第69話 静かな子は、“大丈夫”じゃない人を見ると静かに怒る
倉科紬希は、怒るのが得意ではない。
怒鳴るのは苦手だし、
強い言葉を投げるのも好きではないし、
誰かを責めて空気を重くするくらいなら、自分が少し引いた方が楽だと思う方だった。
だから今まで、怒りはたいてい自分の中だけで処理してきた。
少し嫌だな、と思っても飲み込む。
理不尽だな、と思っても離れる。
それで済むなら、その方がきれいだから。
でも最近、そのやり方では足りない時がある。
久瀬湊人が関わると、とくにそうだ。
しんどそうなのに学校へ来る。
来て、ちゃんと笑おうとする。
大丈夫じゃない顔をしているのに、「大丈夫です」と言う。
それでいて、みんなに余計な心配をかけたくないみたいな顔をする。
やさしいのだと思う。
たぶん本当に。
でも、そのやさしさの方向が時々すごくずれていて、見ているこちらの方が苦しくなる。
ここ数日、紬希はそれを何度も感じていた。
飲み物を渡した時の、少し疲れた「助かります」も。
打ち上げへ行けなかった夜の「本当に残念でした」も。
担任へ少しだけ事情を伝えたあとの、ほっとしたような表情も。
全部、久瀬湊人という人のやさしさだ。
でも、そのやさしさの裏側で、本人だけが無理を重ねているのだと分かると、さすがにもう、静かに見ているだけではいられなかった。
◇
木曜の昼休み、窓際の空気は一見、穏やかだった。
日野が購買の揚げパンを雑にちぎって食べ、
すばるが「だからこぼすって」と笑い、
真白が「机の上でやるな」と刺し、
湊人が「それはたしかに」と少しだけ笑う。
紬希も、その流れの中で控えめに笑った。
外から見れば、普通の高校の昼休みだ。
でも、今の紬希にはその“普通”の奥にあるものまで見えてしまう。
久瀬の笑い方が少しだけ薄い。
先生に話したあとで、少しだけ肩の力は抜けている。
でも、まだどこかで“一人で立っていなければならない人”の緊張が消えていない。
しかも、今日はそれがいつもより少しだけはっきり見える。
理由は簡単だ。
先生へ少しだけ事情を話したことで、一瞬だけ楽になったぶん、逆に疲れの輪郭が出ているのだ。
「久瀬くん」
紬希が小さく呼ぶ。
「はい」
すぐに返ってくる。
でも、その返事も少しだけやわらかくて、少しだけ弱い。
「先生に言えて」
「ええ」
「少し楽になった?」
そう聞くと、久瀬は少しだけ目を伏せた。
「……なったと思います」
その答えは本音だろう。
だからこそ、次の一言が出た。
「でも」
紬希は言う。
「まだ“大丈夫”って顔ではない」
窓際の空気が少しだけ静まる。
日野が揚げパンを持つ手を止め、
すばるも真白もこちらを見る。
久瀬は少しだけ驚いた顔をした。
「え」
「昨日よりは、まし」
紬希は続ける。
「でも、まだ無理してる」
言ってしまってから、自分でも少しだけ驚く。
こんなふうに、みんなの前でここまでまっすぐ言うつもりはなかった。
でも、もう止まらなかった。
「“大丈夫です”って言う時」
声は大きくない。
でも、静かだからこそ真っ直ぐ届く。
「最近、少しだけ苦しい」
そこまで言って、初めて久瀬の顔がはっきり変わった。
困ったような、
傷ついたような、
でも言い返せないと分かっている人の顔。
それを見て、紬希は胸の奥が痛くなる。
痛くなるのに、今日だけは引きたくなかった。
「倉科さん」
久瀬が小さく言う。
「はい」
「それは」
言葉が続かない。
たぶん、どう返せばいいか迷っているのだろう。
「怒ってるの?」
すばるが、少しだけやわらかく聞いた。
その問いに、紬希はすぐには答えなかった。
少しだけ考えて、それから頷く。
「……少し」
その“少し”は、今までの自分なら濁しのために使った言葉だった。
でも今日は違う。
本当に、少しだけ、でも確かに怒っている。
「大丈夫じゃない時に」
紬希は静かに続ける。
「大丈夫って言われると、どうしていいかわからなくなるから」
かなり本音だった。
やさしくしたいのに、
心配したいのに、
本人が平気な顔をしようとするせいで、こちらの気持ちの置き場所がなくなる。
しかも、平気じゃないことは見えてしまう。
それが、最近ずっとしんどかったのだ。
◇
真白が小さく息を吐いた。
その息は、驚き半分、納得半分みたいな音だった。
「……わかる」
短く言う。
すばるも頷く。
「うん」
日野だけが少しだけ困った顔をしていたが、それでも笑ってはごまかさなかった。
窓際のこの空気は、今はもう“なかったことにしない”方を選び始めている。
久瀬はしばらく何も言わなかった。
その沈黙が少し長くて、紬希は一瞬だけ不安になる。
言いすぎたかもしれない、と。
