第56話 オタクは、守りたい推しと同じくらい、隣の友達も守りたくなる
鳴海すばるは、自分が“守る側”の人間だと思ったことはあまりない。
どちらかと言えば、守られるよりは自力でなんとかする方だし、誰かを庇って前へ出るタイプでもない。
空気は読む。
流れも読む。
でもそれは、場を回すためというより、自分が楽しくいるための調整に近い。
だから、文化祭の非常階段で数秒聞いてしまった声のことも、
打ち上げに来られなかった夜の短いメッセージのことも、
教室にスーツの男が入ってきた時の空気の悪さも、
全部まとめてずっと“困るなあ”の側に置いていた。
面倒だ。
気になる。
気になりすぎる。
でも、だからって自分が何かできるわけじゃない。
そう思っていた。
けれど、その認識が少しだけ変わったのは、月曜の放課後のあとだった。
教室まで来たスーツの男。
学校の空気を何も知らないまま、ただ“用件があるから”という顔で久瀬湊人を呼び出した大人。
あの時すばるの中で一番強かったのは、“本人かどうか”への疑いでも、“推しに近い”というざわつきでもなかった。
普通に嫌だった。
教室の空気を壊されるのが。
久瀬が、明らかに嫌そうな顔をしているのが。
みんなの前で、学校の外の重さだけが急に持ち込まれるのが。
それを思い返した時、すばるはようやく気づいた。
「……あ」
自室のベッドに転がったまま、天井を見上げる。
「私、そっちなのか」
本人かどうかはまだ決めつけたくない。
そこは変わらない。
でも、それとは別に。
何であれ、今しんどそうな久瀬湊人が嫌だ。
その気持ちが、かなりはっきり出てきている。
推しだからではなく、
正体が気になるからでもなく、
クラスの隣の席のあの空気の中にいる人として。
その感情に名前をつけるのはまだ少し難しい。
でも少なくとも、ただの興味よりはずっと強い。
「……やば」
小さく呟いて、すばるは枕へ顔を埋めた。
推し疑惑より先に、“友達が困ってるの嫌だ”の方が前へ出てくるなんて、思っていたよりずっと普通の恋とか友情に近い。
それが少し照れくさくて、でも少しだけ安心でもあった。
◇
翌朝、教室に入ると、窓際の空気はまた少し整い直していた。
昨日のスーツ男の件で完全に崩れたわけではない。
むしろ、崩れかけたあとで、それぞれが少しだけ手探りで元へ戻そうとしている感じがある。
日野が前の席から「おはよ」と言い、
真白が「朝からだるい」とぼやき、
紬希が静かに「おはよう」と返す。
そして、久瀬ももう来ていた。
そこにいる。
ちゃんと、今日も教室にいる。
それだけで、すばるは昨日より少しだけほっとしてしまう。
そのことに、もう最近はいちいち驚かない。
驚かないくらいには、“いること”を前提にしてしまっているのだろう。
「おはよー」
すばるが席へ向かいながら声をかける。
「おはようございます」
返ってくる声は、昨日より少しだけましだ。
完全に元気という感じではない。
でも、月曜の削れ方ほどではない。
そこを拾ってしまう自分が、やっぱり面倒だ。
「……今日は昨日より生きてる」
つい口に出る。
真白がすぐ反応した。
「言い方」
「でも合ってない?」
「合ってる」
日野が笑う。
「生死判定が雑」
紬希も少しだけ笑った。
久瀬は少し困ったように目を細める。
「そこまでひどかったでしょうか」
「昨日はだいぶ」
すばるが言う。
「今日の方がまだ人間味ある」
「鳴海」
真白が低く言う。
「褒めてるよ!?」
「たぶん褒め方が雑」
紬希が静かに言った。
その一言で、また小さな笑いが起きる。
こういう笑いが起きるなら、まだ大丈夫だと思う。
でもその“まだ大丈夫”を壊されるのが嫌だと、今のすばるは前よりはっきり思うようになっていた。
◇
一限目のあと、すばるは珍しく自分から久瀬へ話しかけた。
教室のざわめきの中で、少しだけ身を乗り出す。
「ねえ」
「はい」
「昨日のあれ」
そこまで言って、言葉を選び直す。
“スーツの人”と言うか、“外側のやつ”と言うか。
でも結局、一番まっすぐな言い方を選んだ。
「普通に、嫌だった」
かなり本音だ。
しかも、思っていたよりずっとまっすぐな声で出た。
久瀬は少しだけ目を見開く。
「え」
「教室に入ってきたの」
すばるは続ける。
「なんか、空気ごと雑に持ってかれた感じしたし」
そこで少しだけ肩をすくめる。
「本人かどうかとか、そういうの一回置いといても」
そこだけは自分の中でかなり大事だった。
推し疑惑や、似てる似てないの話ではなく、今はもっと単純なところを言いたい。
「私は、ああいうので久瀬くんがしんどそうになるの、嫌」
言ってしまってから、自分で少しだけ耳が熱くなる。
かなり直接的だ。
でも、一度出してしまった言葉は戻らない。
久瀬はすぐには返さなかった。
その沈黙に、すばるは少しだけ焦る。
重かったかもしれない。
重すぎたかもしれない。
でも数秒後、彼は静かに言った。
「……ありがとうございます」
その一言に、すばるは思わず顔をしかめる。
「そういうのじゃなくて」
「え」
「礼されると変に重くなるじゃん」
そこへ日野が前の席から笑いながら割って入った。
「いやでも、わかるよ鳴海のそれ」
すばるがそちらを見る。
「日野まで?」
「だって昨日のあれ、普通に教室の空気悪くなったし」
軽く言っているようで、たぶんかなり本音だ。
日野なりに、昨日の件をちゃんと嫌だと思っていたのだろう。
