第81話 静かな子は、知らない事情が増えるたび“今しんどいかどうか”だけを見ている
倉科紬希は、知らないことが増えるほど、逆に見る場所が絞られていくタイプだった。
普通はたぶん逆なのだと思う。
事情が見えない時ほど、理由を知りたくなる。
何があったのか、
誰が関わっているのか、
どうしてそんな顔をしているのか。
そういう“中身”へ目が向くのが自然だ。
でも、紬希は少し違った。
知らないことが増えると、その分だけ今見えているものへ意識が寄る。
顔色。
目の下の薄い影。
返事の半拍。
笑ったあとの息の吐き方。
そういう、説明より先に表へ出てしまう部分。
久瀬湊人のことになると、最近は特にそうだった。
家側の問題が近づいていた時は、張っている感じがあった。
気を抜くと何かが崩れそうで、でも崩さないように自分で自分を支えている、あの少し危うい感じ。
今は違う。
配信側の大型企画という、新しい事情が近づいてからは、もっと“時間に削られる人”の顔をするようになった。
緊張で固くなるのではない。
予定に追われて、休む場所が薄くなって、でも学校ではいつも通りに見せようとしている人の顔。
それを見てしまうと、紬希はもう“何があるのか”より先に、“今日しんどいのかどうか”だけを気にするようになっていた。
その変化は、自分でも少しだけ不思議だった。
でも、嫌ではなかった。
◇
金曜の朝、教室へ入った時点で、紬希にはもう分かっていた。
久瀬は今日も、少しだけ疲れている。
ひどくはない。
限界というほどでもない。
でも、きちんと見ていれば分かる程度には、昨日までの疲れが残っている。
おそらく、夜にも何かしら企画関連のやりとりがあったのだろう。
「おはよう」
小さく声をかける。
「おはようございます」
返ってくる声はやわらかい。
でも、そのやわらかさの奥に少しだけ空白がある。
完全に元気な時の返しより、ほんの少し遅い。
すばるはすでに何かを察している顔だし、真白は真白で、朝からずっと“今日はどの種類の疲れ方か”を見ている。
日野だけが比較的いつも通りに見えるが、それでも最近は前よりちゃんと拾う。
窓際のこの四人は、結局みんな見ている。
でも、見ている場所が少しずつ違う。
真白は限界の線を見る。
すばるは違和感の種類を拾う。
日野は空気の重さを見る。
紬希は、ただ“今日しんどいかどうか”を見る。
「今日」
真白が言う。
「はい」
「昨日よりは、まだマシ」
その評価が最近の朝の定番になっている。
すばるが「生存判定ね」と言って、日野が笑う。
紬希も少しだけ口元をゆるめる。
笑う。
でも、やっぱり少しだけ思う。
今日もこの人は、自分で“まだ大丈夫な方”に寄せているのだろうな、と。
◇
二限目のあと、廊下へ出た時だった。
自販機の前に久瀬が一人で立っているのが見えた。
たぶん、飲み物を買いに来たのだろう。
それだけのこと。
でも紬希は、少し迷ってからそちらへ歩いた。
何かを聞くつもりはない。
何があったのか、どの予定がどれだけ重いのか、そういうことは聞かない。
たぶん、聞いても全部は言えない。
今の自分たちは、もうそこを分かった上で近くにいる。
「……何にするの?」
静かに声をかけると、久瀬は少しだけ肩を揺らして振り向いた。
「倉科さん」
「驚いた?」
「少しだけ」
「ごめん」
「いえ」
そう言って、彼は少しだけ苦笑する。
紬希は自販機の列を眺めるふりをしながら、横顔を見る。
やっぱり、少しだけ疲れている。
でもそれを言うとまた“大丈夫です”が返ってくる気がした。
だから今日は、違うところから入る。
「眠れてる?」
その問いに、久瀬はほんの少しだけ目を丸くした。
「え」
「最近」
紬希は続ける。
「時間に追われてる顔するから」
そう言ってから、自分でも少しだけ照れくさくなる。
かなり近い言い方だ。
でも今の自分には、そのくらいしかできない。
久瀬は少しだけ視線を落とした。
「……寝てはいます」
「ちゃんと?」
「ちゃんと、の定義が難しいですね」
その答えに、紬希は小さく息を吐く。
つまり、ちゃんと寝ていないのだ。
「そっか」
それ以上、追い詰めるようには言わない。
ただ、分かったことだけを受け取る。
自販機のボタンを押す音。
缶の落ちる音。
それを取り出しながら、久瀬は少しだけ困ったように言った。
「最近、本当に見られていますね」
「見えるから」
「怖いです」
その返しが少しだけおかしくて、紬希は小さく笑った。
「でも」
彼女は言う。
「見えてる方が、少しまし」
それはかなり本音だった。
