第67話 噂になった時点で、“自分だけの問題”ではなくなる
噂というものは、はっきりとした事件より先に空気へ染みる。
誰かが大声で言いふらすわけではない。
むしろ逆で、断片のまま、曖昧なまま、人から人へ渡っていく。
最近、校門の近くに変な大人が立ってない?
あの転校生、たまに外でスーツの人に呼ばれてるらしいよ。
なんか、家がちょっとすごいとかじゃない?
いや、でも芸能系かも。
雰囲気ちょっと普通じゃないし。
そういう“まだ形を持たない話”が、一番厄介だと久瀬湊人は知っていた。
事実ならまだ対処のしようがある。
完全な嘘なら、切り捨てられる。
でも、半分だけ本当で、半分はただの想像みたいな噂は、どこから修正しても必ず何かが残る。
そして今の学校の中には、その手のざわつきが、確実に生まれ始めていた。
◇
木曜の朝、教室へ入る前の廊下ですでに違和感はあった。
すれ違う二人組の女子が、こちらを見たあとで少しだけ声を落とす。
階段の踊り場で話していた男子が、久瀬の姿に気づくと会話を一拍だけ止める。
どれも露骨ではない。
でも、露骨ではないからこそ分かる。
ああ、これは始まったな、と思う。
視線の意味が変わってきている。
ただの転校生を見る目ではなく、
“何かあるらしい人”を見る目へ。
「……最悪だな」
心の中でだけそう呟く。
原因ははっきりしている。
校門の外の視線。
教室へ来たスーツの男。
最近の下校時の不自然なまとまり。
それら全部が、断片のまま学校の空気へにじみ始めているのだ。
教室の扉を開ける。
窓際の空気は、まだいつも通りに近かった。
日野が「眠い」と言い、
すばるが「毎朝それ」と笑い、
真白が「もはや挨拶」と切り、
紬希が小さく笑う。
そこへ自分も入る。
この瞬間だけはまだ、いつもの窓際だ。
「おはようございます」
声をかけると、日野が「おはよ」と手を上げる。
すばるも返してくる。
真白は一瞬こちらを見て、すぐに顔をしかめた。
「何」
思わず聞く。
「もう始まってる」
短い。
だが、驚くほど同じことを感じていた。
「……そっちも?」
湊人が小さく返すと、真白は頷く。
「廊下で二回」
すばるも「あー」と嫌そうに声を漏らした。
「私も階段のとこでちょっとあった」
紬希も少し遅れて言う。
「……見られた」
その小さな一言が、状況をいちばん正確に表していた。
もう、窓際の五人だけが分かっている問題ではなくなりつつある。
学校全体の空気が、少しずつこちらを“変なもの”として認識し始めている。
「噂だね」
すばるが言う。
「ええ」
湊人は静かに答えた。
「たぶん」
「最悪」
真白がまた言う。
その“最悪”には、いつもより少しだけ怒りが混ざっていた。
◇
一限目のあと、教室のざわめきの中でも、その変化ははっきりしていた。
別の列の女子が、久瀬の方を見てから何か小さく言う。
男子の何人かが、日野へ「おまえら最近あいつとよく一緒にいるよな」と軽く聞く。
軽い。
でも軽すぎるからこそ、本題は別のところにあるのが分かる。
「日野」
真白が低く呼ぶ。
「ん?」
「何か聞かれたら、変に答えないで」
「さすがにわかってる」
日野は苦笑した。
「でもまあ、来たよ」
「何が」
すばるが聞く。
「“あの転校生ってなんかある人?”って」
その言い方に、窓際の空気がまた少しだけ冷える。
「で?」
真白が聞く。
「“あるなら俺も知りたい”って返しといた」
日野は笑う。
その軽さに少しだけ救われる。
真正面から否定もしない。
でも、向こうへ材料も渡さない。
日野らしい雑なかわし方だ。
「ありがとう」
紬希が小さく言う。
「礼言われるほどじゃないって」
日野は肩をすくめる。
「でもこれ、ほんとに広がってるっぽいな」
その一言が、かなり現実的だった。
すばるは机に肘をついて、少しだけ唇を噛む。
「やだな」
「うん」
紬希が頷く。
「学校の中で変に名前つく前が一番しんどい」
すばるの言葉は、そのまま今の不快さを言い当てていた。
まだ何者とも決まっていない。
でも、“何かあるらしい”だけが先に共有される。
その状態は、正体が明かされるより前の、いちばん湿った嫌さを持つ。
◇
昼休み、久瀬は一度だけ教室を出た。
別に逃げたかったわけではない。
ただ、この空気の中でずっと正面から座っていると、自分の表情まで変になりそうだった。
廊下の端、人気の少ない窓際まで歩く。
そこでようやく息を吐いた。
噂になった。
それが意味するのは、もう“自分だけの問題”ではなくなったということだ。
自分一人が静かにやり過ごせば済む段階を過ぎた。
窓際の皆も、
日野も、
真白も、
すばるも、
紬希も、
すでに“久瀬と近い側”として、じわじわ視線の対象に入っている。
そこまで来ると、申し訳なさの質も変わる。
単に迷惑をかけている、ではない。
自分の抱えているものが、他人の学校生活の輪郭まで少しずつ変えてしまっている。
「……だめだな、ほんとに」
小さく呟いた瞬間、後ろから声がした。
「一人で反省会?」
振り返ると、御門朱莉が立っていた。
「御門さん」
「今日はかなり顔に出てる」
