第87話 新人ライバーは、現場前になると学校でもそわそわしてしまう
小鳥遊絃葉は、緊張を隠すのが下手ではない。
むしろ、今まではわりと隠せている方だと思っていた。
配信前でも平静な顔を作れるし、
学校で浮かれた様子を見せることもほとんどない。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
だが、今週に入ってからは少し無理だった。
大型企画の現場が近づいている。
事前打ち合わせも終わった。
必要な準備物も少しずつ揃ってきた。
そして何より、“もうすぐ本当に天瀬アルトと同じ現場に立つ”という現実が、毎朝ちゃんと胸へ落ちてくる。
そのせいで、学校でも少し落ち着かない。
授業中、ふと時計を見てしまう。
休み時間、スマホの通知が気になる。
友達と話していても、頭の片隅では週末の現場入り時間を確認している。
ひどい。
かなりひどい。
「絃葉、今日またそわそわしてる」
クラスメイトにそう言われて、絃葉は曖昧に笑った。
「そうかな」
「うん。最近ずっと」
図星だった。
でも、だからといって本当の理由をここで言うわけにもいかない。
学校で配信のことを完全に隠しているわけではないが、そこまで詳しく話せる相手は限られている。
ましてや、天瀬アルトの名前が絡むと、自分の中で感情の温度が少し高すぎて、うまく話せる気がしなかった。
「ちょっと、大事な予定が近くて」
結局またそう言うしかない。
その説明で済むうちは、まだましだと思うことにする。
◇
昼休み、絃葉は一人で廊下の窓際へ出て、少しだけ深呼吸した。
教室の中は嫌いではない。
でも最近の自分は、静かな場所で一度呼吸を整えないと、感情の置き場所が分からなくなる時がある。
スマホを見ようとして、やめる。
今見たらまた企画関連の通知を探してしまう。
それはたぶん、今の自分にとってよくない。
「……落ち着いて、私」
小さく呟いた時、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
顔を上げる。
久瀬湊人だった。
最近、妙に会う。
いや、同じ学校なのだから会ってもおかしくはない。
でも、会うたび少しだけ話してしまうくらいには、もう“見かけるだけの人”ではなくなっていた。
「あ」
絃葉が小さく声を漏らすと、久瀬は足を止めた。
「こんにちは」
「こんにちは」
今日も、その声は静かでちょうどいい。
不思議と、緊張が少しだけ和らぐ。
「最近」
久瀬が言う。
「少し忙しそうですね」
またそれだ。
この人は、何をしているのかは聞かないくせに、今落ち着いていないことだけはちゃんと見る。
「……そんなに出てる?」
思わず聞くと、彼は少しだけ苦笑した。
「少しだけ」
その“少しだけ”が妙にやさしい。
出すぎているとは言わない。
でも、ちゃんと気づいている。
「ちょっと」
絃葉は正直に言った。
「大きい予定が近くて」
「そうですか」
「はい」
「楽しみと、不安が半分ずつ、みたいな?」
その言い方に、絃葉は本気で少し驚いた。
「……なんで分かるの」
「顔」
短い返し。
それだけなのに少し笑ってしまう。
真白やすばるみたいに“顔”でいろいろ拾うタイプとは違う。
でも、この人もまた、言葉にする前の空気をちゃんと見ているのだろう。
「そう」
絃葉は小さく頷いた。
「そんな感じ」
「なら、たぶん正常です」
久瀬が言う。
「え」
「楽しみだけでも、不安だけでもなくて」
少しだけ言葉を選ぶ。
「両方あるくらいが、ちょうど本気なんだと思います」
その一言が、思っていたより深く入ってきた。
楽しみと不安が半分ずつ。
それは、今の絃葉そのものだった。
そして、それを“ちょうど本気”と言ってもらえるのは、かなり救いになる。
「……久瀬くん」
「はい」
「なんか、話しやすいですね」
思わず、そのまま口に出していた。
言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。
でも久瀬は変に照れたりもしなかった。
「そうだとしたら」
少しだけ目を細めて言う。
「光栄です」
その返し方まで落ち着いていて、絃葉はまた少しだけ可笑しくなる。
この人は本当に、相手の緊張を増やさない。
それが学校ではかなりありがたい。
◇
教室へ戻ってからも、絃葉はさっきの会話をずっと少しだけ引きずっていた。
話しやすいですね。
あれはほとんど本音だった。
今の自分みたいに、感情の行き先が多すぎて落ち着かない時に、この人と話すと少しだけ整理される気がする。
そして困ったことに、その感じがまたどこか天瀬アルトと重なりそうになる。
違う。
絶対に違う。
でも、緊張を一段下げるやり方とか、相手を急がせない感じとか、そういう“空気のやさしさ”だけは、少し似ている気がしてしまう。
「……だめだ」
心の中でそう思う。
今は大型企画前で感覚が敏感になっているだけだ。
学校の静かな男子と、事務所の王子様先輩ライバーが重なるなんて、そんなのはさすがに自分の妄想が過ぎる。
でも、その妄想未満の違和感を、完全に無視するほど鈍くもなれない。
そこがまた面倒だった。
◇
放課後、帰宅してから、絃葉は配信準備のメモを見直していた。
マイク確認。
当日の持ち物。
簡易メイク。
連絡ルート。
集合時間。
やることは多い。
でも、やることが多い方が逆に落ち着く面もある。
感情にばかり意識が行かなくて済むからだ。
それでも時々、手が止まる。
打ち合わせの時の天瀬アルトの声。
「気負いすぎずで大丈夫ですよ」という言い方。
今日の久瀬湊人の「ちょうど本気なんだと思います」という言い方。
重なるはずのない二人。
でも、どちらも今の自分には少しずつ効いている。
「……ほんと、何なんだろう」
小さく呟く。
答えは出ない。
でも、気になり始めていることだけは否定できなかった。
新人ライバーは、現場前になると学校でもそわそわしてしまう。
そしてそのそわそわの中で、憧れの先輩と、なぜか話しやすい学校の男子の輪郭が、少しずつ同じ胸の中で近づき始めていた。




