第62話 静かな子は、守りたい時だけ少しだけ勇気を出す
倉科紬希は、基本的に自分から流れを変える側の人間ではない。
誰かの提案に頷くことはできる。
必要なら静かに手を貸すこともできる。
でも、場の進み方そのものを変える一言を、自分から先に置くのは少し苦手だ。
たとえば昼休みにどこへ行くかとか、
帰りに寄り道するかとか、
そういう小さな選択肢ですら、誰かが先に言ってくれた方が楽だった。
それなのに最近は、その“先に言う”を少しだけしなければならない場面が増えている。
久瀬湊人のことになると、とくに。
弱っている時は飲み物を渡したくなるし、
しんどそうなら「無理しないで」と言いたくなるし、
学校の外の嫌な気配が近づいているなら、「一人にならない方がいい」とも思う。
思うだけで終われば、今までの自分のままだった。
でも、最近はそれを口にしないでいる方が、もっと落ち着かない。
好きだから、という言葉にしてしまえば簡単なのかもしれない。
でも紬希の中では、それはまだ少しだけ照れくさくて、少しだけ怖い。
ただ一つはっきりしているのは、
“守りたい時だけ、少しだけ勇気が出る”ということだった。
◇
水曜の朝、教室へ入る前から、紬希は少しだけ緊張していた。
理由は昨日の共有だ。
すばるが気づいた、校門の外の視線の質。
本人だけでなく、誰とどういるか、どう帰るか、そういう人間関係ごと見られているかもしれないという話。
その認識が入ってしまったあとでは、昨日までと同じ“ただ一緒に帰る”ではいられない。
少なくとも自分の中では。
もし本当に見られているなら、
誰かが一人になる瞬間とか、
帰り道でばらけるタイミングとか、
そういうところが一番危ないのではないか。
そこまで考えてしまう自分に、紬希は少しだけ驚いていた。
前の自分なら、そこまで先回りして考えなかったと思う。
でも今は違う。
嫌な気配が学校の近くにあると分かった途端、どうしても“何をすれば少しましか”を考えてしまう。
教室の扉を開ける。
窓際の空気は、今日もいつもの形でそこにあった。
日野が前の席で何か話し、
すばるがそれに食いつき、
真白が少し低い声で切り、
久瀬が半歩外側からそれを見ている。
その景色を見ただけで、やっぱり思う。
守りたいな、と。
この、うるさくて、少しだけ面倒で、でも落ち着く空気を。
「おはよう」
小さく言う。
「おはようございます」
久瀬が返す。
その声は、月曜よりも火曜よりも少しだけ自然になっていた。
それだけで少しほっとする自分に、もう紬希はあまり逆らわない。
「倉科さん」
すばるが言う。
「うん?」
「今日、ちょっと考えてる顔」
やっぱり見抜かれる。
すばるも真白も、最近はそういうところが妙に鋭い。
「そうかな」
「そう」
真白が即答する。
「朝から“何か言うか迷ってる顔”」
そこまで正確に言われると、少しだけ笑ってしまう。
「……すごい」
「見てるから」
真白が言う。
「怖」
すばるが笑う。
でも、その軽いやりとりがありがたい。
ここなら、言っても大丈夫かもしれないと思えるからだ。
◇
一限目と二限目のあいだの休み時間。
教室の中が少しざわついているタイミングで、紬希は小さく言った。
「……帰る時」
真白が先に反応する。
「うん」
「しばらく、一人にならない方がいいと思う」
その一言で、窓際の空気が少しだけ静かになった。
大げさな声ではない。
でも、今の自分にとってはかなり勇気のいる一言だった。
すばるが瞬きをする。
「帰り?」
「うん」
紬希は頷く。
「昨日の話、ほんとなら」
「うん」
「一人になるタイミング、見られてるかもしれない」
その言葉は、かなり現実的だった。
しかも、それを紬希が先に言ったことが少し意外だったのだろう。
日野まで「おお」と小さく声を漏らす。
「……たしかに」
真白が腕を組んだ。
「それはある」
「だよね」
すばるもすぐに乗る。
「登校時より下校時の方が見てる感じ、昨日も言ってたし」
「だから」
紬希は少しだけ目を伏せる。
「帰る時、なるべく誰かと一緒の方が」
言い切る。
言ってしまうと、思っていたよりすんなり胸に落ちた。
ああ、自分はこれを言いたかったのだと分かる。
日野が笑う。
「じゃあ最近の俺ら、ちょっとした護衛チームじゃん」
「軽い」
真白が切る。
「でも方向性は合ってる」
すばるが言う。
「しばらくそれでよくない?」
そこへ、久瀬が少しだけ困ったように言った。
「……そこまでさせるのは」
たぶん、その先は“申し訳ない”だ。
でも紬希は、今日はそこを止めたかった。
止めるために、少しだけ勇気を出したのだから。
「違う」
思っていたより、ちゃんと声が出た。
全員が少しだけこちらを見る。
紬希は少しだけ頬が熱くなるのを感じながらも、続けた。
「守るの、久瀬くんだけじゃないから」
その一言で、今度は教室のこの列だけが完全に静かになった。
たぶん、自分でもかなり本音に近いことを言っている。
久瀬のためだけ、ではない。
この窓際の空気も、
自分たちの帰り道も、
普通の学校生活も、
まとめて守りたいと思っている。