でも、ここで引っ込めたらたぶんだめだとも思った。
「……ごめんな」
久瀬がようやく言った。
一瞬、紬希はその言葉を理解するのに少し時間がかかった。
いつもの「すみません」ではない。
もっと整った言い方でもない。
ごめんな。
その、少しだけくだけた、でもちゃんと近い言い方。
それが思っていた以上にまっすぐ胸へ入ってくる。
「え」
思わずそれしか出ない。
久瀬は少しだけ目を伏せたまま続けた。
「たぶん、最近」
「うん」
「平気に見せることばかり考えてました」
その言い方は、言い訳ではなく本音だった。
真白が黙って聞いている。
すばるも、日野も、紬希も。
誰も茶化さない。
たぶん全員、今のこれはかなり大事な部分だと分かっているからだ。
「でも」
久瀬は続ける。
「それで余計に、周りを困らせていたなら」
そこで少しだけ苦笑する。
「本末転倒でした」
その言い方が、この人らしいと思う。
少し真面目で、
少し自嘲っぽくて、
でも、ちゃんと本気だ。
紬希はそこでようやく、自分が少しだけ息を詰めていたことに気づく。
怒っていた。
でも本当は、責めたいわけではなかったのだ。
ただ、気づいてほしかった。
“平気なふり”が誰かを安心させるとは限らないと。
「……うん」
小さく頷く。
「それなら、いい」
言いながら、自分でも少しだけ変な表現だと思う。
でも、今はそれが一番近かった。
◇
そのあと、窓際の空気は少しだけ変わった。
重くなったわけではない。
むしろ逆だ。
少しだけ詰まっていたものが、やっと一つ流れた感じがある。
「倉科さん」
すばるが言う。
「なに」
「静かなのに、怒ると効くね」
「それ褒めてる?」
「かなり」
日野が笑う。
「俺も今の“ごめんな”はちょっとびっくりした」
真白も小さく言った。
「私も」
その言い方に、久瀬が少しだけ困ったように目を細める。
「そんなにですか」
「そんなに」
真白が即答する。
「アンタ、普段そこ絶対選ばない」
「そうなんですね」
「自覚ないの?」
すばるが言う。
「少しは」
久瀬が苦笑する。
そのやりとりに、今度はちゃんといつもの笑いが戻った。
紬希はその空気の中で、少しだけ安心していた。
自分の静かな怒りは、ちゃんと届いた。
それで壊れるのではなく、少しだけ関係の置き方が変わった。
怒ることは怖い。
でも、静かなままでも伝えられる怒りはあるのだと、今日初めて思えた。
◇
放課後、駅までの道を五人で歩きながら、紬希は何度も昼休みのことを思い返していた。
“ごめんな”。
あの一言が、頭から離れない。
ただ謝られたからではない。
謝罪の形が少しだけ近かったからだ。
きれいに整えた「すみません」ではなく、
自分の前でだけ少しだけ砕けたその言葉が、
思っていたよりもずっと特別に感じられてしまう。
だめだな、と思う。
こんな時まで、そんなところで胸が動いてしまうのは。
でも同時に、今日怒ったことは間違っていなかったとも思う。
だって、本当に苦しかったのだ。
“大丈夫じゃない人”が“大丈夫”って言うのを見るのが。
「……倉科さん」
歩きながら、すばるが小さく声をかけてきた。
「うん?」
「今日、えらかった」
「えらい?」
「うん」
すばるは少しだけ笑う。
「私、ああいうのは言えないから」
「鳴海さんは、別の言い方ができるから」
紬希が返すと、すばるは一瞬だけ目を丸くした。
「それ、優しい返し」
「本音」
すると、すぐ横から真白が言った。
「今日は二人ともやさしい」
「真白もだったよ」
紬希が小さく言う。
「何が」
「聞いてくれてた」
そう言うと、真白は少しだけ言葉に詰まった。
「……それは」
何か言いかけて、結局やめる。
その沈黙が少しだけおかしくて、すばるが吹き出した。
やっぱり、この窓際の空気は変わった。
前より、少し深い。
でも、その深さはもう、悪いことばかりではないのかもしれない。
◇
夜、自室で一人になったあと、紬希はベッドの上で膝を抱えた。
静かな子は、怒るのが苦手だ。
でも今日は怒った。
少しだけ。
でも、かなり本気で。
そしてその怒りに対して、久瀬は逃げなかった。
困った顔はしたけれど、ごまかさずに受け取ってくれた。
そのうえで、“ごめんな”と言った。
「……ずるいな」
小さく呟く。
好きになっている相手に、ちゃんと怒れてしまうこと。
怒ったあとで、余計に好きになってしまうこと。
その両方が、今日は少しだけ怖かった。
でも、もう戻れないとも思う。
静かな子は、“大丈夫”じゃない人を見ると静かに怒る。
そしてその怒りのぶんだけ、相手を守りたい気持ちが本物なのだと、自分でも認めることになるのだった。




