第79話 新人ライバーは、憧れの先輩に会えるかもしれないだけで眠れない
小鳥遊絃葉は、その夜まったく眠れなかった。
正確には、眠ったり起きたりを繰り返していた。
目を閉じる。
少しだけ意識が落ちる。
でもすぐに、頭の中で同じ言葉がまた点灯する。
大型企画、事前打ち合わせ。
天瀬アルト参加。
一部参加メンバーは接続確認あり。
ただそれだけの文面なのに、絃葉の心拍には十分すぎた。
「……無理……」
深夜、自室のベッドの上で小さく呟く。
声に出したところで状況は何も変わらない。
でも、出さないと胸の中が落ち着かなかった。
天瀬アルト。
同じ箱の先輩。
AstraLinkの中でも、数字も人気も空気も、何もかも一段高い場所にいる人。
もちろん、表向きには何度か同じ会議に名前が並んだことはある。
全体連絡のボイスチャットで、一緒の部屋にいたことだってある。
でも、それは“同じ回線の向こうにいた”だけだ。
今回の大型企画は違う。
事前打ち合わせがある。
現場もある。
つまり、これまでよりずっと“近い距離”で同じ空気を吸う可能性がある。
しかも自分は新人だ。
まだ登録者二十万人。
事務所の期待に応えたい気持ちはある。
でも、それ以上に失敗したくない。
先輩の足を引っ張りたくない。
変な緊張の仕方をして、空気を壊したくない。
アルトの前で「うわ、本当にいる」みたいな反応をして、ただの痛い後輩にもなりたくない。
理想は、ちゃんとした後輩だ。
礼儀正しく、
でも固くなりすぎず、
必要な時に必要な返しができる、
そういう人。
だが現実の自分は、たぶんかなり固まる。
「どうしよう……」
何度目か分からないその呟きのあと、絃葉はスマホを取った。
事務所の共有チャットを開く。
参加者のメッセージが少しずつ増えている。
中堅の先輩が軽くスタンプを押している。
同期の子が「がんばります」と送っている。
スタッフが事務的な確認を流している。
そしてその下に、天瀬アルトの名前がある。
『新人のみなさんも気負いすぎずで大丈夫ですよ。当日は楽しくやれたら十分です』
それだけの短い文面。
でも絃葉は、そこでまたスマホを胸に抱えた。
「……やさしい」
知っていた。
この人がこういう先輩だってことくらい、配信や会議の空気で分かっていた。
でも、知っているのと、自分が直接そのやさしさの射程に入るのとでは全然違う。
気負いすぎずで大丈夫。
楽しくやれたら十分。
上からの励ましじゃない。
ちゃんと新人の緊張を分かった上で、そこだけ一段引いてくれる言い方だ。
こういうところなのだ。
絃葉が天瀬アルトを“数字がすごい先輩”以上に思ってしまうのは。
配信者として尊敬する。
同じ箱の先輩として憧れる。
そして時々、そういう気遣い一つで胸の奥が妙に熱くなる。
恋なのかと言われると、まだ自分でも分からない。
でも少なくとも、ただのファン心や尊敬だけでは片づけきれない特別さがあるのは確かだった。
◇
翌朝、絃葉の顔色はあまり良くなかった。
寝不足だ。
それもかなり分かりやすい種類の。
鏡を見て、自分でも少し嫌になる。
今日は学校があるのに。
しかも、こういう日に限って小テストだの提出物だのが重なるのだから世の中は容赦がない。
「落ち着いて、私……」
制服の襟を整えながらそう言う。
だが、落ち着けるわけがなかった。
今日はまだ打ち合わせ本番ではない。
でも、その手前の準備がある。
マネージャーからの確認も来るだろう。
事前の音声テストもあるかもしれない。
そして何より、“もうすぐ本当に会うんだ”という感覚が朝から胸の内側に張りついている。
学校へ向かう道は、いつもより少しだけ足が重かった。
でも、完全に嫌な重さではない。
緊張と期待が半分ずつ混ざったような、妙にそわそわする重さだ。
昇降口で上履きに履き替え、廊下を歩く。
そこで絃葉は、少し前にも感じた“呼吸がしやすい人”の存在を思い出した。
久瀬湊人。
同じ学校の、少し目立たない男子。
でも話すと妙に落ち着く。
静かで、必要以上に踏み込まず、こちらの緊張を増やさない人。
なぜあの人を思い出すのか、自分でも少し不思議だった。
でも、今みたいに心拍が落ち着かない朝には、ああいう“静かな人”のことを考えると少しだけ呼吸が整う。
◇
一時間目が終わったあと、絃葉は教室の窓際で小さくため息をついていた。
友達が「大丈夫?」と聞いてくる。
絃葉は反射で「うん」と返す。
でも、たぶん大丈夫な顔はしていないのだろう。
最近の自分は、緊張が表へ出やすい。
「今日ほんとにそわそわしてるね」
同じクラスの女子が笑う。
「そうかな」
「うん。なんか、テスト前っていうより“大事な人に会う前”っぽい」
その言葉に、絃葉は本気でむせそうになった。
「ち、違」
「え、なにその反応」
「いや、そういうんじゃなくて」
違う。
違うのだ。
