第74話 秘密はまだ守られる。でも、もう“守られるだけの人”ではいられない
送信ボタンを押したあと、久瀬湊人はしばらくスマホの画面を伏せたまま動けなかった。
家側へ、あそこまで明確な言葉を送ったのは初めてだったからだ。
学校生活への干渉をこれ以上許容できない。
学校周辺での接触、観察、校内への直接接触を見直してほしい。
必要な連携は、自分個人への事前通知を前提にしてほしい。
文面にすれば簡潔だ。
だが、その中身は今までの自分の立ち位置を少しだけ変えるものだった。
これまでは、配慮を願う側だった。
事情を抱えたまま、できれば穏便に、できれば学校生活へ触れないようにと、曖昧な線で頼んでいた。
でも今回は違う。
学校生活を守るために、明確に条件を出した。
それはわがままではない。
けれど、少なくとも“ただ従うだけの側”ではなくなるということだ。
「……やっとかもしれないな」
小さく独り言が落ちる。
遅かった。
たぶんかなり。
でも、今の自分にはこのタイミングでしかできなかったのだろうとも思う。
文化祭の頃の自分には、まだここまでの覚悟はなかった。
打ち上げに行けなかった夜の自分は、ただ残念がることしかできなかった。
教室へスーツの男が来た時は、ただ冷えるしかなかった。
でも今は違う。
守りたい場所が、かなり具体的になってしまった。
窓際の空気。
何もないふりで笑える昼休み。
駅までの道の、少しだけ静かな会話。
そういうものを、自分の外側の事情で壊したくない。
守ってもらってばかりでは、たぶんもう気持ちが悪かったのだ。
◇
翌朝、教室へ入った瞬間に、窓際の四人がほぼ同時にこちらを見た。
こういう時、もう驚かない自分がいる。
最近の自分たちは、朝一の顔色や空気の違いで、だいたい何かを察してしまう。
「おはようございます」
湊人が言うと、日野が「おはよ」と返し、すばるが少しだけ身を乗り出した。
真白は腕を組んだまま、じっとこちらを見る。
紬希も静かに待っている。
「……送った?」
最初に聞いたのは、やはり真白だった。
前置きがない。
でも今はそれがありがたい。
「ええ」
湊人は頷く。
「昨夜」
その一言で、窓際の空気が少しだけ静まる。
「返事は?」
すばるが聞く。
「まだです」
「そっか」
紬希が小さく言う。
日野は少しだけ笑って、「まあそうすぐは返らないか」と肩をすくめた。
真白だけは、そこでもう一歩踏み込む。
「どのくらい強く書いたの」
「かなり」
反射的にそう答えると、すばるがすぐに笑った。
「出た、“かなり”」
「便利なんだよ、それ」
日野が言う。
「でも今回は、たぶん本当にかなりなんでしょ」
真白が聞く。
湊人は少しだけ苦笑してから答えた。
「ええ」
「学校生活への干渉を、明確に見直してほしいと」
そこまで言うと、四人の表情が少しだけ変わる。
安心。
驚き。
少しの緊張。
そして、たぶん少しの安堵。
「……ようやく」
真白が小さく言った。
その言い方は、昨日と同じだ。
厳しい。
でも、その厳しさの奥には“やっとそこまで来た”という受け取り方がある。
「いいと思う」
紬希がやわらかく言う。
「うん」
すばるも頷いた。
「そこまで言わないと、もう守れないところまで来てたし」
日野も素直に「正解っぽい」と言った。
その反応を見て、湊人は少しだけ肩の力が抜ける。
昨夜は、送ったあとで少しだけ怖かったのだ。
やりすぎではなかったか、
今さら急に強く出るのは不自然ではないか、
窓際の皆が巻き込まれることを逆に増やしてしまわないか。
でも今、少なくともこの四人は、その一歩を“前進”として受け取ってくれている。
それだけでかなり違う。
◇
一限目のあと、スマホが短く震えた。
それだけで、体の芯が少しだけ強張る。
家側からだ。
教室の中で即座に見るのはやめて、湊人は一度だけ机の下へ視線を落とした。
短い文面。
承知しました。対応を再整理します。本日夕方に詳細共有。
それだけだ。
だが、その短さのわりに意味は重い。
少なくとも、無視はされていない。
学校生活への干渉という言葉は、ちゃんと届いたらしい。
「……来た?」
真白の低い声。
今や完全に気配で読まれている。
「ええ」
「悪い方?」
すばるが聞く。
最近の窓際では、その質問がもう自然になってしまった。
「……今のところは」
そこで一度言葉を切る。
この“今のところ”は、たぶん以前より少しだけ信用される言い方だ。
「反応は、悪くなさそうです」
そう答えると、紬希が小さく息を吐いた。
日野も「お」と声を漏らす。
真白はそれでもまだ油断しない顔をしていたが、少なくとも否定はしなかった。
「詳細は夕方」
湊人が言う。
「でも、再整理するとは書いてありました」
「なら」
真白が短く言う。
「一歩は進んだ」
その言い方は相変わらず簡潔だ。
でも今の自分には、それが一番ちょうどいい。
◇
昼休み、窓際の空気は少しだけ前向きなざわつきを持っていた。
