第54話 静かな子は、弱っている人にやさしくされると、もう戻れない
倉科紬希は、昔から「誰かを助けたい」と思うこと自体は、そこまで珍しいことではなかった。
クラスでプリントを落とした子がいたら拾うし、
先生が荷物を持っていたら扉を押さえるし、
図書室で困っている一年生がいたら棚まで案内する。
それは別に、特別やさしいからではない。
見えてしまったものを、そのままにはしづらいだけだ。
自分が少し動けば済むことなら、その方が自然だと思っている。
でも、最近の“助けたい”は少しだけ種類が違う。
見えてしまったから動く、ではない。
その人がしんどそうだと、自分の方まで少し苦しくなる。
だから何かしたくなる。
その違いに、紬希はもうかなり気づいていた。
そして、その違いが一番はっきり出る相手が、久瀬湊人だった。
◇
月曜の昼休み。
窓際の一角で、紬希は自分の手の中にある小さなペットボトルを見つめていた。
冷たいスポーツドリンク。
購買の横の自販機で、ほとんど迷わず買ったものだ。
本当は、自分用でもなんでもない。
最初から、あの人に渡すつもりで買った。
朝から顔色が少し違っていた。
文化祭のあとや、打ち上げを逃した直後とも少し違う、もっと深いところの疲れ。
授業は受けている。
受けているのに、反応の奥行きが薄い。
言葉を返すたび、ほんの半拍遅れる。
そして何より、無理に“普通に見える顔”を作ろうとして、かえって削れて見える。
ああいう顔を見ると、だめだ。
放っておけない。
けれど、だからといって何でもいいわけではない。
大げさに心配しても、この人は困る。
「休んだ方がいい」と言っても、たぶん苦笑して終わる。
じゃあ、何なら受け取ってもらえるだろうと考えた時、一番静かな答えがこれだった。
水分。
目立たなくて、
押しつけがましくなくて、
でも、ちゃんと“見ている”が伝わるもの。
「……いけるかな」
小さく呟く。
自分でも、少し緊張しているのが分かる。
ただ飲み物を渡すだけなのに。
それだけなのに、妙に心臓がうるさい。
それはたぶん、この行動が単なる親切だけでは済まなくなっているからだ。
◇
窓際の空気は、表面上はいつも通りだった。
日野が軽口を言い、
すばるがそれに食いつき、
真白が冷静に刺す。
その流れを久瀬も、いつもの半歩外側から拾おうとしている。
でも今日は、その“拾う”動きそのものに疲れが見えた。
紬希は、お弁当箱を閉じるふりをして一度だけ息を整え、それからペットボトルをそっと取り出した。
「これ」
声は思っていたより普通に出た。
久瀬がこちらを見る。
「え」
「今日、たぶん水分足りてない顔」
言ったあとで、自分でも少しだけ恥ずかしくなる。
そんな顔、ってどういう顔だろうと思う。
でも、その説明の雑さのわりに、言いたいこと自体はかなりまっすぐだった。
久瀬は一瞬だけ目を丸くした。
それから、かなりゆっくりとそのボトルを受け取る。
「……ありがとうございます」
その声に、紬希は少しだけ呼吸を止めた。
やわらかい。
でも、いつもより少し掠れている。
ちゃんと疲れている人の声だ。
それなのに、受け取る時の礼だけはいつも以上に丁寧で、そこが余計に胸へ残る。
「助かります」
続いたその一言は、もっとだめだった。
大げさじゃない。
飾っていない。
でも、本当に助かると思った時の音がしていた。
紬希は、そこで自分の中の何かが、また一段静かに進むのを感じた。
やさしくしたかったのに、
返ってきた言葉の方がやさしい。
そういうふうに返されると、こっちの気持ちまで少し肯定されてしまったみたいで、逃げ場がなくなる。
「よかった」
ようやくそれだけ返す。
それ以上は言えなかった。
たぶん言ったら、声が少しだけ揺れてしまう気がしたからだ。
すばるはそのやりとりを見ていた。
見ていたけれど、何も言わなかった。
真白も、少しだけ目を細めただけでからかわない。
日野だけが「それ俺にも効きそう」と笑って空気を少しだけ軽くした。
その軽さがありがたい。
でも、その軽さに守られながら、紬希の中ではかなり大きなものが動いていた。
◇
昼休みのあと、午後の授業中も、紬希はたびたびさっきの一言を思い出していた。
助かります。
ただそれだけの言葉なのに、妙に残る。
今までだって、久瀬に礼を言われたことくらいある。
でも今日は違った。
弱っている時ほど、ちゃんと礼を言う。
しんどい時ほど、相手を困らせないように言葉を選ぶ。
その不器用なくらいのやさしさが、最近はひどく刺さる。
しかも今日は、自分が少し踏み込んだあとだった。
水分足りてない顔、なんて、かなり近い距離の言い方だ。
それを引かずに受け取って、さらにやわらかく返されたら、もうだめだ。
ノートへ文字を書きながら、紬希は思う。
