第52話 学校の外で削られた顔は、教室の中では隠しきれない
月曜の朝、久瀬湊人は目覚ましが鳴るより少し早く目を覚ました。
睡眠時間が足りなかったわけではない。
けれど、ちゃんと眠れた感じもしない。
土曜の午後、家側の用件。
そこで使う名前と立ち方と声。
日曜の夜にはAstraLink側の確認と、遅れてきた調整連絡。
そのどちらにも“いつもの顔”で応じたあと、部屋に一人で戻ると、今度は窓際のグループメッセージが目に入る。
金曜の打ち上げの写真。
日野の笑っている顔。
すばるの妙に楽しそうなピース。
真白の、笑っていないようで少しだけ笑っている横顔。
紬希の、やわらかく目を細めた表情。
そこに自分はいない。
それだけで、思っていたより深く削られた。
「……行きたかったな」
朝の静かな部屋で漏れた独り言は、思っていたより素直だった。
来られなかったことを後悔している。
しかもかなり本気で。
少し前の自分なら、ここまでにはならなかった。
学校の外にある事情の方が重いと、もっと上手く割り切れたはずだ。
でも今は違う。
学校へ行きたい。
あの窓際へ普通に座りたい。
その気持ちが、土曜の“向こう側の顔”をやったあとほど、逆にはっきりしてしまう。
問題は、そのしわ寄せが顔に出ることだった。
鏡を見る。
顔色はそこまで悪くない。
でも、目の奥の疲れは隠しきれていない。
輪郭が少しだけ硬い。
それを整えようとして、逆に少しだけ力が入る。
「……だめだな」
ごまかそうとするほど変になる。
それは最近、あの窓際の人たちに何度も指摘されてきたことだった。
◇
教室へ入ると、月曜らしい、少し重たい空気が流れていた。
週明け特有の眠気。
文化祭が終わって一段落したあとのゆるみ。
その中で、日野だけは相変わらず気楽な顔をしている。
「お、来た」
前の席から振り返る。
「おはよ」
「おはようございます」
返しながら、湊人は自分の声が少し低いことに気づいた。
疲れている時の声だ。
こういう小さな違いまで、今の窓際の面々は拾う。
案の定だった。
すばるが鞄を机に置いた瞬間に、こちらを見て小さく眉を寄せる。
「……あ」
その一音だけで十分嫌な予感がする。
「何でしょう」
「いや」
すばるは少しだけ迷ってから言った。
「思ったより、だいぶしんどそう」
その言葉は、変に飾っていなかった。
ただ見たままをそのまま言っている。
真白も席からこちらを見ていた。
一拍置いて、短く言う。
「ほんとに」
そこへ、紬希が教室へ入ってきた。
こちらを見た瞬間、やはり少しだけ目を丸くする。
「おはよう」
小さな声。
でも、そのあとすぐに続いた言葉が、今の状態をよく表していた。
「……大丈夫?」
やっぱり来るか、と思う。
来る。
だって、これだけ顔に出ていれば。
「大丈夫です」
反射で言ってから、自分で少しだけ後悔する。
今の“ 大丈夫 ”は、かなり信用できない音だった。
真白がすぐに切る。
「今日はそれ禁止」
「え」
「文化祭のあとより信用できない」
かなりはっきり言われてしまう。
すばるも頷いた。
「うん。今日のそれは無理がある」
日野だけが少し困ったように笑う。
「いや、まあ、たしかにいつもよりは顔に出てる」
結局、全方向から見抜かれている。
ごまかしきれない。
それがわかった瞬間、湊人は少しだけ肩の力を抜いた。
「……少し、外側が立て込んでいました」
言える範囲でそこまで言うと、窓際の空気がわずかに静まる。
“外側”。
今の彼らには、それで十分に意味がある言葉だ。
「そう」
真白が短く言う。
「じゃあ今日は、普通の顔しなくていい」
かなり優しいことを、かなりそっけない声で言う。
その言い方が、真白らしすぎて少し救われた。
「ええ」
今回は素直に頷く。
たぶんその方が、みんなも楽だ。
◇
一限目が始まっても、湊人の疲れは消えなかった。
授業自体は追えている。
内容も頭に入る。
でも、反応の一拍が遅い。
ノートを取る手も、いつもより少しだけ重い。
その一つ一つが、自分でもわかる程度には鈍っている。
そして、そういう時に限って人の視線は刺さる。
真白はたぶん、授業中でも何度かこちらを見ていた。
直接ではない。
でも、黒板へ向ける視線の途中で、横の気配を確認するような感じで。
紬希もそうだ。
もっと静かで、もっとさりげない。
でも、休み時間ごとにほんの少しだけこちらの顔色を見ている。
すばるは、逆に見すぎないようにしているのが分かる。
あえて軽口を増やして、いつもの流れへ戻そうとしている。
それぞれ違う。
違うけれど、全員が今日の自分の“削れ方”を拾ってしまっている。
教室の中でそれを隠しきれない自分が、少しだけ情けなかった。
◇
二限目のあと、短い休み時間。
久瀬が机へ肘をついて少し目を閉じていたら、真白が言った。
「寝るなら保健室」
短い。
でも、声音はそこまで厳しくない。
「寝ていません」
「寝る直前の顔」
「そこまで見えますか」
「見える」
即答だった。
「最近、そういうの全部見えすぎじゃない?」
すばるが口を挟む。
「鳴海は黙って」
「なんで」
「うるさいから」
そのやりとりに、日野が笑う。
「でもまあ、真白の言うことはたしかに当たってる」
今度は日野まで。
逃げ場がない。
紬希が少しだけためらってから言った。
「……本当にしんどいなら、先生に言った方が」
そこまで言って、少しだけ言葉を止める。
