第72話 何も解決してなくても、少し静かな放課後は戻ってくる
何も解決していないのに、少しだけ安心できる日というものはある。
それはたぶん、問題が消えたからではない。
問題が、今日だけは少し遠い位置にいるからだ。
金曜の朝、久瀬湊人は校門をくぐった瞬間に、それを感じた。
視線がないわけではない。
最近はもう、自分の方が勝手に周囲を見てしまうから、完全に気にしないというのは無理だ。
でも、あの“通行人のふりをした不自然な静けさ”が、今日はかなり薄い。
用務員がいつもより少し門の近くにいる。
事務の職員が一度外へ出てきて、近所の人と何か話している。
校門付近にある“大人の目”の密度が、昨日より明らかに違う。
朱莉がやったことは、大げさではない。
でも、その“少しだけ学校の周辺が見られている”状態が、監視する側には確実にやりづらいのだろう。
ありがたい。
そして、そのありがたさが今日はやけに身にしみる。
「……静かだな」
心の中でそう呟いてから、自分で少しだけ苦笑する。
静かなだけで、こんなに楽なのかと。
ここ数日で、自分の神経は思っていた以上に擦り減っていたのだろう。
◇
教室へ入ると、窓際の空気も少しだけやわらかかった。
日野が前の席でぐったりしているのはいつも通りだ。
すばるはスマホを見ながら「今日の情報量、まだ人間に優しい」とか意味の分からないことを言っている。
真白は「朝から日本語が雑」と切り、
紬希はそれを聞いて小さく笑う。
その流れの中に、自分も今日は少しだけ素直に入れた。
「おはようございます」
声をかけると、四人がそれぞれ返す。
そして、すばるがすぐに言った。
「今日ちょっとまし」
「なにがでしょう」
「空気」
それはたぶん、かなり正しい。
真白も少しだけ窓の外を見てから言う。
「うん」
「まだ何も終わってないけど」
日野があくびを噛み殺しながら笑う。
「でも昨日より、だいぶ学校っぽい」
紬希も静かに頷いた。
「それは、ある」
その一言が、今の窓際の気分をいちばんよく表していた。
終わってはいない。
でも、今日は少し学校っぽい。
ただそれだけで、会話の出だしが軽くなる。
「じゃあ今日は」
すばるが言う。
「朝一の生存判定、ちょっと甘めでいい?」
「何それ」
真白が呆れる。
「最近の久瀬くん、毎朝点検必要だったじゃん」
「言い方」
でも、それに笑いが起きる。
昨日までなら、同じ言葉でももう少し棘があったかもしれない。
今日は少し違う。
棘がなくなったわけではない。
でも、その先にある“やっと少し息がつける感じ”の方が前へ出ている。
◇
一限目と二限目のあいだ、教室のざわめきもどこか穏やかだった。
校門の外に視線がないわけではない。
噂が完全に消えたわけでもない。
でも、少なくとも今日のこの時点では、“いまここへ異物が割り込んでくるかもしれない”という緊張が少し遠い。
その違いは、思っていた以上に大きかった。
「ねえ」
すばるが机へ頬杖をつきながら言う。
「なに」
真白が返す。
「今日、普通に放課後までいけそうじゃない?」
「フラグ立てるのやめて」
真白が即座に切る。
「いやでも」
日野が笑う。
「たしかに、今日はちょっとそういう感じある」
「うん」
紬希が頷く。
「少しだけ」
その“少しだけ”に、期待しすぎないための自制が見える。
でも、それでも言いたくなるくらいには、今日は穏やかだった。
湊人はそのやりとりを聞きながら、胸の奥が少しだけやわらかくなるのを感じていた。
これだ、と思う。
こういう感じだ。
何も起きないことを確認しながら、ちょっとだけ気を抜いて、どうでもいい話をして、笑いが起きる。
それが自分の守りたかった“学校の時間”なのだろう。
だからこそ、この少しだけ静かな放課後が戻ってきたことが、妙にありがたかった。
◇
昼休み、窓際の会話は久しぶりに“外側の話”から大きく外れていた。
「でさ」
日野がスマホを見せる。
「文化祭のアルバム、級長がまた追加してた」
「まだあるの?」
すばるが食いつく。
「多いな」
「多い」
真白が頷く。
「でも、見返すとなんだかんだ面白い」
そこへ紬希が小さく言う。
「この写真、日野くんまた同じ顔」
「それ昨日も言われた!」
日野が抗議し、笑いが起きる。
その笑いの中で、湊人は少しだけ思う。
打ち上げの席で自分がいなかったことが、少し前まではずっと引っかかっていた。
でも今こうして写真を一緒に見て、遅れてでも同じ話題で笑えているなら、全部が切れてしまったわけではないのだと思える。
「久瀬くん」
すばるが急にこちらを見る。
「はい」
「この写真の時、いたらたぶん絶対変な綺麗コメントしてた」
