第59話 校門の外の視線は、ただ見ているだけなのに学校の空気を冷やす
翌日から、校門の外にある“視線”は、妙に現実味を帯びてそこに居座るようになった。
最初は気のせいかと思った。
昨日の夕方、校門の向こうに立っていた、あの黒っぽいコートの男。
家側の人間とも違う。
相馬たちみたいな、洗練された“身内の静けさ”ではない。
もっと乾いた、もっと公的で、だからこそ遠慮のない気配。
だが火曜の朝、登校してすぐにその違和感は気のせいではなくなった。
校門から少し離れた歩道。
通学の流れから一歩だけ外れた位置。
昨日と同じ男ではない。
けれど、似たような立ち方をした別の男がいる。
地味なジャケット。
手にはスマホ。
でも、画面を見ているふりをしながら、意識のほとんどは学校の出入りへ向いている。
そういう視線だ。
「……本当にやめてくれ」
久瀬湊人は心の中で小さくそう呟いた。
ただ見ているだけ。
ただ校門の外に立っているだけ。
それだけなのに、妙に空気が冷える。
学校という場所は、本来もっと雑多で、ゆるくて、誰かの視線に一々輪郭を与えないくらいには無防備な場所のはずだ。
なのに、外から“目的を持って見ている目”があるだけで、その無防備さは一瞬で不安定になる。
そして今の湊人には、それが自分絡みである可能性が高いことも分かってしまっている。
家側ではない。
少なくとも相馬たちの動きではない。
だとすると、もっと別の線だ。
それが何より嫌だった。
家側ならまだ、こちらにも言い返す窓口がある。
配信側ならまだ、マネージャーへ相談できる。
だが、正体の分からない“公的な匂い”には、動き方そのものが読みづらい。
しかも最悪なのは、その視線がもう、学校の近さの中に入ってしまっていることだ。
教室へ向かう廊下を歩きながら、湊人はひどく神経が尖っている自分に気づく。
昨日までならただの学校の音だったはずのものが、今日はどれも少しだけ遠い。
上履きで床を擦る音。
朝のホームルーム前の笑い声。
誰かが教室の後ろで友達を呼ぶ声。
その全部の向こう側に、校門の外の視線がまだ残っている気がする。
◇
教室へ入ると、窓際の空気は思っていたより穏やかだった。
日野が前の席でスマホを見ながら「眠すぎ」と言い、
すばるが「それ毎朝言ってる」と笑い、
真白が「じゃあ寝れば」と雑に返し、
紬希が少し遅れて「おはよう」と入ってくる。
そこへ自分も混ざる。
最近はその流れが自然になってしまっている。
「おはようございます」
声をかけると、日野が「おはよー」と軽く返し、すばるもいつものように手を上げた。
真白はちらりとこちらを見る。
そして、すぐに何かを察したみたいに目を細めた。
「……今日も」
短い声。
「何がでしょう」
「顔」
やはりそこか、と思う。
最近の真白は、本当にそういうところが早い。
すばるもこちらを見た。
「え、なに、また悪い?」
「悪いっていうか」
真白が言う。
「警戒してる顔」
かなり正確だった。
その言い方に、紬希も少しだけ眉を寄せる。
「何かあった?」
彼女の問いはやわらかい。
でも今の湊人には、そのやわらかさが少しだけ刺さる。
「……校門の外に」
言ってから、一瞬だけ迷う。
どこまで言うべきか。
でも、ここで全部を飲み込むと、また“何もないふり”になる。
それはもう前よりずっとやりにくい。
「昨日の人とは別で」
そこまで言うと、すばるの顔が少しだけ強張った。
真白は沈黙したまま続きを待つ。
紬希は小さく息を止めている。
日野だけがまだ状況を半分飲み込めていない顔だ。
「似た感じの人がいました」
湊人は静かに言った。
「学校を見ている感じの」
教室のこの列だけ、空気が少しだけ冷える。
「……まじ?」
日野がようやく言う。
「はい」
「家の人?」
すばるが聞く。
そこが一番知りたいところなのだろう。
家側ならまだ、線が見える。
でも違うのなら、もっと嫌だ。
「違うと思います」
湊人が答える。
「少なくとも、僕の知っている系統では」
その言い方で十分だった。
真白が腕を組む。
「つまり、また別口」
