第88話 守りたい日常があるから、危険な日は先に苦しくなる
危険な日が前もって分かっていると、人は当日より前から少しずつ削られる。
久瀬湊人は、水曜の朝、教室へ入る前からそのことをひどく実感していた。
今日が、少し危ない日だ。
大型企画関連の事前収録。
平日放課後の拘束。
学校近辺ではないが、移動を含めるとかなり慌ただしい。
加えて、週末に向けた現地収録の調整連絡も重なっている。
つまり今日は、学校が終わったあとにもう一つ別の顔へ切り替わらなければならない日だった。
しかも今の自分には、それがただ面倒な仕事の日というだけでは済まない。
学校の窓際の空気が、前よりずっと大事になってしまっている。
だからこそ、その日常から切り替わる瞬間が妙に苦しい。
守りたいものがある時ほど、危険な日は先に苦しくなる。
たぶん今の自分は、そういう段階に入っているのだろう。
◇
教室へ入ると、窓際の四人はやはり少しずつそれを察していた。
「おはようございます」
声をかける。
「おはよう」
紬希が返し、
「おはよー」
すばるが言い、
日野は「来たか、要注意日」と笑った。
真白だけは、いつもより少しだけじっとこちらを見る。
「……今日は」
彼女が言う。
「はい」
「もう最初から無理な日」
問いではない。
確認だ。
「ええ」
湊人は頷いた。
こういうところで、最近はもう隠さない方が楽だった。
「放課後、少し」
「少しじゃない」
真白が即座に切る。
「はい」
「今日は、かなり」
「……かなり」
そこを認めると、すばるが小さく息を吐いた。
「うわー、朝から胃がきゅってなる」
その言い方が少しだけ大げさで、でもかなり本音なのが分かる。
紬希が静かに言った。
「今日は、無理しない日じゃなくて」
「うん」
「最初から無理がある日、だよね」
その言葉が妙に正確で、湊人は少しだけ苦笑した。
「そうかもしれません」
「だから」
紬希は続ける。
「朝の時点で少し顔が違う」
そこまで見ているのか、と改めて思う。
でも、今さら驚く段階でもない。
日野が前の席から振り返る。
「今日はさ」
「うん」
「終わったらすぐ消える感じ?」
「……そうなります」
「じゃあ、先にそれ聞けてるだけましか」
日野のそういう雑だけど正しい一言に、最近はかなり助けられていた。
◇
昼休み、窓際の空気はいつもより少し静かだった。
重いわけではない。
でも、全員がどこかで“今日は普通に放課後をやれない日”だと分かっている。
すばるでさえ、今日は少しだけ言葉の勢いが抑えめだった。
真白はいつも以上に様子を見ている。
紬希はさりげなく水分や食事を気にしている。
日野は軽口を叩きながらも、変な方向へ話を飛ばしすぎない。
そういう微妙な気遣いが、今の窓際の空気にはもうかなり自然に混ざっていた。
「これ」
紬希が小さなゼリー飲料を机の上へ置く。
「終わったあと」
湊人が目を上げる。
「ありがとうございます」
「先に置いとく」
その言い方がやわらかくて、でも先を見ている。
たぶん彼女はもう、“終わったあとにたぶん疲れて戻る”前提で考えているのだ。
すばるがそれを見て、少しだけ笑った。
「最近の倉科さん、静かに先回りするよね」
「……必要そうだから」
「えらい」
日野が言う。
真白は何も言わない。
でも、その無言は肯定に近かった。
「ねえ」
すばるが湊人へ向く。
「なに」
「今日は、連絡遅くなるかもって前に言ってたよね」
「ええ」
「“かも”じゃなくて?」
そこも突く。
やはり最近の窓際は、曖昧な言い方へ逃がしてくれない。
「……遅くなります」
湊人は言い直した。
すると真白が小さく頷く。
「最初からそう」
「はい」
「ならいい」
短い。
でも、その短さの中に“ちゃんと共有させた”という安堵がある。
湊人は少しだけ思う。
前の自分なら、ここまで言うのは嫌だっただろう。
何時に終わるか分からない。
どのくらい遅くなるかも断定しづらい。
だから曖昧にしておきたかった。
でも今は違う。
曖昧にして、あとで無言になる方がずっと嫌だと知っている。
それを、窓際の四人に教えられたのだ。
◇
放課後直前、ホームルームが終わる少し前。
湊人は机の中のスマホが短く震えるのを感じた。
AstraLink側からの移動導線再確認だ。
返信しなければならない。
だが、今はまだ教室だ。
チャイムが鳴る。
ざわめきが広がる。
教室の中が一気に放課後へ変わる。
その中で、窓際の四人だけは妙に静かだった。
「じゃあ」
日野が言う。
「今日はここで解散だな」
軽い。
でも、その軽さがありがたい。
「うん」
すばるが頷く。
「普通に、がんばって」
「雑」
真白が言う。
「でも合ってる」
紬希が小さく続ける。
湊人は一瞬だけ言葉に詰まる。
今日はこのあと、学校の空気から別の顔へ切り替わる。
それが分かっているからこそ、今のこの教室が少しだけ惜しい。
「……行ってきます」
ようやくそう言うと、真白が短く返した。
「無理だと思ったら途中で切る」
条件確認みたいな口調だ。
でも、それが今はたぶん一番ありがたい。
「連絡」
すばるが言う。
「遅くなるのはいいけど、消えたままはなし」
「はい」
「終わったら飲んで」
紬希がゼリー飲料を指す。
「はい」
「じゃ、明日な」
日野が笑う。
その一つ一つの言葉が、やけに胸へ残る。
大げさな送り出しではない。
でも、確実に“戻ってくる前提”で言ってくれている。
それが今の自分には、少しだけ救いだった。
◇
その夜、現場へ向かう電車の中で、湊人は窓に映る自分の顔を見た。
学校の制服からは着替えた。
移動用の私服。
マスク。
帽子。
スマホのメッセージ欄。
運営とのやり取り。
現地入りの連絡。
もう、学校の久瀬湊人の顔ではない。
でも、完全に天瀬アルトへ切り替わってもいない。
その中途半端な時間が、今日は妙に苦しい。
守りたい日常があるから、危険な日は先に苦しくなる。
今の自分にとって学校の放課後は、もうただの“戻る場所”ではなくなっているのだと、電車の揺れの中で改めて思い知るのだった。