「変な綺麗コメント」
「しそう」
真白が言う。
「しそう」
紬希も小さく笑う。
日野は「それで俺が笑う流れな」と言った。
自然すぎて、一瞬だけ胸が詰まる。
みんなの中に、“自分がいた場合の流れ”がもうかなり具体的にあるのだ。
それは嬉しい。
でも、嬉しい分だけ少しだけ痛い。
「……たぶん」
苦笑しながら答える。
「しそうですね」
「ほら」
すばるが笑う。
「自覚ある」
「そこはあるんだ」
真白が呆れたように言う。
その呆れ方も、今日はやわらかかった。
◇
放課後、教室の人数が少しずつ減っていく。
部活のある生徒は先に出る。
寄り道組は誰と行くかを話し始める。
窓際の五人も、なんとなく残る。
それが最近の流れになりつつあった。
でも今日は、その“残る”感じにいつもより変な緊張がない。
「……静か」
すばるがぽつりと言う。
「鳴海が静かな方が怖い」
真白が返す。
「ひどくない?」
「でも、わかる」
日野が笑う。
紬希も少しだけやわらいだ顔でそれを聞いている。
朱莉が少し遅れて教室の前を通りかかり、窓際の空気を見て口元だけで笑った。
「ずいぶん平和そうね」
「御門さんのおかげ」
すばるが即答する。
「半分くらいは」
朱莉は肩をすくめる。
「残り半分は、今日は向こうが引いただけ」
「それでも十分」
真白が言う。
その返しに、朱莉は少しだけ目を細めた。
「そういう日もある」
「それ、今はかなり大事」
日野が笑う。
平和そう。
その言い方が、今日には妙にしっくり来る。
完全な平和ではない。
でも、“今日は少しだけ平和”というだけで、こんなにも息がしやすい。
「ねえ」
すばるが言う。
「なに」
真白が返す。
「私、今日みたいな日が続くだけで、わりと満足かも」
「欲が低い」
「いや、でも」
すばるは少しだけ真顔になる。
「最近ずっと、何か起きる前提で呼吸してた感じだったから」
その言い方に、誰もすぐには返せなかった。
湊人はその言葉を聞いて、少しだけ目を伏せる。
そうだ。
自分だけではないのだ。
校門の外の視線や、教室へ来たスーツの男や、噂の気配は、もう窓際の皆の呼吸まで少し変えてしまっていた。
だから今日みたいな静けさが、こんなにもありがたい。
「……すみ」
言いかけたところで、真白がすぐ言う。
「そこはなし」
「はい」
「今日は、普通に受け取って」
その一言が、今の真白らしかった。
責めるでもなく、甘やかすでもなく、ただ“今日は静かな日として受け取れ”と言っている。
紬希も小さく頷く。
「うん」
「大丈夫な日は、大丈夫でいい」
その言い方がやわらかくて、でもかなり強い。
すばるはそこで、少し大げさに息を吐いてから笑った。
「平和ってだけで今日は神回」
一拍遅れて、日野が吹き出す。
「なにその感想」
「いやでもほんとに」
「語彙が配信者なんだよなあ」
真白が呆れ、紬希が少しだけ笑う。
その小さな笑いの輪の中で、湊人はようやくちゃんと息を吐けた気がした。
◇
駅までの道も、今日は驚くほど普通だった。
誰かが露骨に周囲を見ることもなく、
足を止めることもなく、
変に会話が切れることもない。
ただ五人で歩いて、どうでもいい話をして、駅前の信号で少し詰まって、コンビニの新作アイスの話で少し盛り上がる。
本当に、それだけ。
それだけなのに、今日の自分たちには十分すぎるほど特別だった。
「……こういうのでいいんだよな」
日野がぽつりと言う。
「珍しく正しいこと言った」
真白が返す。
「いつも正しいだろ」
「雑なだけ」
すばるが笑う。
紬希も小さく頷いた。
「うん」
その“うん”は、今日いちばんしみる音だった。
こういうのでいい。
たぶん本当に、そうなのだ。
秘密の正体が全部分からなくても、
外側の問題が完全に消えなくても、
こうして少し静かな放課後が戻るだけで、救われる部分はたしかにある。
◇
夜、自室で一人になったあと、湊人はスマホを見ながら小さく息を吐いた。
今日は大きな通知もない。
家側からの連絡も静かだ。
AstraLink側も比較的穏やかだ。
それだけで、こんなにも気持ちが軽いのかと思う。
ベッドに腰かけ、昼休みの会話や駅までの道の空気を思い返す。
文化祭や打ち上げの頃の、少し無邪気だった窓際とはもう違う。
秘密の影は差したし、外圧は一度ちゃんと近づいた。
でも、それでも戻るものはある。
全部じゃなくても、少しは。
「……これでいいのかもな」
独り言が静かに落ちる。
何も解決していなくても、少し静かな放課後は戻ってくる。
そしてその“少し”が、今の自分たちには思っていた以上に大きな意味を持っていた。