知らないまま、何でもない顔をされる方がずっと苦しい。
今しんどいのかどうかだけでも見えている方が、まだ近くにいられる。
久瀬はその一言を聞いて、ほんの少しだけ目を細めた。
「……そうかもしれません」
その声は、少しだけやわらかかった。
◇
昼休み、紬希はコンビニで買った小さなゼリー飲料を机の上へ置いた。
前みたいにスポーツドリンクではない。
今日はたぶん、そっちより“すぐ食べられるもの”の方がいい気がした。
「これ」
久瀬が目を上げる。
「え」
「お昼、少なかったから」
言ってから、少しだけ頬が熱くなる。
でも、もう引っ込めない。
最近の久瀬は、食べてはいる。
でも、時間に追われている時ほど食事の密度が薄くなる。
ちゃんと座って食べていても、どこか補給として足りていない感じがある。
それが分かるから、今日はこれを買ってきた。
「……ありがとうございます」
また、その静かな礼。
でも今日は、それだけでは終わらなかった。
「ちゃんと食べてるように見えて」
紬希は少しだけ言葉を足す。
「足りてない感じするから」
そこまで言うと、さすがにすばるが横から「うわ」と小さく言った。
真白もちらりとこちらを見る。
日野は「最近の倉科さん、静かに強いな」と笑う。
紬希は少しだけ恥ずかしくなる。
でも、やっぱり引きたくない。
理由は簡単だ。
今の自分は、この人の“しんどさの種類”を見ることにかなり慣れてしまっているからだ。
「……そんなにですか」
久瀬が聞く。
「うん」
紬希は頷く。
「最近は特に」
その返しに、久瀬は少しだけ苦笑する。
「見抜かれすぎですね」
「見てるから」
真白が横から入った。
すばるも「うん」と頷く。
日野まで「もう最近はそういう班だからな」と適当なことを言う。
その言い方がおかしくて、少し笑いが起きた。
でも、その笑いの中でも紬希は思う。
たぶんもう、ここでは事情を知らないことはそんなに大きな壁ではないのだ。
知らなくても、“今どうか”は見られる。
そしてそれを受け取る人がちゃんといる。
◇
放課後、駅までの道はいつも通りのようで、やっぱり少しだけ違った。
みんなで歩く。
すばるが雑談を振り、
日野が適当に乗り、
真白が切って、
紬希が少しだけやわらげる。
そこへ久瀬も入る。
今の窓際の放課後は、前より一段静かな優しさがある。
無邪気さだけではない。
でも、重すぎもしない。
そういう微妙な場所へ来ているのだと思う。
「倉科さん」
不意に、久瀬が歩きながら小さく言った。
「なに?」
「さっきの」
「うん」
「助かりました」
またそれだ。
でも、最近はその一言の重みが少しずつ変わってきている。
前は“やさしい礼”として受け取っていた。
今は違う。
それはたぶん、“ちゃんと見てもらえていた”ことへの安堵も混ざっている。
「……それならよかった」
紬希は小さく返す。
「うん」
「知らないこと、まだいっぱいあるけど」
少し迷ってから、そこまで言う。
久瀬は黙って聞いている。
「でも、今しんどいかどうかは見えるから」
それが今の自分の正直な立ち位置だった。
何をしているのかは全部知らない。
でも、今日しんどいのか、昨日よりましか、今は少し休めているか、そのくらいは見ていられる。
そして、そのくらいでいいのかもしれないとも思う。
久瀬はその言葉を聞いて、少しだけ目を伏せた。
「……その見方」
「うん」
「すごく、ありがたいです」
その声はやわらかかった。
でも、どこか少しだけ近い。
紬希はまた胸の奥が少しだけきゅっとする。
こういう時だ。
この人の言葉が、やさしいだけでは終わらないのは。
ちゃんと相手の気持ちを受け取った上で返してくるから、余計に効く。
◇
夜、自室。
紬希は机の上に置いた未開封のメモ帳を見ながら、今日一日のことをゆっくり思い返していた。
眠れてる?
お昼、少なかったから。
今しんどいかどうかは見えるから。
どれも、大きな言葉ではない。
でも、今の自分にはそれで十分だった。
知らない事情が増えるたび、“知りたい”の前に“支えたい”が強くなる。
それは少し不思議だ。
でも、嫌ではない。
好きだから知りたい、ではなく、
好きだから今しんどいかどうかを見ていたい。
そういう形もあるのだと、最近は少しずつ思えるようになっていた。
「……だいぶ、好きだな」
小さく呟く。
前は“かなり好きかも”だった。
今はもう、その“かも”が少しずつ薄くなっている気がする。
静かな子は、知らない事情が増えるたび“今しんどいかどうか”だけを見ている。
そしてその見方の深さが、そのまま恋の深さにもなっていくのだった。




