第60話 ツンデレは、“知らない”ままでも異常事態には気づく
柊坂真白は、違和感に対してわりと執念深い。
別に探偵気質というわけではないし、何でもかんでも白黒つけたいタイプでもない。
でも、毎日の中で妙に引っかかるものがあると、それを“まあいいか”で流すのが苦手だった。
誰かの声色がいつもと違うとか、
提出物の期限を誤魔化している顔をしているとか、
言葉は平然としているのに、目だけが妙に忙しいとか。
そういうのは、見えてしまう。
見えてしまうと、頭の片隅にずっと残る。
だから今の久瀬湊人に対しても、真白の中にはいくつもの引っかかりが並んでいた。
文化祭の日の非常階段。
打ち上げの日に来られなかったこと。
教室まで来たスーツの男。
校門の外を見ている知らない大人たち。
そして、その全部のあとで、それでも学校へ来て、窓際に座って、何事もない顔を作ろうとする久瀬の横顔。
ここまで並べると、もう“なんかある”では済まない。
済ませたくないというより、済まないとしか思えない。
しかも真白にとって一番腹が立つのは、秘密の正体そのものより、異常事態を異常事態として扱わないまま隣の席に座ろうとする、その無茶の方だった。
「……ほんと面倒」
朝、駅から学校へ向かう道を歩きながら、真白は小さく呟いた。
問い詰めたいわけじゃない。
何を隠しているのか、今すぐ全部吐けとも思わない。
でも、“何かあっても言わずに一人で何とかしようとする”のだけは、さすがに放っておきたくない。
それが親切心なのか、
責任感なのか、
ただ単に隣の席の人間として気持ちが悪いのか、
そこは自分でもまだよくわからない。
ただ一つわかるのは、前みたいに「知らないから関係ない」で切れなくなっているということだった。
◇
教室へ入ると、久瀬はすでに来ていた。
それだけで、真白はほんの少しだけ肩の力が抜ける。
抜けてから、自分で少しだけ嫌になる。
最近はもう、こういう小さな安堵がほとんど反射みたいになっているからだ。
「おはよう」
席へ鞄を置きながら言う。
「おはようございます」
返ってきた声は昨日より少しましだった。
削られている感じは残っている。
でも、月曜の“だいぶまずい”顔ではない。
「今日は」
真白は椅子を引きながら言う。
「まだ人間っぽい」
前の席で日野が吹き出す。
「評価厳しいな」
「昨日がひどかっただけ」
真白が言うと、すばるも頷いた。
「それはたしかに」
紬希は少しだけ困ったように笑う。
「でも、昨日よりはほんとに」
「でしょう」
真白は短く返した。
久瀬は少し苦笑する。
「そこまで露骨でしたか」
「露骨」
真白が即答する。
「今日は朝食」
「食べました」
「ほんとに?」
「まだ疑われるんですね」
「そこはしばらく疑う」
そう返すと、日野が「生活指導が板についてきたな」と笑った。
すばるがすぐに食いつく。
「最近の真白、そこだけ妙に保護者感あるんだよね」
「うるさい」
「いやでも、今日の確認もだいぶ」
「鳴海が雑すぎるだけ」
そのやりとりに小さな笑いが起きる。
窓際の空気は、ここ数日でまた少し戻ってきていた。
でも真白の中では、その戻り方が逆に怖くもあった。
普通に笑える日があるからこそ、急に外側の事情が割り込んできた時の冷え方がよくわかってしまうからだ。
◇
一限目が終わったあと、真白は自分でも驚くくらい自然に久瀬の机へ目をやっていた。
授業の終わり方。
ノートを閉じるタイミング。
息の吐き方。
スマホを触るかどうか。
全部を監視したいわけではない。
ただ、異常事態の前触れみたいなものが最近は妙に顔へ出るから、先に気づきたいだけだ。
その時、久瀬がポケットの中のスマホを見ようとして、しかしやめた。
ほんの一瞬の動き。
