第53話 お嬢様は、傷んだまま笑う人間を見てしまう
御門朱莉は、人が無理をしている時の笑い方があまり好きではない。
正確には、嫌いというより見ていて落ち着かない。
本当に余裕がある時の笑いは、もっと軽い。
言葉の端が自然にほどけて、こちらまで力を抜かせる。
でも、無理をしている時の笑いは違う。
形だけは笑っていても、どこか一段奥の疲れが消えない。
しかも、そういう笑いをする人間ほど、自分ではうまく隠せているつもりだったりするから厄介だ。
だから月曜の昼過ぎ、校舎の渡り廊下から二年三組の窓際を見た瞬間、朱莉は小さく眉を動かした。
「……ひどいわね」
久瀬湊人が、笑っていたからだ。
いや、笑っているというより、周囲へ合わせて少しだけ口元を緩めている。
すばるが何か言い、日野が笑い、真白が刺し、紬希が控えめにやわらげる。いつもの窓際の流れ。その中へ、久瀬もちゃんと混ざろうとしている。
でも、削れている。
文化祭のあとや、打ち上げ不参加の翌日ともまた違う。
土曜の家側の用件でごっそり何かを持っていかれたあと、それでも学校へ来て、いつもの位置へ座って、いつもの空気へ合わせようとしている人間の顔だ。
それが、朱莉には妙に気に障った。
なぜそこまでして来るのか。
家側の事情も、学校の外の面倒も、どう見ても軽くないのに。
少し休むとか、距離を置くとか、もっと合理的な選択肢はあるはずだ。
それでも来る。
しかも、ただ来るだけでなく、あの窓際の空気へ混ざろうとする。
その理由が、朱莉には少しずつ見え始めていた。
◇
放課後、生徒会室へ向かう途中で、朱莉はちょうどよく久瀬を見つけた。
廊下の端。
人気の少ない窓際。
手には飲みかけのスポーツドリンク。
倉科紬希が昼休みに渡していたものだろう。
「アンタ」
声をかけると、久瀬は少しだけ肩を揺らして振り向いた。
「御門さん」
「その顔で学校来るのね」
いきなり言うと、さすがに少しだけ苦笑する。
「顔に出ていますか」
「かなり」
朱莉は壁へ軽く寄りかかった。
「月曜の昼過ぎにしては、だいぶ終わってる」
「ひどい言い方ですね」
「事実確認よ」
そこへ余計な慰めは要らない。
久瀬は窓の外へ少しだけ視線を流した。
校庭では運動部が動き始めている。学校の午後らしい音。
なのに、その音の中で彼だけが少し別の重さを抱えているのが分かる。
「土曜、そんなにきつかった?」
朱莉は聞く。
かなり直球だった。
でも、もうこのくらいは投げてもいい段階だと思った。
久瀬は一瞬だけ黙った。
その沈黙だけで、大体の答えは出ている。
「……軽くは、なかったです」
「家側?」
「ええ」
そこは隠さない。
隠しきれないと判断したのかもしれない。
「で、そのあとも外の顔をやって、月曜には普通の高校生として登校」
朱莉が言う。
「だいぶ無茶してるわよ」
「そうかもしれません」
「そうかもしれないじゃなくて、そう」
即答する。
「なのに来るのね」
そこで初めて、久瀬の表情が少しだけ変わった。
否定しにくい問いを投げられた時の、あのわずかな間。
「休んでもよかったはず」
朱莉は続ける。
「学校って、そこまで義務感だけで来る場所でもないでしょ」
「……」
「少なくともアンタは、そういう“皆勤賞で生きてる”タイプには見えない」
そこまで言うと、久瀬はほんの少しだけ苦笑した。
「それは、そうですね」
「じゃあ、なんで来るの」
答えを急かすつもりはなかった。
でも、今日はそこへ行きたかった。
しばらく沈黙が落ちる。
渡り廊下の向こうで、誰かが笑う声がした。
その学校らしい音を一度だけ聞いてから、久瀬は静かに言った。
「来たいからです」
あまりにもまっすぐで、朱莉は一瞬だけ本当に言葉を失った。
「……へえ」
ようやく出たのは、それだけだった。
来なければいいのに、ではなく。
仕方なく来ている、でもなく。
来たいから。
理屈としてはシンプルだ。
でも、ここまで削れた顔でその答えを出す人間は、たぶんもうかなり本気でその場所へ執着している。
「窓際?」
朱莉は聞く。
前にも似たことを聞いた。
でも今日は、前より少しだけ深く意味が違う。
