第68話 言えないことがある人間は、言える範囲で守るしかない
担任に「最近、何か困ってることあるか」と聞かれた瞬間、久瀬湊人は少しだけ息を止めた。
それは放課後、ホームルームが終わった直後のことだった。
教室の空気はもう帰り支度へ流れていて、部活のある生徒はそわそわし始め、残る者は誰と帰るかを確認し、今日も窓際の面々はなんとなく同じタイミングで動こうとしていた。
そんな中で、担任が教卓の上の資料をまとめながら、ふとした調子で言ったのだ。
「久瀬」
「はい」
「ちょっといいか」
呼ばれ方は自然だった。
だからこそ、逆に逃げにくい。
窓際の四人も、それを聞いた瞬間に少しだけ動きを止めた。
露骨ではない。
でも、最近の自分たちはそういう“少し”にやたら敏感だ。
「廊下でいい」
担任が言う。
「はい」
立ち上がる。
その間に、真白がほんの一瞬だけこちらを見た。
すばるも、日野も、紬希も、それぞれ違う形で“何だろう”の顔をしている。
ああ、と思う。
もうこういう時点で、自分一人だけの話ではないのだ。
◇
廊下の窓際は、夕方前の薄い光が差していた。
教室のざわめきが一枚向こうにあるくらいの距離。
完全な密室ではない。
でも、人に聞かせる前提でもない。
先生がこういう場所を選んだ時は、大抵“深刻にしたいわけではないが、確認はしたい”時だ。
担任は窓の外を一度だけ見てから、率直に聞いた。
「最近」
「はい」
「学校の外で、何かあるか?」
回りくどくなかった。
しかも、思っていたより具体的だった。
湊人は一瞬だけ言葉を探す。
全部は言えない。
家側のことも、
配信側のことも、
今校門の外にいる視線のことも、
その全部を一つの筋として学校へ渡すわけにはいかない。
でも、何もないとも言いにくい段階に来ている。
そこはもう、ここ数日の空気が証明していた。
「……少しだけ」
ようやくそう答える。
「少し?」
「ええ」
「それは“本人は大したことないと思いたい”時の言い方か?」
担任の返しが思ったより鋭くて、湊人は少しだけ苦笑した。
「そう見えますか」
「見える」
短い。
でも、その短さに変な圧はない。
ただ、この担任は生徒の“言いにくそうな誤魔化し”に慣れているのだろうと思う。
誰かを追い詰めるためではなく、“そこにあるものを小さく言いすぎる癖”をちゃんと見ている。
「最近、校門の外に変な大人がいるって話も少し聞いた」
担任は続けた。
「クラスでも、変な噂が出始めてる」
そこまで来ているのか、と改めて実感する。
いや、昨日の時点で薄々分かってはいた。
でも、担任の口から出ると重みが違う。
「大ごとにしたいわけじゃない」
担任が言う。
「でも、学校の中にまで空気が入ってくるなら、教師としては一応聞いておきたい」
かなり誠実な聞き方だった。
ここで全部を話せれば楽なのかもしれない。
だが、それはできない。
できないし、してはいけない線でもある。
問題は、言えないからといって黙り切るのももう違うということだ。
真白に、
異常事態の前には言えと言われた。
すばるには、
一人で抱え込むなと言われた。
紬希には、
知っていれば一人にしないで済むと言われた。
日野にも、
あとで知る方がだるいと言われた。
それはきっと、大人相手でも少しだけ同じなのだろう。
「……全部は言えません」
湊人は静かに言った。
担任はそこで口を挟まない。
その待ち方がありがたい。
「でも」
続ける。
「学校の外で、少し面倒なことが起きています」
「面倒、か」
「はい」
「家の事情?」
その問いに、湊人はほんの一瞬だけ黙る。
完全な正解ではない。
でも、外れてもいない。
「家も、無関係ではないです」
それが今言える最大限だった。
担任は少しだけ目を細めたが、それ以上は掘らなかった。
「学校の中に入ってくる可能性は?」
次の問いは、やはりそこだった。
それが教師として一番重要なのだろう。
「今のところ、大きな実害はありません」
湊人は慎重に言葉を選ぶ。
「ただ、外から見られている感覚はあります」
「見られている」
「ええ」
「誰に」
「……そこが、まだ完全に特定できていません」
正直に言うと、担任は小さく息を吐いた。
「厄介だな」
「はい」
「本人が言いたくないことまで聞く気はない」
そこで担任は、初めて少しだけ声をやわらげた。
「でも、学校の中で困ることがあるなら早めに言え」
その言葉が、思っていた以上に真っ直ぐ入ってくる。
詮索しない。
でも、困ることがあるなら言え。
それは、最近窓際の面々に言われてきたことと、少しだけ似ていた。
「……はい」