「ええ」
「最悪」
短く吐き捨てるように言う。
でも、その“最悪”は自分へ向けられていない。
状況そのものへ向いている。
そこが少しだけありがたかった。
紬希が小さく言う。
「……毎日?」
「まだ分かりません」
「でも昨日だけじゃなかった」
「はい」
そこまで言うと、すばるが小さく顔をしかめた。
「ただ見てるだけなのに、めっちゃ嫌だね、それ」
「うん」
日野も珍しく即座に頷く。
「普通に気持ち悪い」
その言い方が、いちばん素朴で、いちばん本質に近かった。
ただ見ているだけ。
でも、その“ただ”が学校の空気に一番合わない。
◇
一限目のあと、真白が珍しく自分から机を少しだけ寄せてきた。
「ねえ」
「はい」
「あれ、アンタ絡みでしょ」
直球だった。
しかも、疑いというより確認に近い。
久瀬は一瞬だけ言葉を失う。
でも、もうそこで驚くほどではないのかもしれないとも思う。
真白はずっと、“何か外側の問題がある”前提でこちらを見ている。
「……可能性は高いです」
言える範囲で答えると、真白は小さく息を吐いた。
「やっぱり」
「断定はまだできませんが」
「でもほぼそうなんでしょ」
「ええ」
そこまで言うと、彼女の目が少しだけ鋭くなる。
「だったら」
「はい」
「次に見つけた時、すぐ言って」
「え」
「一人で“様子見”とかしないで」
かなり釘を刺すような口調だった。
「昨日のあれで学んだ」
「……何を」
「アンタ、一人で抱え込む時ほど判断変になる」
そこまで言われると、否定しづらい。
しかも言い方がかなり正しい。
真白はさらに続ける。
「今の段階で一番だるいのは、学校の中がじわじわ冷えること」
「……はい」
「正体が何かとか、全部あとでいい」
その言葉に、湊人は少しだけ目を上げた。
「まず、あの空気を持ち込まないで」
それはかなり、真白らしい言い方だった。
秘密そのものに踏み込むより先に、
学校の今ある空気を守ることを優先する。
感情的で、でもすごく現実的。
「わかりました」
素直に答えると、真白は少しだけ驚いたような顔をした。
「今日はやけに素直」
「正しいので」
「それも腹立つ」
そこへすばるが横から顔を出す。
「なに、また二人で低い会話してる」
「鳴海は黙って」
「なんで」
「うるさいから」
「ひど」
でも、そのやりとりのおかげで、少しだけ空気が元へ戻る。
◇
昼休み、朱莉は一人で校舎の渡り廊下に立っていた。
窓から見える校門の外を、ぼんやりと見ているようで、実際にはかなり集中している。
そして案の定、いた。
昨日と同じ男ではない。
今日はまた別の人物。
だが、目的のない立ち方ではないことだけは同じだ。
「……面倒ね」
小さく呟く。
家側ではない。
少なくとも相馬たちの系統ではない。
それは昨日の久瀬の反応でかなり確信に近づいている。
しかも、やり方が微妙に素人くさい。
露骨な接触こそしないが、学校の周囲に“見られている”感覚を残す程度には下手だ。
つまり、洗練された私設警護でもなければ、芸能周りの距離感でもない。
もっと、事務的で、公的で、そして対象の生活圏へ遠慮なく踏み込んでくる系統。
そこまで考えたところで、背後から声がした。
「御門さん」
振り返ると、久瀬湊人が立っている。
彼もまた、この位置から校門の外を確認しに来たのだろう。
「見えた?」
朱莉が聞く。
「ええ」
「同じ?」
「いいえ。昨日とは別人です」
その返しが早い。
ということは、やはり本人も顔を覚え始めている。
「完全にローテーションね」
朱莉が言うと、湊人は少しだけ目を伏せた。
「そう見えます」
「家側じゃない」
「はい」
そこはもう、二人のあいだではかなり確定に近い。
「学校側が気づく前に、動かないと面倒になるわよ」
朱莉は窓の外を見たまま言う。
「気づけばよいのでは?」
「だめ」
即答だった。
「学校が“問題”として認識した瞬間、アンタも窓際も、普通じゃなくなる」
その言葉はひどく現実的だった。
たしかにそうだ。
担任や学校が公式に動く段階になれば、
事情聴取だの、
保護者連絡だの、