真白も、前を向いたまま小さく言った。
「学校の中に持ち込まれるのが一番嫌」
それもまた、かなり本音だった。
紬希は静かなまま頷く。
「うん」
その短い“うん”の中に、四人分の感覚が重なっている気がした。
そうか、とすばるは思う。
これ、自分だけじゃないのだ。
久瀬が何を抱えているか全部は知らない。
でも“学校の中までそれが来るのは嫌”という感覚は、たぶんみんなもう共有している。
◇
二限目と三限目のあいだの休み時間。
すばるはトイレへ行くふりをして、少しだけ廊下へ出た。
気持ちを落ち着けるためだ。
さっきの「嫌だった」はかなり本音だったし、かなり自分でも驚いた。
あんなふうに出ると思っていなかったから。
廊下の窓際に寄りかかっていると、少し遅れて紬希も出てきた。
「あ」
「お」
なんとなく、二人で並ぶ形になる。
「さっきの」
紬希が小さく言った。
「うん」
「わかる」
短い。
でも、それだけでかなり十分だった。
すばるは少しだけ笑う。
「だよね」
「うん」
「なんかさ」
すばるは窓の外を見る。
「前は、ほんとに“正体何なんだろ”みたいな感じの方が強かったんだけど」
紬希が静かに聞いている。
「今は、それより先に、ああいうのでしんどそうになるのが普通に嫌なんだよね」
言葉にしてみると、昨日の夜に気づいたことがさらに輪郭を持つ。
紬希は少しだけ目を伏せた。
「私も、近いかも」
「耳とかじゃなくて?」
「うん」
彼女は小さく頷く。
「弱ってるのが見えると、そっちの方が先に来る」
その言い方が、やっぱりこの子らしいと思う。
静かで、でも芯がある。
「そっか」
すばるは小さく息を吐く。
「じゃあもう、かなりだね」
「かなり?」
「うん」
少しだけ笑って言う。
「“本人かどうか”より、“今のあの人がしんどいの嫌”の方が勝ってるってことじゃん」
紬希は言葉を失ったみたいに一瞬止まり、それから少しだけ困ったように笑った。
「……そうかも」
それはたぶん、かなり大きな認識だった。
推しかもしれない。
似てるかもしれない。
そういう揺れを抱えたままでも、結局今いちばん前にある感情は、“クラスの久瀬湊人”へ向いたものなのだと分かるからだ。
「やばいなあ」
すばるが呟く。
「なにが」
「普通の恋とか友情みたいなことで、ちゃんと悩み始めてる」
紬希は少しだけ笑った。
「それ、わりと前からじゃない?」
「厳し」
でも、その厳しさはちょっとありがたかった。
◇
昼休み、窓際の空気は昨日よりさらに自然だった。
日野が購買の新作パンの話をして、
真白が「また変なもの買ってる」と呆れて、
すばるが「でもちょっと気になる」と言い、
紬希が控えめに笑う。
その流れの中へ、久瀬も以前より自然に混ざっている。
昨日の件が完全に消えたわけではない。
でも、それをずっと真ん中へ置かないでおけるくらいには、窓際の空気が回復してきている。
そのことが、すばるには少しだけうれしかった。
「でさ」
日野がパンをかじりながら言う。
「来週あたり、またなんかクラスで集まる流れあるかもって」
「え、また?」
すばるが反応する。
「今度は何」
「写真共有会みたいなやつ」
「何その名前」
真白が言う。
「ださくない?」
「ださいけど、まあ楽しそう」
日野が笑う。
その時、すばるは反射的に久瀬の顔を見た。
たぶん、みんなも少しだけそうした。
また集まる流れ。
その時、この人は普通にいられるだろうか。
今度こそ、学校の外の圧に邪魔されないだろうか。
そう考えてしまう自分に、すばるはもう驚かない。
むしろ、それが自然になり始めていることの方が少し怖い。
「……来られるといいね」
紬希が小さく言った。
その一言に、すばるはすぐ頷く。
「ほんとに」
真白は何も言わなかったが、否定もしなかった。
日野だけが「まあ次は呼び出しなしで頼むわ」と笑う。
久瀬はそのやりとりを聞いて、少しだけ目を細めた。
「ええ」
それだけ。
でも、その短い返事の中に、かなりいろんなものが含まれていた。
申し訳なさ。
ありがたさ。
そしてたぶん、同じくらいの“来たい”。
◇
放課後、自室のベッドに座ったまま、すばるは今日一日のことをゆっくり整理していた。
文化祭の非常階段。
打ち上げの不在。
教室へ来たスーツの男。
そこから今日の「普通に嫌だった」。
全部を並べると、やっぱり自分の気持ちは少しずつ移動している。
本人かどうかを暴きたいわけじゃない。
むしろ、それを雑に確定させたくない気持ちの方が強い。
だってもし違ったら、自分はかなり気持ち悪いオタクになる。
もし近かったとしても、向こうの事情をこっちの興味で乱したくない。
でも、それとは別に。
今しんどそうな久瀬湊人が嫌だ。
学校の空気の中で、あんなふうに外側の重さへ引っ張られるのが嫌だ。
できれば、あの窓際では普通に笑っていてほしい。
その気持ちは、もうかなりはっきりしていた。
「……友達ってことでいいのかな」
小さく呟く。
でも、その言葉だけでも少し足りない気がする。
友達として守りたい気持ちもある。
でもたぶん、それだけではない。
それでも、今はそこまででいいと思った。
推しだと決めつけない。
でも隣の席の人が困っているなら、普通に嫌だ。
そういう気持ちの持ち方も、たぶん間違いではない。
オタクは、守りたい推しと同じくらい、隣の友達も守りたくなる。
今日のすばるは、それをようやく自分の言葉として受け入れ始めていた。