「そうでしょうか」
「そう」
即答だ。
朱莉は窓際へ並ぶように立つ。
「広がった?」
「ええ」
「どのくらい」
「まだ曖昧な噂の段階ですが」
そこまで言ってから、少しだけ苦く笑う。
「その段階が一番まずい気がします」
「正解」
朱莉はあっさり頷いた。
「形のない噂は、否定しても残るから」
その言い方が、あまりにも現実的で嫌になる。
「どうするつもり?」
朱莉が聞く。
「……まだ」
「また一人で考えてる」
「そのつもりは」
「顔」
短く切られて終わる。
最近、本当にそういう人ばかりだと思う。
「自分だけで処理できると思わない方がいいわよ」
朱莉は続けた。
「もう“外から見られてる”じゃなくて、“中で噂になってる”んだから」
その通りだった。
そして、その事実が何より重い。
◇
教室へ戻ると、窓際の空気は少しだけ待っていた感じがあった。
何も言わずに離席した時間は短い。
でも最近のこの列は、短い不在にも少しだけ敏感だ。
「遅い」
真白が言う。
「すみません」
「謝罪じゃなくて報告」
すぐそう来る。
「……少し空気を入れ替えに」
「教室の?」
「自分の」
そこへすばるが小さく笑う。
「それはわかる」
紬希も静かに頷いた。
「うん」
ただ、その共感のあとに沈黙が来る。
誰も軽くはしない。
でも、重く沈めすぎもしない。
今の窓際は、そのぎりぎりのところにいる。
「ねえ」
すばるが言う。
「なに」
真白が返す。
「これさ」
少しだけ真面目な声になる。
「ほんとに、もう“久瀬くんだけの問題”ではないんだよね」
その一言に、教室のこの列だけがまた静まる。
日野が頷く。
「まあ、そう」
紬希も小さく言った。
「うん」
真白は腕を組んだまま、久瀬を見る。
「だから」
「はい」
「今まで以上に、黙って勝手に何とかしない」
かなりはっきりしていた。
「……はい」
「今日のそれも含めて」
「はい」
そこまで来ると、もう反論の余地はない。
すばるが少しだけ肩をすくめる。
「なんかさあ」
「なに」
「包囲網が強化されていくね」
「必要だから」
真白が言う。
日野は笑う。
「まあでも、今の段階だとそれくらいでいい気もする」
その雑さが逆に助かる。
紬希は少しだけ迷ってから言った。
「……噂、広がるの嫌」
それは今日いちばん静かで、いちばん重い言葉だった。
久瀬は、その一言に何も返せなかった。
返せない代わりに、はっきりと理解する。
そうだ。
嫌なのだ。
自分だけではなく、皆が。
正体が何かとか、外に何があるとか、その前に“学校の中が変な空気になること”自体が、もうみんなにとって嫌なことになっている。
◇
放課後、帰り道のまとまり方は昨日よりさらに自然になっていた。
今さら「一緒に帰る?」と確認するまでもない。
誰かが先に歩き出せば、他の誰かもなんとなく合わせる。
それがもう、この数日の窓際の普通になりつつある。
ただ今日は、会話の合間に学校内の噂が少しだけ混じった。
「二組の子がさ」
日野が言う。
「“最近久瀬って外で偉い人に迎えられてるらしい”とか言ってた」
「うわ、方向性ついてる」
すばるが顔をしかめる。
「まだ“偉い人”で済んでるだけましかも」
真白が言う。
「いや十分だるい」
「だるい」
すばるが頷く。
紬希は少しだけ視線を落とした。
「……広がるの早い」
それも本音だろう。
湊人は歩きながら思う。
もう遅いのかもしれない。
何もしないまま自然に消える段階は、少しずつ遠ざかっている。
だったら、やはり何らかの形で手を打たなければならない。
でもそれを一人でやるなと言われたばかりだ。
その板挟みが、ひどく苦しい。
すると、不意に真白が横から低く言った。
「今、また一人で考えてる顔」
図星だった。
「……そう見えますか」
「見える」
「最近ほんとに何でも見えてません?」
「アンタがわかりやすすぎるだけ」
そこへすばるが笑う。
「でも今日のそれは、たしかに考え込み顔」
日野まで頷く。
紬希は何も言わない。
でも、やはり心配そうにこちらを見ていた。
噂になった。
その時点で、もう一人の問題ではなくなる。
そして、そのことをこの窓際の四人は、もうかなり同じ温度で理解し始めている。
◇
夜、自室で一人になったあと、久瀬はしばらくスマホの画面を見つめていた。
家側へ連絡を入れるか。
AstraLink側へ相談するか。
学校側へ先回りして少しだけ事情を伝えるか。
どれも、考えれば考えるほど簡単ではない。
だが、それより先に今日は一つだけはっきりしてしまった。
噂になった時点で、もう“自分だけの問題”ではなくなる。
それは、学校の中での久瀬湊人の立ち位置や、
窓際の空気や、
一緒に帰る誰かの輪郭まで巻き込んでいく。
そこまで理解してしまった以上、もう“言えないから一人で何とかする”の逃げ道は使いづらい。
使えば使うほど、守りたいものまで一緒に削れていくからだ。
「……難しいな」
小さく呟く。
でも、難しいで止まっているだけではたぶん足りない。
噂になった。
それは最悪だ。
でも同時に、もう動かなければいけない段階へ来たという合図でもあるのだろう。