見知らぬ大人の出入りだの、
全部が一気に“学校行事ではない非日常”へ変わる。
そうなれば、今ある窓際の空気は間違いなく濁る。
「……避けたいですね」
湊人が言う。
「でしょ」
朱莉はそこで初めて彼を見る。
「じゃあ、もう“様子見”じゃ足りない」
その一言が、次の段階を示していた。
◇
放課後、窓際の五人がまた自然と残った時、教室の空気は朝より少しだけ緊張していた。
何かが決定的に起きたわけではない。
でも、校門の外の視線が“続いている”ことを、今の五人はそれぞれの形で理解し始めている。
「……今日もいた?」
すばるが聞いた。
軽く聞くふりをしているが、かなり本気だ。
「いました」
久瀬が答える。
「別の人でしたが」
「うわ」
日野が言う。
「まじでローテ?」
「たぶん」
真白が小さく息を吐く。
「最悪、継続案件」
「その言い方、変にリアル」
すばるが言う。
紬希は少しだけ迷ってから、小さく言った。
「帰る時、今日は一人にならない方がいい」
その言葉に、真白が頷く。
「うん」
「今週しばらくそれでいく?」
日野も自然に乗る。
その“自然さ”がありがたい。
大げさに守るのではなく、ただ行動を少し変えるだけ。
それくらいの距離感が、今はちょうどいい。
すばるもすぐ言う。
「賛成」
そして、少しだけ困ったように笑った。
「なんか、文化祭打ち上げ以降、普通の高校生活のくせに妙に危機管理能力上がってない?」
「上げたくて上がってるわけじゃない」
真白が返す。
「それな」
日野も笑う。
そのやりとりの中で、湊人は少しだけ胸が痛む。
自分の事情のせいで、みんなの帰り方まで変わっている。
「……ごめ」
言いかけた瞬間、真白が即座に遮った。
「それ禁止」
「でも」
「でもじゃない」
かなり厳しい。
「今のは全員の判断」
「うん」
すばるも頷く。
「嫌だからやってるだけ」
紬希も静かに重ねた。
「学校の中まで持ち込まれたくないから」
その言い方で、湊人はようやく理解する。
これは“自分を助けるため”だけではないのだ。
みんなが、自分たちの学校の空気を守るためにもやっている。
それが少しだけ、救いだった。
◇
帰り道、五人は駅まで一緒に歩いた。
すばるがわざと明るく話題を振り、
日野がそれに雑に乗り、
真白が冷静に切って、
紬希が小さく笑う。
その流れの中に、久瀬もいる。
ただ隣を歩くだけなのに、今日はそれが少し特別だった。
守られている、というより、
守る側へ一緒に組み込まれている感じがする。
そしてその一体感が、ありがたい一方で、やっぱり少しだけ重い。
自分一人の問題ではなくなってきているからだ。
駅前が近づく頃、すばるがふと小さく言った。
「ねえ」
「なに」
真白が聞く。
「これ、もう“本人かどうか問題”とか置いといてさ」
その言い方に、真白も紬希も少しだけ視線を向ける。
「普通に嫌なんだよね」
「うん」
真白が頷く。
日野も「それ」と言う。
紬希も静かに頷いた。
その短いやりとりが、今の五人の共通理解だった。
秘密はまだ分からない。
でも、校門の外から来る視線が嫌だということだけは、もうかなりはっきりしている。
◇
夜、自室で一人になったあと、湊人はベッドの縁に座って長く息を吐いた。
校門の外の視線。
朱莉の「学校側が気づく前に動かないと面倒になる」。
真白の「次に見つけた時、すぐ言って」。
すばるの「普通に嫌だった」。
紬希の「一人にならない方がいい」。
日野の気楽な“全員の判断”という一言。
全部が、少しずつ重なっている。
誰も正体を知らない。
でも、“今困っていること”については、もうかなり共有されてしまっている。
「……そうか」
小さく呟く。
たぶん自分は、前の段階へは戻れない。
“全部一人で隠して、一人でなんとかする”だけのやり方は、もうこの窓際では通用しない。
そして、それを嫌だとは思いきれない自分もいる。
守りたい推しと同じくらい、隣の友達も守りたくなる。
すばるのあの感覚は、きっと今の五人全員に、少しずつ広がり始めているのかもしれなかった。