でも真白には、それがもう十分引っかかる。
「ねえ」
声をかける。
久瀬が少しだけ顔を上げた。
「はい」
「今の」
「今の?」
「見ようとしてやめたでしょ」
そこまで言うと、すばるが横から「うわ」と小さく漏らした。
「何それ、もうほぼ職質」
「違う」
真白は即座に言う。
「違わなくない?」
日野が笑う。
「今の一秒でそこまで言うの、だいぶ」
「黙って」
でも自分でも少しだけ思う。
たしかに、見すぎかもしれない。
けれど今の動きは、どう見ても“何かあるかもしれないけど、ここでは見ない方がいいと判断した”人間のそれだった。
久瀬は少しだけ視線を落とした。
「……今日は、今のところ大丈夫です」
その言い方がまた、真白には引っかかる。
「“今のところ”」
「はい」
「そこ、なくせないの?」
「努力しま」
「禁止」
真白が即座に切る。
すばるが吹き出した。
「ほんとにそこだけ反応早い」
「学習してるから」
真白は言う。
「逃げ道として使われる言葉が決まってるなら、先に塞いだ方が早い」
かなり本音だ。
日野が「理屈はわかる」と頷き、紬希も少しだけ小さく笑った。
だが久瀬は、その流れのあとで少しだけ真面目な顔になった。
「柊坂さん」
「なに」
「そこまで見なくて大丈夫です」
その一言に、真白はほんの少しだけムッとする。
「大丈夫じゃないから言ってるんだけど」
「え」
「学校の中で何か起きる前に言って」
そこで一気に言い切った。
教室の空気が少しだけ静まる。
すばるも、紬希も、日野も、今の一言の重さはちゃんと分かったらしい。
「大きいことが起きてからじゃ遅い」
真白は続ける。
「何抱えてるかは、今は全部聞かない」
「……」
「でも、学校の中で困るようなことになる前に言え」
かなりまっすぐだった。
そして、たぶん今の自分の中では一番本音に近かった。
秘密の中身を知りたいわけじゃない。
ただ、異常事態の前兆まで抱え込まれて、ある日急に教室へ別の空気を持ち込まれるのが嫌なのだ。
少なくとも、その前に一言あれば、こちらだって構え方を変えられる。
久瀬は少しだけ目を伏せた。
それから、静かに言った。
「……もし何かあれば」
「うん」
「最初に伝えます」
その返事は、思っていたよりずっと素直だった。
真白は少しだけ驚く。
でも、すぐに顔へは出さない。
「本当に?」
「はい」
「曖昧な返事じゃなくて?」
「今のは、かなり本気です」
そこまで言われると、逆に言葉が詰まる。
真白は小さく息を吐いた。
「ならいい」
短く返すしかなかった。
すばるが横からにやっとした顔をする。
「なに」
「いや」
すばるは笑いをこらえながら言う。
「そこ、ちゃんと約束になるんだって思って」
「ならないと困る」
真白は即座に返す。
でも、そこに少しだけ安堵が混ざっていたことは、自分でも分かった。
◇
昼休み、窓際の会話はまた日常側へ戻ろうとしていた。
日野が「次の写真共有会、名前だけダサい」と笑い、
すばるが「内容が楽しければ勝ち」と返し、
紬希が「名前はどうでもいいかも」と小さく頷く。
その横で、真白はふと思う。
こういう時間を守りたいのだ。
自分たちは結局。
文化祭の準備から、
打ち上げに来られなかった夜のやりとりから、
教室へ来たスーツの男から、
校門の外の視線から。
いろんなものが少しずつ入ってきたあとで、逆にそのことがはっきりしてしまった。
「ねえ」
すばるが急に言う。
「なに」
真白が返す。
「今のこの空気って、前よりちょっと変だよね」
「雑」
「でもわかるでしょ?」
「……わかる」
そこは否定しない。
紬希も静かに言う。
「何も知らない頃とは、ちょっと違う」
「うん」
すばるが頷く。
「でも、壊れてはない」
日野が「それな」と笑う。
