第84話 オタクは、推しの優しさを現場で見せつけられるともうだめになる
鳴海すばるは、推しの“良さ”が世間へ見つかる瞬間が好きだ。
いや、好きというより、どうしようもなく弱い。
自分だけが知っているわけではない。
最初から人気だし、天瀬アルトが王子様枠として強いことくらい、ファンなら誰でも知っている。
でも、それでも時々あるのだ。
普段から見ている人間には当たり前すぎるやさしさとか、
距離感の上手さとか、
変に前へ出ずに空気を整えるところとか、
そういう“アルトの本質みたいな部分”が、ふとした一場面で広く見つかってしまう瞬間が。
そういう時のオタクは弱い。
かなり弱い。
そして今、すばるはまさにその状態だった。
「……無理なんだけど」
昼休み、自分の机に突っ伏しかけながら小さく呟く。
スマホの画面には、昨夜のAstraLink大型企画関連で流れてきた短いレポまとめや切り抜き未満の感想投稿が並んでいた。
正式な配信ではない。
打ち合わせの内容がそのまま出回ったわけでもない。
でも、新人参加者の一人が軽く触れた「先輩がフォローしてくれて助かった」みたいな感想や、関係者側のふわっとした匂わせで、ファンの間に“またアルトが後輩へ自然に優しかったらしい”空気が広がり始めている。
それだけで、もうだめだった。
絶対そういうことする。
天瀬アルトは、そういうことをする。
しかもわざとらしくなく。
恩着せがましくなく。
後輩が自分で立てるように、一段だけ空気を下げるやつ。
「はー……ほんと好き……」
小さく言ってから、すぐ顔を上げる。
学校だ。
今は教室だ。
いくら心の中がオタク全開でも、今ここで机に突っ伏して昇天するわけにはいかない。
でも、その“推しの良さにやられてる自分”が落ち着く前に、別方向の神経がまた働く。
そういえば今朝、久瀬くんも少し静かだった。
昨日よりは落ち着いていたけど、頭のどこかが別の場所にある感じは消えていなかった。
大型企画の話をしていた時も、やっぱり“自分の生活がそこへ食われる人”の顔をしていた。
最悪だと思う。
推しに沸いてるのに、同時に隣の男子の疲れ方まで見てしまう自分が。
「もうほんと、何なの……」
声に出しても何も整理されない。
でも、出さないよりはましだった。
◇
午後の休み時間、すばるはつい絃葉の配信アーカイブを開いてしまった。
もちろん学校で音は出せない。
字幕とコメント欄だけだ。
でも、それでも分かることは多い。
新人ライバー・小鳥遊絃葉。
まだ登録者二十万人台の若手。
真面目で、少し緊張しやすくて、でも歌と朗読が妙に丁寧なタイプ。
以前から名前だけは知っていた。
同じAstraLink内でも“伸びそうな静かな子”として軽く気にしていた程度だ。
だが、今はその見方に少し別の意味が混じっている。
昨日の打ち合わせに、たぶんこの子もいた。
そして、たぶんアルトがフォローしたのはこの子だ。
そう考えると、妙にアーカイブの表情まで違って見えてくる。
「いや、かわいい寄りなんだよなあ……」
小さく呟く。
張り切りすぎず、
でも一つ一つの反応が丁寧で、
先輩ライバーに話を振られると、ちょっと姿勢ごと固くなりそうな感じ。
こういう子に、アルトが優しくするのはめちゃくちゃ想像できる。
そして、その想像がつくからこそ、ファンとしてはしんどいくらい良い。
「詰むって……」
その時、不意に背後から声がした。
「何が詰むの」
真白だった。
すばるは本気で肩を跳ねさせる。
「びっくりした!」
「授業前に変な顔してる方が悪い」
「最近、みんなそういうことばっか言う」
すばるがスマホを伏せると、真白はじっとこちらを見た。
「また推し案件?」
「うん」
「大型企画?」
「うん」
「で、何が詰んでるの」
質問が具体的すぎる。
だが、今の真白はそれくらいの解像度でこちらを見ている。
「……推しの優しさが、また世間に見つかり始めてる」
そう言うと、真白は数秒だけ沈黙した。
たぶん内容の細部は分からない。
でも、“すばるがオタクとしてかなりやられている状態”だということだけは理解したらしい。
「そう」
「薄いな!?」
「だってそこは専門外」
真白が平然と返す。
その言い方に少しだけ笑ってしまう。
だが真白はそこで終わらなかった。
「でも」
「なに」
「それでまた、久瀬見て何か拾ってるんでしょ」
またそれだ。
すばるは一瞬だけ本気で言葉を失った。
「……なんで分かるの」
「最近のアンタ、そこセットだから」
ひどい。
でも、たぶん正しい。
すばるは小さく息を吐く。
「うん」
「何を拾ったの」
「まだ確定じゃないんだけど」
真白は待っている。
だから続けるしかない。
「推しの“後輩フォローしました”みたいな空気見てるとさ」
「うん」
「久瀬くんの、あの“静かに人の緊張下げる感じ”思い出すんだよね」
そこまで言うと、真白の目が少しだけ細くなった。
それは否定の顔ではない。
むしろ、最近ずっとその手の違和感を蓄積している人の顔だ。
「……ああ」
「やっぱ思う?」
「少しは」
その返しで十分だった。
真白もまた、言葉にはしないまま何かを重ね始めているのだろう。
◇