久瀬は少しだけ目を伏せ、それから答えた。
「……それも、です」
それも、ということは。
学校そのものも、
あの空気も、
たぶん両方なのだろう。
朱莉はそこでようやく、ひどく腑に落ちた気がした。
前は“秘密を抱えている人間”として面白かった。
今は違う。
“秘密を抱えたままでも、学校の静かな居場所へ戻ろうとする人間”として見えている。
だから、ただ面白いだけで済まなくなってきたのだ。
◇
「アンタ」
朱莉は少しだけ声を落とした。
「そこまでして来るなら、かなり好きになってるわよ」
「何をですか」
「この生活」
そう言い切ると、久瀬は少しだけ息を止めた。
否定しない。
できないのだろう。
その顔だけで十分だった。
「秘密の中身が重いんじゃない」
朱莉は続ける。
「学校へ来たい気持ちの方が、今はもう重い」
それは、前よりさらに一歩奥の言い方だった。
家側の責任感だの、配信の都合だの、そういうものではなく。
もっと単純に、本人の感情の重さの話。
久瀬はしばらく何も言わなかった。
けれど、その沈黙そのものが肯定に近い。
「……御門さんは」
やがて彼は静かに言った。
「本当に、見たくないところまで見ますね」
「褒めてる?」
「今日は、三割くらい」
「上がったわね」
「残りは、かなり厳しいです」
「現実的って言って」
そう返すと、久瀬はほんの少しだけ、本当に少しだけ笑った。
でも、その笑いもやっぱり少し傷んでいる。
そこが朱莉には妙に引っかかった。
無理をしている人間の笑い方。
嫌いというより、放っておけない類のやつだ。
「……正直」
久瀬が珍しく、自分から言葉を足した。
「来ない方が楽な日はあります」
朱莉は黙って聞く。
「でも、来ないと余計に遠くなる気がして」
その一言で、全部がつながる。
なるほど、と朱莉は思った。
この男はもう、“学校を失いたくない”側に立っている。
だから削れていても来る。
来て、窓際のあの軽い会話へ無理やりでも混ざろうとする。
少しでも遠くならないように。
それはかなり危ない。
でも、少しだけ人間らしくて、少しだけ羨ましい執着でもあった。
◇
会話を終えて別れたあと、朱莉は一人で廊下を歩きながら考える。
久瀬湊人は、ただの観察対象ではなくなりつつある。
秘密があるのは知っている。
家側との距離も、おそらく普通ではない。
まだ全部は見えていない。
でも、今日の「来たいからです」で、その秘密が何を守ろうとしているかはかなりはっきりした。
守ろうとしているのは、学校のあの窓際の時間だ。
普通っぽくて、
少しうるさくて、
少し面倒で、
でも確かに息がしやすい、あの場所。
そこまで見えてしまうと、もう「面白いから見ている」だけでは済まない。
「……本気で好きになったのね、この生活を」
小さく呟く。
その言葉は、久瀬へ向けたものでもあり、どこか自分自身へ向けたものでもあった。
人は、守りたい生活ができた時に一番脆くなる。
そして、一番強くもなる。
今の久瀬は、その両方の入り口に立っているのだろう。
◇
夜、自室で一人になったあと、湊人はベッドに腰かけたまま長く息を吐いた。
朱莉の言葉が、まだ残っている。
かなり好きになってるわよ。
この生活。
来ないと余計に遠くなる気がして。
どれも、あまりに正確だった。
文化祭のあとから、窓際の空気は少しずつ変わった。
秘密の影が差したあとでも、完全には壊れなかった。
打ち上げに来られなかった夜も、
教室へスーツの男が来た日も、
それでもあの場所は残っていた。
だからこそ、来たいのだと思う。
あそこへ。
あの少し面倒で、でも確かに自分の呼吸が楽になる空気の中へ。
「……好きか」
独り言の形で口にしてみる。
すると、少しだけ自嘲っぽい笑いが漏れた。
学校生活そのものを、ここまで言葉にして認める日が来るとは思わなかった。
でも、朱莉に見抜かれた以上、もう自分でも誤魔化しきれないのかもしれない。
傷んだまま笑う人間を見られてしまったあとでは、ただの“擬態先”だったとは言えない。
今の自分にとって学校は、もっとずっと厄介で、もっとずっと大事な場所になってしまっているのだった。