好きかもしれない、ではもう遅いのかもしれない。
たぶん、かなり好きだ。
それをはっきり認めるのは、まだ少し怖い。
でも、認めないままにしておくには、今日の一言はあまりにも効きすぎた。
◇
放課後、教室の人が少しずつ減っていく中で、紬希はあえて少しゆっくり帰り支度をしていた。
早く帰りたいわけではない。
でも、残りたいと表へ出すのも違う。
そのあいだの、いちばん静かな速度で鞄にノートをしまう。
久瀬もまだ席にいた。
どうやら今日は、すぐにどこかへ抜ける日ではないらしい。
それだけで少しだけほっとする自分がいる。
真白は先に帰り、日野も部活の友人に呼ばれて出ていった。
すばるは忘れ物を取りに行くと言って教室を離れた。
ほんの数分、教室の中が少し静かになる。
その静けさの中で、久瀬の方から小さく声がした。
「倉科さん」
「え」
「先ほどは、本当に」
そこで少しだけ言葉を探してから、続ける。
「助かりました」
また、それを言うのかと思う。
しかも今度は昼休みの流れの中ではなく、少し静かな放課後の教室で。
そんなふうに改めて言われたら、こっちの心臓の方が助からない。
「……そんなに?」
かろうじてそれだけ聞く。
久瀬は少しだけ苦笑した。
「自分で思っていたより、消耗していたみたいです」
「そっか」
「ええ」
短い会話。
でも、その短さの中にある本音が、前よりずっと見える。
この人は、ほんとうに今しんどいのだ。
それでも学校へ来る。
来て、窓際にいて、ちゃんと会話へ混ざろうとする。
そのうえで、自分が差し出した一本の飲み物へ、ここまできちんと礼を言う。
もうだめだ、と紬希は思った。
こういうのは、かなりだめだ。
弱っている人にやさしくしただけのつもりが、その返し方ひとつで、こちらの気持ちの逃げ道がなくなる。
「……あんまり」
紬希は小さく言う。
「無理しないで」
ありきたりな言葉だ。
でも今の自分には、それ以上うまく言えなかった。
久瀬は少しだけ目を細めた。
「はい」
その返事も、変に軽くない。
ちゃんと受け取った時の音だ。
そして、その“ちゃんと受け取る感じ”が、まただめなのだ。
◇
帰り道、駅までの道を歩きながら、紬希は何度も今日のことを思い返していた。
朝の顔色。
ボトルを差し出した時の少し驚いた表情。
助かります、の一言。
放課後に改めて言われた「本当に助かりました」。
たぶん、どれか一つだけならここまでではなかった。
でも全部が重なってしまった。
文化祭のあと、
打ち上げに来られなかった夜のメッセージ、
月曜の削れた顔、
そして今日のやりとり。
それら全部が静かに積み重なって、今の自分の中で一つの答えみたいなものを作り始めている。
「……かなり好きかも」
駅前の雑踏の中で、誰にも聞こえないくらい小さく呟く。
言ってしまった瞬間、少しだけ足が止まりそうになる。
でも、否定はできなかった。
好きかもしれない、ではなく、
かなり好きかも。
その表現がいちばん今の自分に近い気がした。
まだ完全に言い切るには少しだけ怖い。
でも、もう“ただ気になる”に戻れる感じでもない。
やさしくしたかった。
それだけのはずだったのに、返ってきたやさしさの方がずっと強くて、その分だけこちらの心が動いてしまう。
静かな子は、そういうふうにして少しずつ逃げ場を失っていくのかもしれない。
◇
夜、自室。
机の上のスマホには、天瀬アルトの配信通知が光っていた。
少し前までなら、紬希はそれを見た瞬間にすぐ開いていた。
今日も聞きたい。
その気持ちは変わらない。
でも今夜は、少しだけ指が止まる。
久瀬の「助かります」が、まだ耳に残っているからだ。
そのやわらかい、少し疲れた声が、アルトの方へ向かうはずの気持ちの前に立ってしまう。
「……ほんとに、だめだな」
小さく笑って、それでも通知を開く。
再生する。
流れてくるアルトの声は、いつも通り落ち着いていて、やさしい。
でも、今日はそれを聞きながらも、昼休みの教室の窓際が頭から離れない。
飲み物を受け取る指先。
静かな礼。
疲れている時ほど丁寧な返し方。
画面の向こうの推しと、
教室の窓際の同級生が、
また少しだけ近い場所へ寄ってくる。
それでも、今夜の紬希には一つだけはっきりしたことがあった。
もう戻れない、ということだ。
今日の一日だけで決まったわけではない。
でも今日の一日が、最後の後押しになったのは確かだった。
弱っている人にやさしくした。
そのあとで、返ってきたやさしさに胸を撃ち抜かれた。
そこまで来たら、もう“かなり好きかもしれない”は、かなり本気の言葉なのだろう。
静かな子は、弱っている人にやさしくされると、もう戻れない。
そして今の倉科紬希は、たぶんまさにその場所に立っていた。




