第83話 推しに会えるかもしれない新人と、正体を隠したまま会わなきゃいけない先輩
天瀬アルトとしてログインする直前、久瀬湊人は珍しく五秒ほど何も押せずにいた。
パソコンの画面には、AstraLink大型企画の事前打ち合わせ用ルーム。
参加者一覧。
接続テストの案内。
進行スタッフのメッセージ。
そして、参加ライバーの名前。
その中に、今日いちばん意識せざるを得ない名前がある。
小鳥遊 絃葉
同事務所所属。
登録者数二十万前後の新人。
まだ現場で直接会ったことはない。
だが、学校ではすでに二度ほど短く話している。
そこが問題だった。
もし完全に知らない後輩なら、まだ楽だ。
天瀬アルトとして、普段通り落ち着いて接すればいい。
でも今の相手は違う。
学校での“久瀬湊人”を、すでに少しだけ認識している相手だ。
学校では静かな男子。
配信側では王子様系の先輩ライバー。
その二つを同じ相手へ同時に隠し通しながら接しなければならない。
「……ほんとに、勘弁してくれ」
小さく呟いて、湊人はようやく接続ボタンを押した。
画面の中で、事務所のロゴが一瞬表示される。
ヘッドセット越しに、接続音。
スタッフの事務的な声。
他ライバーたちの軽い挨拶。
ここから先は、もう天瀬アルトだ。
久瀬湊人の迷いも、学校帰りの地味な空気も、一度脇へ置くしかない。
「お疲れさまです、天瀬です」
声を出した瞬間、自分でも少しだけほっとする。
やはり、入ってしまえば切り替わる。
それが長年積み上げた癖でもあり、ある意味では武器でもある。
問題は、このあとだ。
◇
打ち合わせルームには、すでに何人か先輩ライバーが入っていた。
中堅組の軽い雑談。
スタッフの進行確認。
マイクチェック。
回線テスト。
まだ本題には入っていないが、空気は少しずつ“現場前”へ整い始めている。
湊人はいつものように、目立ちすぎず、でも完全に下がりすぎもしない位置で会話へ混ざった。
「アルトくん助かるー、そのマイク音量基準わかりやすい」
「いえ、たぶんこのくらいで揃えておくと後が楽かと」
「さすがー」
軽い会話。
慣れた空気。
そこまでは問題ない。
数分後、新人枠の接続通知が出た。
小鳥遊 絃葉 が参加しました
その一文だけで、湊人は無意識に背筋を少しだけ伸ばしていた。
「お、お疲れさまです……! 小鳥遊絃葉です、よろしくお願いします!」
ヘッドセット越しに聞こえてきた声は、思っていたより少し高く、でもかなり緊張していた。
分かりやすい。
接続した瞬間から肩に力が入っているタイプだ。
返事が丁寧すぎる。
語尾がほんの少し硬い。
緊張すると姿勢がよくなる人の声だと、湊人はなぜか思った。
学校で見たあの感じと、少し重なる。
「絃葉ちゃんよろしくー」
「よろしくお願いします」
先輩たちが順に返す。
その流れの中で、湊人も自然に声を入れた。
「小鳥遊さん、お疲れさまです。天瀬です。今日は気負いすぎずいきましょう」
一拍、ルームの向こうで沈黙があった。
たぶん、絃葉が本気で固まったのだろう。
「は、はい……! よろしくお願いします……!」
その返事に、ルームの何人かが少しだけ笑いを含んだ空気を出す。
悪意ではない。
“新人らしくてかわいい”側のやつだ。
でも本人からすると、その反応すら緊張材料になりうる。
だから湊人は、すぐに空気を一段だけ下げた。
「接続大丈夫そうですね。音もきれいです」
「あ、ありがとうございます……!」
「なら一安心です。あとはスタッフさんの進行聞いていれば大丈夫ですよ」
言いすぎない。
でも、放置もしない。
そのくらいの距離で声を置く。
自分でも、こういう時のやり方は半ば身体に染みついていると思う。
緊張している相手へ、余計な注目を集めないまま一段だけ段差を低くする。
天瀬アルトとしての自分は、そういう役割をかなり自然に取ってしまう。
そのあと、絃葉の返事の力みは少しだけ減った。
ほんの少し。
でも分かる程度には。
◇
打ち合わせは、進行としてはごく普通だった。
企画全体の流れ。
収録候補日。
衣装イメージの方向。
コメント素材の使い方。
各ライバーに求められる事前準備。
街頭ビジョン向けの短尺音声と、SNS用の一言素材。
新人枠は現場での立ち位置が少し特殊になること。
中堅以上はフォローも兼ねること。
その一つ一つに、絃葉はかなり真面目に反応していた。
メモを取っているのが声の置き方で分かる。
返事も丁寧だ。
だが時々、説明を飲み込む速度が緊張で少しだけ遅れる。
そのたびに、湊人は一歩だけ会話へ橋をかけた。
「そこ、要するに現場ではスタッフさんの合図待ちで大丈夫です」
「はい……!」
「小鳥遊さんの枠だと、先に準備するものは二つだけですね。ボイスと立ち位置確認」
