第85話 ツンデレは、秘密の中身より“無理の限界”を先に察する
柊坂真白は、限界が近い人間の“まだ平気です”が嫌いだ。
嫌い、というより、見ていて腹が立つ。
本当に平気な人は、そんな言い方をわざわざしない。
平気ではない人ほど、周りを困らせないためにその言葉を使う。
しかも、その“困らせたくない”がだいたい空回りして、結局まわりの方が余計に神経を使うことになる。
だから真白にとって、「まだ大丈夫です」は、ほとんど危険信号みたいなものだった。
そして最近の久瀬湊人は、その危険信号を出す直前の顔をよくする。
家側の問題で張っていた時とも違う。
配信側の大型企画で時間を削られている今の疲れ方は、もっと見えにくい。
ちゃんと学校へ来る。
授業も受ける。
会話にも入る。
でも、その全部を維持するために、本来ならどこかで使うはずの余白を先に削っている感じがある。
それが、真白にはどうにも嫌だった。
秘密の中身はまだ分からない。
分からないし、今すぐ全部言えとも思っていない。
でも、“もう少しで無理の線を越える”ことだけは見える。
そこまで見えてしまった以上、放っておく気にはなれなかった。
◇
月曜の朝、教室へ入ると、久瀬はすでに来ていた。
最近はそれだけで少しだけ安心する。
でも今日の真白は、安心より先に確認が来た。
「おはよう」
「おはようございます」
返事はいつも通り。
声も整っている。
だが、整いすぎている時ほど危ないと、もう最近は分かっている。
「今日」
「はい」
「寝てないでしょ」
かなり直球だった。
前の席で日野が吹き出し、すばるが「朝一でそれいく!?」と笑う。
紬希は少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに久瀬の顔を見て、ああとでも言いたげに目を細めた。
「……少しは寝ています」
久瀬が言う。
その返しで真白は確信する。
だめな方だ。
「“少しは”って言った時点で終わり」
真白が切る。
「厳しいですね」
「厳しくする必要があるから」
そこへすばるも頷く。
「うん、それはたしかに」
日野は笑いながらも、「最近そこは真白の判定がいちばん信用ある」とか適当なことを言う。
だが、半分は本気なのだろう。
真白は久瀬を見たまま続けた。
「今週、また忙しい日ある?」
一瞬、窓際の空気が少しだけ静まる。
そこまで行くか、という沈黙だ。
だが真白は引かない。
前にも少し共有させた。
なら今度は、もっと先に出させるべきだと思った。
「……あります」
久瀬が小さく答える。
「いつ」
「水曜の放課後です」
「それ前に聞いた」
「はい」
「それ以外」
かなり追い込む聞き方だ。
でも、今の真白にはそれくらい必要だった。
久瀬は少しだけ目を伏せる。
たぶん、どこまで言うべきかを測っている。
真白はそれを待った。
待ったうえで、逃げ道だけは与えない。
「言える範囲でいい」
真白が言う。
「でも、“もう少しで死ぬ”顔になってから出されるより先の方がいい」
その言い方はかなり悪い。
でも本音としては、むしろやさしい方だと思っていた。
久瀬は小さく息を吐く。
「……来週」
「うん」
「水曜と金曜は、少し忙しいです」
「“少し”」
「かなり、の方が近いかもしれません」
そこでようやく、すばるが額を押さえた。
「ほらもう」
紬希も少しだけ眉を寄せる。
日野は「やっぱ増えてるじゃん」と言った。
真白は短く頷いた。
「最初からそう言いなさい」
それだけ。
でも、その一言に最近の全部が詰まっていた。
◇
昼休み、窓際の会話は完全に“来週水曜と金曜をどう見るか”の方向へ流れていた。
「水曜の放課後は前からやばい」
すばるが指を折る。
「うん」
「で、金曜も追加」
「追加って言うな」
久瀬が苦笑する。
日野は「いやでも予定としては追加だろ」と笑った。
紬希が静かに言う。
「金曜って、学校の近くかもしれない日?」
その問いに、久瀬は少しだけ頷いた。
「候補の一つが、そうです」
それだけで十分危ない。
「じゃあ」
真白が言う。
「その二日は最初から“普通じゃない日”として扱う」
「扱うって」
すばるが笑う。
「雑に言うと要注意日」
「ちょっと物騒」
日野が言う。
「でもわかりやすい」
紬希が小さく頷く。
真白は、少しだけ思う。
今の窓際の会話は、普通の高校生の会話ではない。
でも、その異常さを含めて守ろうとしているのが、今の自分たちの学校生活なのだろう。
「久瀬」
「はい」
「その二日」
「ええ」
「何か変わったら、先に言う」
「わかりました」
「“わかりました”で終わらない」
即座に切る。
「言って」
「……言います」
「よし」
そこへすばるがにやにやしながら入る。
「最近の真白、ほんと完全に限界管理担当」
「何その役職」
「でも近い」
日野が笑う。
紬希は少しだけやわらかく言った。
「見てくれてるから、助かる」
その一言に、真白は少しだけ言葉に詰まった。
「別に」
反射でそう返す。
「そういうのじゃない」
「でもそう」
紬希は引かない。
その静かな引かなさに、最近の彼女の強さがある。
真白は小さく息を吐いた。
否定はできない。
たしかに自分は最近、秘密の中身より“無理の線”を見ることの方へ意識が寄っている。
それがどういう感情なのかを、まだうまく言葉にできないだけで。
◇
放課後、教室の人数が減ってから、真白は珍しく久瀬を呼び止めた。
「ちょっと」
「はい」
「来週の水曜」
「ええ」
「連絡、遅くなるかもじゃなくて」
一瞬、久瀬の表情が止まる。
「最初から無理だと思ったら、そう言って」
そこまで言うと、自分でも少し踏み込みすぎかと思う。
でも今は引きたくなかった。
「無理かもしれません、じゃなくて」
真白は続ける。
「無理です、でいいから」
それはたぶん、今までの久瀬が一番言えなかった類の言葉だ。
でもだからこそ、先に許可を出しておく必要があると思った。
久瀬はしばらく黙っていた。
その沈黙は、困っているというより、予想外だった人の沈黙だ。
「……そういう言い方」
ようやく彼が言う。
「なかなかしたことがなくて」
「でしょ」
真白は即答した。
「だから今言ってる」
その一言で、少しだけ空気が静かになる。
「学校の中でまで」
真白は言葉を選ぶ。
「“まだ大丈夫です”をやられるの、ほんとに嫌」
そこはかなり本音だった。
嫌なのだ。
限界の少し手前で、整った顔のまま無理をされるのが。
久瀬は目を伏せ、それから小さく言った。
「……わかりました」
「本当に?」
「ええ」
「じゃあ、来週」
「はい」
「無理な日は先に言う」
「言います」
今度の返事は、前より少しだけ重かった。
だから、少しだけ信用できた。
◇
帰り道、真白は一人で思う。
配信業界のことは知らない。
大型企画の実務も分からない。
でも、秘密の種類が増えて、無理の方向が変わったことだけは見えている。
そして、その無理はたぶん本人が一番遅く気づく。
だから先に止めるしかない。
知りたいのではない。
守りたいのだと思う。
少なくとも今は、その気持ちの方がずっと前にある。
ツンデレは、秘密の中身より“無理の限界”を先に察する。
そして一度それを察してしまったら、もう前みたいに“勝手にしなさい”では済ませられないのだった。




