。
リスナーからの感想の共有。
遠い場所で頑張っている後輩の空気が、そこにはある。
学校の居場所。
配信の居場所。
まだ会っていない後輩との、箱の中だけの繋がり。
どれも違う場所なのに、全部が今の自分の生活の中にある。
湊人は少しだけ考えてから、こはくの報告へ短く返信した。
『お疲れさまでした。ご自身で“少し落ち着いて話せた”と感じられたなら、それは確かな前進だと思います』
送信する。
それから、自分の配信準備へ移る。
マイクの位置を調整し、音声チェックをし、待機画面を確認する。
今夜もまた、自分は笑うだろう。
配信の僕として、学校の僕より少し上手に。
でも今日に限っては、その笑いの奥に、放課後の公園で聞いた他愛ない会話が混ざる気がした。
真白の「普通じゃないのは変わってない」。
すばるの「今のままの方が自然」。
日野の「最初よりだいぶ普通になった」。
全部ばらばらで、でも妙にあたたかい言葉。
湊人はマイクの前で、ふっと小さく笑う。
居場所が増えるのは、たぶん少し怖い。
でもその怖さを上回るくらい、嬉しいと思ってしまう瞬間がある。
それはきっと、目立たずにいたい自分にとっては、あまりにも贅沢な変化だった。