「あ、はい、助かります……!」
「あとで項目だけ整理して送ります」
「すみません、ありがとうございます……!」
すみません、が多い。
新人らしい。
そして、その“すみませんの多さ”にこちらが気づいていることも、たぶん少しずつ伝わっている。
先輩たちの反応も悪くない。
むしろ“アルトがいるから新人も入りやすい”くらいの空気になっていた。
それは本来なら良いことだ。
良いことなのだが、今の湊人には別の意味でも厄介だった。
学校で会う可能性のある相手に、
アルトとしてかなり自然に優しくしてしまっている。
これで向こうの中に、自分への印象が強く残るのは避けられない。
しかもその印象が、学校での久瀬と妙に繋がったら目も当てられない。
「……だめだろ、それは」
進行の合間、ミュート中に小さく呟く。
だが、その“だめ”を分かったうえで、結局また後輩をフォローする声を出してしまうのだから、自分でももう半分あきれていた。
◇
一方その頃、小鳥遊絃葉は、パソコンの前でほとんど呼吸を忘れそうになっていた。
天瀬アルトがいる。
本当にいる。
画面越しではなく、同じ打ち合わせルームの音声の中に。
もちろん姿はアバターでもなければ立ち絵でもない。
これは業務連絡中心の打ち合わせだ。
でも、それでも“同じ現場にいる”実感としては十分すぎた。
しかも、思っていた以上にやさしい。
いや、やさしいのは知っていた。
でも、自分へ向くと破壊力が違う。
接続が緊張で少し硬かった時も、
説明についていくのが遅れた時も、
天瀬アルトは空気を変に止めずに、自然な温度で助けてくれた。
助ける側の顔をしない。
でも、ちゃんと助かる。
そういう距離感。
「……ずるい」
絃葉は心の中でそう思った。
ずるい、というのはもちろん悪い意味ではない。
こういう優しさを当たり前みたいに出せるのは、反則だという意味だ。
しかも、その声の運び方が妙に落ち着く。
緊張している自分の呼吸が、一段だけ下がるのが分かる。
これはたぶん、先輩としてかなり強い。
でもその時、絃葉の頭の片隅に、別の違和感も小さく浮いた。
この感じ、どこかで――。
ほんの少しだけ、学校の誰かを思い出しかける。
静かで、
相手を慌てさせず、
必要以上に踏み込まないのに落ち着く誰か。
でも、その像がはっきりする前に、スタッフの声が次の確認項目を読み上げた。
絃葉は慌てて意識を戻す。
だめだ。
今はそこを考えている場合じゃない。
せっかく同じルームにいるのだから、一つでも多く吸収しなければならない。
◇
打ち合わせ終了後、ルームが解散しかけたところで、絃葉の個人宛に短いメッセージが届いた。
差出人は、天瀬アルト。
心臓が嫌な跳ね方をする。
いや、良い意味で嫌なのだが、心臓には区別がついていない。
震える指で開く。
『今日はお疲れさまでした。真面目に拾えていたので大丈夫ですよ。わからない項目があれば後で確認します』
短い。
でも、十分すぎる。
「…………」
絃葉はしばらく画面を見つめたまま固まった。
真面目に拾えていた。
大丈夫ですよ。
わからない項目があれば後で確認します。
後輩への気遣いとしては、たぶん普通なのかもしれない。
でも今の絃葉には、それが普通の範囲を大きく超えて効いた。
「だめ……」
小さく呟いて、机へ突っ伏す。
好きになるとか、そういう言葉で今の全部を片づけたくはない。
でも少なくとも、“憧れの先輩”が“直接やさしくしてくれた人”へ更新されたのは確かだった。
しかも困ったことに、そのやさしさの温度が、今日学校で話した久瀬湊人の静けさと少しだけ重なってしまう。
もちろん違う。
違うに決まっている。
天瀬アルトは雲の上の先輩だし、
久瀬湊人は学校の静かな男子だ。
でも、どちらも相手を急がせない。
どちらも緊張を増やさない。
その共通点だけが、今日は妙に残っていた。
◇
同じ頃、湊人は自室でヘッドセットを外し、長く息を吐いていた。
無事には終わった。
打ち合わせそのものも、絃葉のフォローも、大きな破綻なくこなせた。
だが、その代償として変な疲れが残っている。
後輩への対応としては正しかった。
でも、“学校で会う可能性のある相手”へ、アルトとして好印象を重ねたことになる。
それは、秘密の管理としてはだいぶ危うい。
「……何やってるんだろうな、ほんと」
小さく呟く。
後輩を放っておけないのは、たぶん自分の悪い癖ではない。
むしろ、天瀬アルトとしての強みですらある。
だが、その強みが今は二重生活の地雷にもなりうる。
推しに会えるかもしれない新人と、
正体を隠したまま会わなきゃいけない先輩。
その構図は、思っていた以上に面倒で、そして思っていた以上に危なかった。