湊人は小さく頷く。
「あと」
担任は続ける。
「一人で何とかしようとする顔してる時がある」
思わず目を上げる。
先生にまでそこを言われるのか、と少し驚いた。
「そういう時ほど、周りは余計に気にする」
担任は言う。
「クラスの空気も妙に張るしな」
やはり見えているのだ。
窓際の最近の空気の変化も、
自分のぎこちなさも、
全部ではなくても、それなりには。
「言える範囲でいい」
担任はもう一度言った。
「学校の中で問題になりそうなら、その前に」
そこまで言われると、湊人にはもう頷くしかなかった。
「わかりました」
「ならいい」
担任はそれで話を切り上げた。
その“ならいい”にも、無理に深追いしない大人の距離感があった。
◇
教室へ戻ると、窓際の四人の視線が自然に集まった。
自然に、というのが少し面白い。
誰も露骨には見ない。
でも、明らかに待っていた空気がある。
「何」
真白が最初に聞く。
挨拶みたいな短さだが、内容はかなり重い。
「先生」
すばるが言う。
「何の話だった?」
日野は黙っている。
紬希も口を開かない。
でも、その二人もやはり聞きたい顔をしている。
湊人は少しだけ迷ってから、答えた。
「最近のことを」
「最近のことって、だいぶ広い」
すばるが言う。
「校門の外とか」
そこまで出すと、真白が小さく息を吐いた。
「やっぱりそこまで行ってる」
「ええ」
「何て言ったの」
今度は紬希が静かに聞く。
「全部は言えないと」
湊人が答える。
「でも、学校の外で少し面倒が起きているとは伝えました」
その言い方に、窓際の空気が少しだけ静まる。
すばるが目を丸くした。
「ちゃんと言ったんだ」
「言わないと、もう無理かと思って」
そこはかなり本音だった。
真白はその言葉を聞いて、少しだけ目を細める。
「……そう」
短い。
でも、その“そう”の奥には、たぶん少しだけ安堵がある。
昨日までなら、真白はもっと“遅い”と言ったかもしれない。
でも今は、少なくとも言えたこと自体を先に受け取っている感じがした。
「先生、変に詮索しなかった?」
日野が聞く。
「しませんでした」
「ならまあ、だいぶ当たりの先生か」
その言い方が日野らしい。
でも、たしかにそうだと思う。
紬希が小さく言った。
「よかった」
その一言が、ひどくやわらかかった。
「学校の中で、誰にも何も言えない状態より」
そこで少しだけ言葉を切る。
「少しだけ、まし」
かなり正しい言い方だった。
全部は言えない。
でも、言える範囲で伝える。
それが、今の自分にできる現実的な守り方なのだろう。
◇
その日の帰り道、五人はまた自然にまとまって駅まで歩いた。
もうほとんど、そうするのが当たり前みたいになってきている。
最初は少しぎこちなかった“見守り下校”も、今は会話のテンポの中へ馴染み始めていた。
「先生に言ったってことはさ」
すばるが言う。
「もう一段階進んだ感じあるね」
「何が」
真白が聞く。
「“みんなで気をつけよう”だけじゃなくて、“学校にも最低限は共有した”ってこと」
日野が頷く。
「たしかに」
「完全に学校側へ渡したわけじゃないけど」
湊人が言う。
「それでも、ゼロではなくなった」
その表現が今の状態にはちょうどよかった。
紬希が少しだけやわらかく言う。
「言える範囲で守る、みたいな」
その一言に、湊人は少しだけ驚く。
自分の中でまだ曖昧だった感覚を、ちょうどいい形で言葉にされた気がしたからだ。
「……そうかもしれません」
「うん」
紬希は頷く。
「それでいいと思う」
その肯定が、今日は思っていた以上に胸へ残った。
全部は言えない。
でも、言える範囲で守るしかない。
それはたぶん、弱さではなく今の自分にできる現実的な強さなのだろう。
◇
夜、自室で一人になったあと、湊人はスマホへ届いた新しい通知を見つめていた。
家側からだ。
学校への過度な影響が懸念される場合、対応方針を見直します。詳細は後日。
短い文。
だが、その含みは重い。
学校への影響。
つまり、向こうもこちらの学校生活の揺れを把握し始めているということだ。
「……遅いんだよ」
小さく呟く。
それでも、まったく無意味ではない。
少なくとも、学校生活側を守ることが“こちらのわがまま”ではなく、問題として認識され始めた。
窓際の面々に言われて、
担任にも少しだけ伝えて、
家側にもようやく学校への影響という言葉が届く。
全部が少しずつだ。
でも、少しずつでも前へ進んでいる。
言えないことがある人間は、言える範囲で守るしかない。
今日の湊人は、ようやくそのやり方を少しだけ現実として受け入れ始めていた。