真白はその言葉を聞いて、少しだけ考える。
壊れてはいない。
でも、もう前と同じでもない。
そしてその“前と同じじゃない”の中で、自分が選んでいるのは問い詰めることではなく、隣にいることだ。
知りたい。
でも今は聞かない。
その代わり、何かあれば言えと釘を刺す。
倒れそうなら止める。
学校の中では普通でいろと、勝手に決める。
かなり面倒だ。
でも、そうする方が今は自然だった。
「真白」
すばるがまた言う。
「なに」
「今日ちょっと機嫌いい?」
「別に」
「出た」
「でも朝よりは丸い」
日野が言う。
「アンタら、ほんとそこばっか見てる」
「真白がわかりやすすぎる」
すばるが笑う。
すると久瀬が、少しだけ目を細めてぽつりと言った。
「たしかに」
一瞬、全員がそちらを見る。
「何が」
真白が聞く。
「今日は少しだけ」
久瀬は言葉を選んでから続けた。
「安心しました」
その一言に、真白は本気で一拍遅れた。
「……は?」
思わずそんな声が出る。
だがすばるが先に反応する。
「うわ、それ今言う!?」
日野は「久瀬、そういうとこ」と笑い、紬希は困ったように視線を落とした。
「何が安心なの」
真白が聞くと、久瀬は少しだけ苦笑した。
「学校の中で、異常が起きる前に言えと言われたので」
「うん」
「それなら、無理に全部隠すよりましだと思えました」
かなりまっすぐだった。
そして、それが本音だとも分かる。
真白は言葉に詰まる。
そこまで真正面から受け取られると、こっちの方が困る。
でも同時に、少しだけ救われてもいた。
ああ、と思う。
自分が今やっていることは、ただの小言ではないのかもしれない。
ちゃんと、向こうの負担を少しだけ下げているのだ。
「……なら」
ようやくそう言う。
「次もそうしなさい」
「はい」
今度の返事は、前より少しだけ軽かった。
◇
放課後、日野とすばるが先に出て、紬希も図書室へ向かったあと。
教室に残った真白は、窓際の外を見ながら一人で思った。
知らないままでいるのは、やっぱり気持ちが悪い。
でも、何も言わずに一人で潰れていく顔を見る方がもっと嫌だ。
だから今は、そこへ線を引くしかない。
全部は聞かない。
でも、異常事態の前には言え。
それだけは譲らない。
そこまで考えたところで、教室の扉の向こうから久瀬の声がした。
「柊坂さん」
振り返る。
「なに」
「……さっきの件」
「うん」
「本気です」
短い。
でも、それだけで十分だった。
何かあれば最初に伝える。
その約束のことだろう。
「そう」
真白は短く返した。
「破ったら」
「はい」
「かなり怒る」
半分冗談みたいに聞こえるかもしれない。
でも、自分の中ではかなり本気だ。
久瀬は少しだけ笑った。
「覚えておきます」
「そうして」
それだけ言って、真白は鞄を持つ。
問い詰める代わりに隣にいる。
その選び方はやっぱり自分らしくない。
でも、自分らしくないままでもいいかと思えるくらいには、もうこの窓際は大事な場所になってしまっているのだろう。
◇
帰り道、一人で歩きながら、真白は小さく息を吐いた。
今日は一つ、約束を取った。
全部は聞かない代わりに、危なくなる前に言わせる。
たったそれだけ。
でも、そのたったそれだけが、今の自分たちにはかなり大きい。
秘密の正体はまだ知らない。
でも、秘密のせいで学校の空気が壊れるのは嫌。
その思いが共有され始めたからこそ、こういう約束も必要になるのだろう。
「……面倒くさい」
小さく呟く。
でも、その面倒さの中に、もう嫌いではないものが混ざっていることも、自分で分かっていた。
ツンデレは、“知らない”ままでも異常事態には気づく。
そして気づいてしまった以上、問い詰める代わりに、隣にいることを選んでしまうのだった。