でも何が違うのかを説明し始めると余計に墓穴だ。
大事な人に会う前。
その表現が、妙に的確だったのが一番困る。
会うかもしれない。
しかも、かなり大事な人だ。
でも学校の教室でその話は絶対にできない。
「ちょっと、緊張する予定があるだけ」
そう言ってごまかすと、友達は「ふーん」とだけ言ってそれ以上は追わなかった。
そこはありがたい。
でも、自分の心の方はまったく落ち着かなかった。
◇
昼休み、絃葉は一人で飲み物を買いに行くことにした。
教室の中にいると、逆に自分の落ち着かなさばかり意識してしまう。
少し歩いた方が、まだましだ。
自販機の前。
何を買うかも曖昧なまま立ち止まっていると、横から声がした。
「今日は、少し元気がないですね」
驚いて顔を上げる。
久瀬湊人だった。
「あ」
それしか出ない。
彼は少しだけ困ったように笑っていた。
その笑い方もやっぱり静かで、こちらを慌てさせない。
「すみません」
絃葉は反射で言う。
「え」
「いや、その」
自分でも何に対する謝罪なのか分からない。
たぶん、変な顔を見られたことへの反射だ。
すると久瀬は、少しだけ目を細めた。
「謝るほどではないと思います」
その返しが、やっぱりちょうどいい。
軽すぎない。
でも重くもしない。
「……少し、寝不足で」
絃葉は正直に言った。
全部は言えない。
でも、まるごと隠すのも違う気がした。
「大事な予定でも?」
久瀬が聞く。
その問いに、絃葉は少しだけ目を丸くした。
「わかりますか」
「なんとなく」
短い会話。
それなのに、妙に肩の力が抜ける。
「ちょっと」
絃葉は自販機のボタンを押しながら言った。
「緊張する予定があって」
「そうですか」
「はい」
缶の落ちる音がする。
それを取り出しながら、絃葉は少しだけ笑った。
「すごく、ちゃんとしたくて」
そこまで言ってから、さすがに少しだけ言いすぎたと思った。
でも久瀬は変に深掘りしない。
「それは」
彼は少しだけ考えてから言う。
「たぶん、相手にも伝わると思います」
その一言に、絃葉はまた少しだけ驚く。
ちゃんとしたい気持ち。
それは、うまくいけば良い印象になる。
でも、自分の中では“空回りする前兆”でもある。
それを、こんなふうにやわらかく返されると思っていなかった。
「……そうだと、いいな」
思わず本音が出る。
久瀬は小さく頷いた。
「たぶん大丈夫です」
その言い方に、不思議なくらい安心する。
どうしてこの人は、こうも“緊張している相手”へちょうどいい距離で話せるのだろう。
押しつけがましくないのに、ちゃんと落ち着く。
その感じに、絃葉はまた少しだけ既視感を覚える。
どこかで知っている。
この種類の、やわらかいフォローを。
でも、それがどこだったのかは、まだ分からない。
◇
午後の授業中、絃葉は何度も久瀬との短い会話を思い返していた。
元気がないですね。
大事な予定でも?
たぶん相手にも伝わると思います。
言われたこと自体は特別じゃない。
でも、その並び方と温度が妙に残る。
変に励まさない。
でも、安心する言葉だけはちゃんと置いていく。
それが、なんというか――。
「……似てる?」
ノートへ視線を落としたまま、小さく心の中で呟く。
誰に、とは自分でも言い切れない。
でも、あの“緊張してる人を一段だけ下げる感じ”が、どこか天瀬アルトの空気に似ている気がした。
もちろん、まさかだ。
そんなことあるはずがない。
学校の静かな男子と、登録者二百万超えの大手事務所王子様ライバー。
結びつくわけがない。
でも、似ている“感じ”だけは残る。
そこがまた厄介だった。
◇
放課後、帰宅してから、絃葉は事務所の準備チャットを見つめていた。
打ち合わせ時間の最終確認。
マイク環境の事前テスト。
参加者の接続順。
そして、先輩ライバーたちの短い反応。
その中に、また天瀬アルトの名前がある。
『当日は新人のみなさんも気負わず。フォローはみんなでします』
絃葉は、その一文を見てまた胸を押さえた。
だめだ。
ほんとうにだめだ。
こういう一言で、また簡単に好きになりそうになる。
「……会ったら絶対、変になる」
小さく呟く。
でもその予感は、嫌なだけではなかった。
むしろ少しだけ、会いたいが勝っている。
怖い。
でも楽しみ。
緊張する。
でも少しだけうれしい。
その全部を抱えながら、絃葉は今日学校で交わした短い会話のことも同時に思い出していた。
久瀬湊人。
学校でたまに会う、静かで話しやすい男子。
なぜか、緊張が少しだけほどける人。
天瀬アルトへ憧れている自分と、
学校で妙に落ち着く人を見つけてしまった自分が、
今日は同じ胸の中で少しだけ混ざり始めていた。
新人ライバーは、憧れの先輩に会えるかもしれないだけで眠れない。
そしてその前段階で、学校の中にいる“妙に話しやすい誰か”の存在まで、少しずつ気になってしまっているのだった。