たぶん“無理しないで”を重ねるのは今の久瀬に重いかもしれないと、そこで考えたのだろう。
「ありがとうございます」
湊人は静かに返す。
「でも、そこまででは」
「それ」
真白がすぐ言う。
「またその言い方」
「でも、事実で」
「事実でも、今日のアンタが言うと信用落ちる」
かなり正しい。
湊人は少しだけ苦笑してしまう。
「厳しいですね」
「現実的」
真白が即答する。
そのやりとりに、すばるが少しだけほっとしたように笑う。
「今日、真白が真白で助かる」
「何それ」
「いや、変に優しすぎると余計しんどいじゃん」
それもたぶん、本音だった。
やさしさはありがたい。
でも、あまりにその形がはっきりしすぎると、今の湊人には少し痛い。
だから真白の“刺しながら整える”感じは、たしかに助かるのだろう。
◇
昼休み、窓際。
今日の会話は、前半こそ打ち上げの写真の延長だったが、すぐに“今日の久瀬”が中心へ寄ってしまった。
「そういえば」
日野が言う。
「金曜のあと、ほんとどうなってたんだ?」
軽い聞き方だった。
でも、湊人には少しだけ答えづらい。
「……いろいろと」
「雑」
すばるが言う。
「日野の聞き方も雑だけど、久瀬くんの返しも雑」
「すみません」
「今日は謝罪文化の日じゃない」
真白が切る。
そこで紬希が、鞄の横から小さなペットボトルを出した。
スポーツドリンク。
まだ冷えているらしく、表面に少しだけ水滴がついている。
「これ」
彼女は久瀬の方へそっと差し出した。
「え」
「今日、たぶん水分足りてない顔」
その言い方が、あまりにも静かで自然だった。
一瞬、誰も口を挟まない。
でもそれは気まずい沈黙ではなく、“ああ、そうするんだ”という理解の静けさだった。
「……ありがとうございます」
湊人は受け取る。
その指先は少し冷たい。
ボトルの冷たさのせいか、あるいは別の理由か。
「助かります」
その一言が、思っていたより素直な音で出た。
紬希は少しだけ目を見開き、それからやわらかく笑う。
「よかった」
たったそれだけのやりとりなのに、窓際の空気が少しだけ変わる。
すばるが気づいて、でも何も言わない。
真白は目を細めるが、からかいはしない。
日野だけが「それ俺にも効きそう」と適当なことを言って、空気を軽くした。
湊人は、ボトルの冷たさを掌に感じながら思う。
こういう時の紬希は、本当に静かだ。
しかも、その静かさのまま的確に寄ってくる。
弱っている側からすると、かなり危ない。
そしてたぶん、紬希自身にとっても、今の一歩はかなり大きかったのだろう。
やさしくしたのに、その返しがまたやさしくて、少しだけ顔が赤くなっている。
見ていてわかる。
かなり、進んでいる。
◇
放課後、廊下の端で御門朱莉が待っていた。
待っていた、というほど露骨ではない。
でも、資料を持ったまま壁にもたれ、誰かが通るのを見ている顔だった。
湊人が一人になったタイミングで、彼女は声をかける。
「アンタ」
「御門さん」
「今日ひどいわね」
「何がでしょう」
「消耗の仕方」
直球だった。
朱莉の視線は、文化祭の時よりずっと深い。
正体を暴きたいというより、今どれだけ削れているかを見に来たような目だ。
「……学校では隠したかったんですが」
思わずそんな本音が漏れる。
すると朱莉は小さく笑った。
「無理でしょ」
即答だった。
「アンタ、こういう時だけ変な気品も余裕も全部剥がれる」
「それは褒めているんですか」
「今日はゼロ」
容赦がない。
でもその容赦のなさが、変に楽でもある。
「で」
朱莉は続ける。
「そこまでして、今日も学校来る意味あるの?」
それは、前にもどこかでぶつけられた問いに近い。
でも今の方が、もっと具体的で、もっと痛い。
湊人は少しだけ黙った。
なぜ来たのか。
正直に言えば、休む選択肢もあった。
体調不良を理由に一日外すことは、物理的には可能だった。
でも、それをしなかった。
「……来たかったからです」
静かに言う。
朱莉は一瞬だけ、本当に一瞬だけ、目を丸くした。
そのあとで口元だけが少し動く。
「へえ」
「意外でしたか」
「そこまでストレートに言うのは」
たしかに。
最近の自分は、ここでは妙に本音がこぼれる。
「窓際?」
朱莉が聞く。
「学校全体ですか」
「そこを分けて聞くあたり、鋭いですね」
「褒めてるならもっと嬉しそうに言いなさいよ」
そう言いつつも、朱莉の視線はやわらいでいた。
「……窓際も、です」
観念してそう言うと、朱莉は小さく息を吐いた。
「そりゃ、疲れるわけね」
その一言に、湊人は少しだけ救われる。
理解されたからではない。
ただ、いまの自分の削れ方にちゃんと理由があると、他人の口から確認された気がしたからだ。
◇
その夜、自室で配信準備をしながら、湊人は今日一日のことを思い返していた。
真白の「普通の顔しなくていい」。
すばるの「思ったよりしんどそう」。
紬希の差し出したスポーツドリンク。
朱莉の「そこまでして来る意味あるの?」。
全部、違う形の言葉だ。
でも向いている先は似ている。
学校の外で削られた顔は、教室の中では隠しきれない。
そして今の自分は、その“隠しきれなさ”を、あの窓際の人たちにかなり支えられている。
支えられている。
そう認めてしまうと、また守りたいものが増える。
「……ほんとに、面倒だ」
独り言は小さく落ちる。
でも、その面倒さを今さら嫌いにもなれなかった。