問題が全部消えたわけではない。
校門の外の視線も、学校内の噂も、完全にゼロになったわけではない。
でも、少なくとも“こちらから言うべきことを言った”という感覚があるだけで、空気の質は少し変わる。
「ねえ」
すばるが言う。
「なに」
真白が返す。
「今の状況ってさ」
「うん」
「まだ全然安心はできないけど、“守られるだけ”ではなくなった感じある」
その表現に、湊人は少しだけ驚いた。
自分の中で曖昧だった感覚を、かなり正確に言葉にされたからだ。
「それ」
紬希が小さく言う。
「わかる」
「だよね」
すばるが頷く。
「前は、ただ何か起きるの待ってる感じだった」
「うん」
「でも今は、少なくとも久瀬くんが自分で止めにいった」
そこまで言われると、少しだけ気恥ずかしい。
「止めにいった、ってほど格好よくは」
湊人が言いかけると、真白が切る。
「そこはいい」
「え」
「格好いいかどうかじゃなくて、やったかどうか」
その一言は妙に真白らしかった。
甘やかさない。
でも、やったこと自体はきちんと見る。
日野が笑う。
「最近の真白、そこだけ妙にちゃんと褒めるよな」
「褒めてない」
「でも似たようなもん」
すばるが言う。
紬希は少しだけやわらかい目でこちらを見ていた。
守られるだけではなくなった。
その感覚は、湊人にとっても確かにあった。
それは急に強くなれたということではない。
たぶん、ようやく受け身だけでは守れないと認めた、という方が近い。
◇
放課後、家側からの詳細共有は、思っていたより淡々としていた。
学校周辺への直接接触は原則禁止。
必要な確認は、まず本人への事前通知を経由。
学校生活へ影響が出る場合、家側の現場判断を停止して再調整。
また、学校周辺の不審な動きについても、家側で別途確認を進める。
完全勝利ではない。
まだ曖昧な部分はある。
だが少なくとも、“学校生活を守る”が優先順位の低い言葉ではなくなったことははっきりした。
その内容を、湊人は窓際の四人へ簡潔に共有した。
「おお」
日野が最初に声を出す。
「ちゃんと動いた」
「うん」
すばるが頷く。
「全部じゃなくても、だいぶ違う」
紬希は少しだけ笑っていた。
「よかった」
その一言が、一番やわらかいのに一番胸へ残る。
真白は腕を組んだまま、少しだけ目を細める。
「まだ油断はしない」
「ええ」
「でも」
そこで少しだけ間を置いた。
「前よりは、まし」
それはたぶん、今の真白にできる最大限の前向きな評価だった。
湊人は小さく頷く。
「ありがとうございます」
「礼はまだいい」
真白がすぐ返す。
「ちゃんと続いたら、その時」
そこへすばるが吹き出す。
「真白、それ完全に評価面談なんよ」
「うるさい」
でも、そのやりとりに笑いが起きる。
こういう笑いだ。
こういう、少しだけ力の抜けた、何でもないみたいな笑いを守りたいのだと、改めて思う。
◇
その日の帰り道、五人は駅まで普通に歩いた。
最近では“普通に”の定義が少し変わってしまったが、それでも今日はかなり穏やかな方だった。
校門の外に、あの不自然な視線はない。
誰かが露骨にこちらを見ることもない。
話題も、途中からはコンビニの新作飲料とか、月曜小テストがどうとか、そういうどうでもいいものに戻っていた。
守られてきた日々のあとで、自分でも少しだけ守る側へ動いた。
その結果として、今日のこの静かな帰り道がある。
それだけで十分だと思える。
「ねえ」
すばるが言う。
「なに」
真白が返す。
「次、平和だったら普通に写真共有会やりたい」
「名前はださい」
真白が言う。
「でもやりたい」
紬希が小さく続けた。
日野が笑う。
「じゃあ、また久瀬の変な綺麗コメント聞けるじゃん」
「それ前提なんだ」
湊人が苦笑すると、四人とも少しだけ笑った。
その笑いの中で、湊人ははっきりと思う。
まだ秘密は守られている。
でも、もう“守られるだけの人”ではいられない。
そして、たぶんそれでいいのだ。
◇
夜、自室。
スマホを置いた直後、AstraLink側から新しい連絡が入った。
大型リアル企画、進行中。
来月以降、所属ライバーの対面露出を含む周辺施策の可能性あり。
詳細は追って共有。
その文面を見た瞬間、湊人は思わず額を押さえた。
「……次はそっちか」
家側との線を一つ整理したと思ったら、今度は配信側の現実が学校生活へ近づこうとしている。
笑うしかない。
でも、その笑いも完全に乾いてはいなかった。
面倒だ。
かなり。
でも、前よりは少しだけ分かっている。
何かが近づいてきた時、
一人で抱え込むだけでは守れない。
言える範囲で言い、
動ける範囲で動き、
守りたいものを守る側へ、自分からも立たなければならない。
「……難易度高すぎるだろ」
独り言は、少しだけ苦笑を含んでいた。
秘密はまだ守られる。
でも、もう“守られるだけの人”ではいられない。
そのことを、久瀬湊人はこの章の終わりでようやく自分の言葉として受け入れ始めていた。