その中心に久瀬がいるのは確かだ。
でも、彼だけを特別扱いしているように見せたくもなかった。
だからその言い方になる。
「……うん」
すばるが最初に頷いた。
「それ、めっちゃ正しい」
「私もそう思う」
真白が続く。
短いけれど、かなりはっきりと。
日野も「じゃあ多数決で採用」と笑った。
そして久瀬だけが、しばらく言葉を失っていた。
その表情を見るだけで、紬希は自分の一言が思っていたより深く届いてしまったことを知る。
◇
昼休み、窓際の空気は少しだけ変わっていた。
重くなったわけではない。
でも、“一緒に帰る”が単なる流れではなく、少しだけ意志のあるものになった感じがする。
「で」
すばるが言う。
「今日は誰とどの駅までルート共有する?」
「ルート共有って言い方」
真白が呆れる。
「だって今の話、だいたいそうじゃん」
「まあ」
日野が笑う。
「俺は途中まで同じ方向だし」
「私も駅までは一緒」
紬希が言う。
「私も」
真白が続く。
そこへ自然と視線が久瀬へ向いた。
「……ありがとうございます」
やはりそう来る。
でも今日は、その礼も前ほど痛くなかった。
理由は簡単で、もうこの流れが“あなた一人のためではない”とさっきちゃんと口にできたからだ。
「礼はなしで」
すばるが言う。
「そういうフェーズじゃない」
「フェーズって何」
日野が笑う。
「なんかもう、共同生活防衛期間みたいな」
「語感が変」
真白が切る。
そのやりとりに小さく笑いが起きる。
でも、たぶん内容はそこまで間違っていない。
学校の中まで来る外圧から、少しだけ日常を守る。
今はそういう時間なのだろう。
「倉科さん」
不意に久瀬が言った。
「え」
「さっきの」
そこで少しだけ言葉を探す。
「……助かりました」
また、その言い方だ。
静かで、まっすぐで、余計な飾りがない。
紬希は少しだけ困ってしまう。
自分はただ、言いたいことを言っただけだ。
それなのに、こういうふうに受け取られると、また胸の奥がやわらかく痛くなる。
「……うん」
小さく返す。
「ちゃんと帰れれば、それでいい」
それもかなり本音だった。
来てほしいとか、近くにいたいとか、そういう少し私的な感情の前に、まず“無事に普通の帰り方ができること”が来る。
その順番が、最近の自分の気持ちを少しだけ大人にした気がした。
◇
放課後、実際に五人で駅まで歩くことになった。
最初は少しだけぎこちなかった。
でも、すばるがいつもの調子で話題を振り、日野が雑に返し、真白が切り、紬希がときどきやわらげる。
そこへ久瀬も混ざる。
結局、歩き始めて五分もしないうちに、いつもの放課後の空気に近いものが戻ってきた。
ただ一つ違うのは、みんなが校門の外を少しだけ気にしていることだ。
誰も露骨にきょろきょろはしない。
でも、横断歩道の手前で、
コンビニ前の人影で、
少し離れた位置の車で、
無意識に一度だけ確認する。
それが今の自分たちなのだと、紬希は歩きながら思う。
守るために、少しだけ勇気を出す。
それは派手なことじゃない。
ただ、いつもより一緒に帰るとか、
一人にならないようにするとか、
そういう、小さくて現実的な行動だ。
でも、その小ささが今はありがたかった。
「……今日は平和かも」
すばるがぽつりと言う。
「フラグっぽいからやめて」
真白がすぐ返す。
「えー」
「でも今のはちょっと思った」
日野が笑う。
「私も」
紬希が小さく言う。
久瀬はその会話を聞いて、少しだけ目を細めた。
「平和なのが一番ですね」
「そういうこと」
真白が言う。
「だから余計なこと起こさないで」
「僕が起こしているわけでは」
「起こしてなくても中心にいる」
その言い方が真白らしくて、すばるが吹き出す。
紬希も笑ってしまう。
その笑いの中で、紬希は思う。
これでいいのかもしれない。
全部を解決する力なんてなくても、
少しだけ勇気を出して、一人にしないようにする。
それだけで、守れるものもあるのだと。
◇
夜、自室で一人になったあと、紬希はベッドの上で今日のことをゆっくり思い返していた。
帰る時、一人にならない方がいい。
そう言った。
言えた。
しかも、思っていたよりちゃんと受け入れられた。
守るの、久瀬くんだけじゃないから。
あの一言も、自分の中ではかなり大きかった。
本当は、かなり久瀬のためでもある。
でもそれだけではないと、ちゃんと自分の中でも言えた。
それが少しだけ嬉しい。
好きだから守りたい。
でも、好きだけで動くのではなく、
みんなの学校生活ごと守りたいと思えるなら、
それは少しだけ強い気持ちの持ち方なのかもしれない。
「……少しだけ、ちゃんとしたかも」
小さく呟いて、自分で少しだけ笑う。
もちろん全部がうまくできているわけではない。
まだ言えないことも多い。
照れるし、躊躇うし、近づきすぎてしまうのも怖い。
でも、守りたい時だけ少しだけ勇気を出す。
それなら今の自分にもできる気がした。
静かな子は、守りたい時だけ少しだけ勇気を出す。
そして、その少しの勇気が、気づけば恋を一歩先へ進めているのかもしれなかった。