昼休みの後半、窓際の五人がそろったタイミングで、すばるのオタク脳はついに我慢をやめた。
「ねえ」
パンの袋を持ったまま言う。
「なに」
真白が聞く。
「私、今ちょっとかなりだめ」
「雑」
日野が笑う。
「でもわかる」
紬希が小さく言った。
「推しがね」
すばるは続ける。
「絶対また後輩に優しくしてる」
その瞬間、久瀬がほんの少しだけ視線を止めた。
小さい。
でも、今のすばるにはその小ささが見える。
「それは」
日野が言う。
「いいことでは?」
「そうなの!」
すばるはすぐ頷く。
「めちゃくちゃいいことなの! いいことなんだけど、良すぎてだめなの!」
「面倒」
真白が切る。
でもその口元は少しだけやわらいでいた。
紬希が静かに聞く。
「後輩に優しいと、そんなに」
「だめ」
すばるは本気で言った。
「ただ優しいんじゃなくて、“相手が恥かかないように自然に助ける”タイプだから余計にだめ」
そこまで言ってから、自分で少しだけ顔を覆いたくなる。
完全に早口オタクだ。
でも止まらない。
「そういうの見せられると」
「うん」
「はー好きってなるじゃん」
「それはまあ、そう」
日野が雑に言う。
真白は呆れたように息を吐く。
紬希は少しだけ笑った。
そして湊人だけが、やや困ったような静かな顔をしていた。
その顔を見ると、また変に意識がそちらへ行ってしまう。
大型企画で後輩を自然に助けるアルト。
学校で静かに人の緊張を下げる久瀬。
別人のはずなのに、重なる部分が増えすぎている。
「……やばい」
すばるが小さく言う。
「今またそれなに」
真白が聞く。
「推しの良さ語ってたのに」
「うん」
「途中から普通に久瀬くんの顔思い出してた」
そこで窓際の空気が少しだけ止まる。
日野が一拍置いてから笑った。
「もうそれ隠す気ないだろ」
「ないわけじゃないよ!」
「でも最近、わりとそのまま出てる」
真白が言う。
紬希も少しだけ困ったように目を伏せた。
たぶん彼女も似たような種類の痛みを知っているのだろう。
「いや、だって」
すばるは言う。
「推しの優しさ見せつけられてやられる」
「うん」
「その直後に学校で久瀬くん見る」
「うん」
「で、またなんか似た空気拾う」
「うん」
「そしたらもう、オタク脳とクラスメイト脳がケンカするんだって」
言い切ると、日野がまた吹き出した。
真白は「それは知らない」と言いながらも完全には切り捨てない。
紬希は小さく「大変そう」と言った。
そして久瀬は、やはり少しだけ困ったように笑っていた。
◇
放課後、帰り道の信号待ちで、すばるはまたスマホを見てしまった。
ファンコミュニティではすでに、
「新人ちゃんをアルトがフォローしてたらしい」
「またそういうことする」
「王子すぎる」
みたいな空気がじわじわ広がっている。
確定情報ではない。
でもオタクはそういう“匂い”に弱い。
そしてすばるも例外ではない。
「……無理だって」
また小さく呟く。
「何が」
真白が聞く。
「推しが優しい」
「それは前から」
「でも今回は後輩相手」
「何が違うの」
「破壊力」
即答だった。
日野が笑う。
紬希も少しだけ肩を揺らす。
その笑いの中で、久瀬がぽつりと言った。
「鳴海さんは」
「うん?」
「本当に楽しそうですね」
その一言が、妙にまっすぐだった。
「え」
「推しの話をしている時」
久瀬は続ける。
「かなり」
そこでまたその“かなり”だ。
すばるは思わず吹き出す。
「出た、便利ワード」
「便利なので」
久瀬が少し苦笑する。
でもそのやりとりのあとで、すばるは少しだけ胸の奥があたたかくなるのを感じた。
推しの話で楽しそうな自分を、久瀬はちゃんと“良いもの”として見ている。
変に茶化さず、
冷たくもしない。
そこがまた、妙に久瀬らしくて困る。
「……そりゃ楽しいよ」
すばるは少しだけ視線を逸らして言った。
「好きだから」
「ええ」
「でも最近、その“好き”が一方向じゃなくてだるいんだって」
半分冗談みたいに言う。
だが、自分ではかなり本音だった。
真白が「そこは自分で整理して」と冷たく言い、
日野が「がんばれ」と笑い、
紬希が小さく「うん」と頷く。
そして久瀬だけは、少しだけ静かな顔でこちらを見ていた。
その視線の意味までは、すばるにもまだ分からない。
でも最近、自分たちの感情はもう、簡単な一言では片づかないところまで来ているのだろう。
◇
夜、自室。
ベッドへ倒れ込みながら、すばるは天井を見た。
推しの大型企画。
後輩フォロー。
王子様ムーブ。
それだけなら、純度百パーセントの幸せなオタクでいられるはずだった。
なのに今は違う。
そこへ学校の久瀬湊人が混ざる。
隣の席ではないけれど、もうかなり近い人として。
顔色を見てしまう人として。
疲れ方の違いまで拾ってしまう人として。
推しの優しさにやられる。
その直後に、学校の男子の静かな気遣いを思い出す。
それが積み重なると、もう“まさか”の否定だけでは足りなくなる。
「……ほんとに、どうすんのこれ」
小さく呟く。
オタクは、推しの優しさを現場で見せつけられるともうだめになる。
そして今のすばるは、その“もうだめ”の中に、推しだけでは済まない別の感情まで混ざり始めているのだった。




