第51話 いない日に届く短い言葉は、来なかった事実より少しだけ痛い
打ち上げの翌朝、教室の空気は少しだけ不思議だった。
文化祭という大きな山を越え、
その打ち上げという“ちゃんと終わった感”まで一応は済ませて、
普通なら今日は、もっとすっきりしていていいはずだった。
実際、クラス全体で見ればそんな感じではある。
少し眠そうで、少しだるそうで、でもどこか満足げ。
昨日の写真を見せ合う声。
誰が食べすぎたとか、誰が最後までうるさかったとか、そういう軽い笑い。
けれど窓際の一角だけは、そこにもう一枚薄い感情の膜がかかっていた。
理由はたぶん、昨夜の短いメッセージだ。
『行けず、すみませんでした。本当に残念でした』
たったそれだけ。
でも、その短さが妙に残る。
来なかった。
その事実はもうどうしようもない。
なのに、来なかったことそのものより、そのあとで届いた短い言葉の方が、みんなの胸に少し深く刺さっていた。
◇
鳴海すばるは、自分が昨夜あのメッセージを三回は読み返したことを、誰にも言うつもりはなかった。
一回目は、普通に読む。
二回目は、“本当に残念でした”のところで止まる。
三回目は、その文の順番が嫌に久瀬っぽいと思ってしまって、そこでまた少しだけ胸がざわつく。
来たくなかったんじゃない。
言い訳したいんでもない。
まず事実を置いて、謝って、そのあとに本音が来る。
しかもその本音が、“行きたかったです”ではなく“残念でした”なのが、余計に重い。
自分の感情を相手に押しつけすぎない言い方だ。
でも、十分に本音だともわかる。
「……そういうとこなんだよなあ」
朝、自席に座ってスマホの画面を見ながら、すばるは小さく呟いた。
「なにが」
真横から真白の声。
「うわっ」
「驚きすぎ」
真白は呆れた顔でこちらを見る。
「朝からまた何回も見てるの?」
「別に回数までは」
「見てるんだ」
すばるは観念したようにスマホを伏せた。
「……見てる」
「でしょうね」
そこまでは真白も予想通りらしい。
「真白も?」
逆に聞くと、真白は一瞬だけ沈黙した。
「何が」
「昨日のメッセージ」
「見た」
「何回?」
「二回」
即答だった。
「数えてるんだ」
「アンタほどじゃない」
その返しに、すばるは少しだけ笑ってしまう。
やっぱりみんな引っかかっているのだ。
あの短い文に。
あの、来なかった事実のあとに届いた、静かで本気な残念さに。
◇
倉科紬希もまた、家を出る前にそのメッセージを見返していた。
返したのは昨夜のうちだ。
『お疲れさま。無理しないで』
それしか言えなかったし、それでよかったとも思う。
でも、よかったはずなのに、朝になっても気持ちは少しだけ残っていた。
来なかったことは悲しい。
でも、悲しさそのものよりも、“本当に来たかったんだ”と伝わってしまったことの方が、今は重い。
来たくないなら、もう少し楽だった。
来られなかった、で終われるから。
でも、来たいのに来られなかったのだとわかると、こちらの気持ちの置き場所もまた少し変わる。
責められない。
でも寂しい。
寂しいけど、それをそのままぶつけるのは違う。
だから、やさしく返すしかない。
そのやさしさのやり取りが、余計に胸へ残るのかもしれない。
◇
教室へ入ると、日野が前の席から「おはよー」といつものように手を上げた。
ああ、日野は今日も日野だ、と紬希は少しだけ安心する。
こういう時、一人だけきれいに平常運転の人がいると助かる。
「おはよう」
小さく返す。
すばるはすでに来ていて、真白と何か話していた。
昨日のメッセージのことだろうか。
でも、重い顔だけはしていない。
たぶん、今日の窓際は全員が“重くしすぎない”を選んでいる。
それはたぶん、久瀬が今日も来るからだ。
来るかもしれない。
その前提があるだけで、完全に沈んではいられない。
そして、その“今日も来る”ことへ、また少しだけ期待してしまっている自分がいる。
「おはよう」
すばるが手を振る。
「おはよう」
「……昨日の件」
小さくそう言ってから、すばるは少しだけ唇を噛んだ。
「やっぱ刺さるね」
紬希は少しだけ頷く。
「うん」
「だよね」
真白は何も言わなかったが、否定もしなかった。
その沈黙も、かなりわかりやすい。
◇
久瀬湊人が教室へ入ってきたのは、始業の十分前だった。
扉が開く。
いつもの「おはようございます」が聞こえる。
でも今日の窓際の四人は、その一言を聞いた瞬間に、いつもよりほんの少しだけ静かになった。
理由は簡単だ。
昨夜のメッセージを書いた本人が、今そこに来たからだ。
来られなかった人。
でも来たかった人。
その“あと”の顔を、みんな少しだけ見たいような、見るのが怖いような気持ちで待っていた。
そして、見た瞬間にわかる。
疲れている。
ただ眠そうなのとは少し違う。
顔色が悪いわけでもない。
でも、肩の力の抜け方が妙に深い。
ちゃんと立っていて、ちゃんと挨拶をして、ちゃんと学校へ来ているのに、どこかで一段ぶん削られた感じがある。
「……うわ」
思わず、すばるが小さく漏らす。
「なに」
真白が聞く。
「いや」
でも、その“いや”のあとに続く言葉を、すばるは飲み込んだ。
たぶん“思ったよりしんどそう”と言いたかったのだろう。
紬希にも同じことがわかる。
昨日は来られなかっただけではなく、そのあともたぶんかなり無理をしていたのだ。
だから今、こうして学校へ来ているだけで少し痛々しい。
「おはようございます」
久瀬がもう一度、窓際の方へ向けて言う。
「おはよ」
日野が一番先に返す。
「おはよう」
すばるも続く。
「おはようございます」
紬希が小さく言う。
真白は一瞬だけこちらを見て、それから静かに言った。
「おはよう」
その一言の中に、たぶん四人分の“来たんだ”が混ざっていた。
◇
席についた久瀬は、やはりどこか静かだった。
いつもも静かだが、今日は種類が違う。
余計な動きが少ない。
言葉の返りが一拍だけ遅い。
そして何より、無理に“いつも通り”へ寄せようとしているのが見える。
それがまた、すばるには少ししんどかった。
昨夜の短いメッセージのあとで、今日そんな顔で教室へ来るのは反則だ。
来たかったのが本当だったことも、
来られなかったあとにちゃんと消耗していることも、
全部まとめて見せられてしまうから。
「……ねえ」
すばるが小さく言う。
「なに」
真白が聞く。
「これ、思ってたよりだいぶ本気で来たかったやつじゃない?」
真白は少しだけ目を細める。
「昨日の文の時点でだいぶそうだった」
「いやでも、今日の顔で確定した」
そこまで言ってから、すばるはしまったと思う。
本人の前で話すことではない。
だが、久瀬はその会話を聞こえないふりで流した。
流した、ように見えて、たぶん完全には流せていない。
それもまた見えてしまう。
紬希はその様子を静かに見ていた。
やっぱり、昨日のメッセージだけでは終わらない。
“来たかった”が本当だったと、今日の顔がさらに上書きしてくる。
◇
三限目のあと、短い休み時間。
真白がついに、本人へ向けて言った。
「今日」
久瀬が顔を上げる。
「はい」
「もう普通の顔やめて」
かなりまっすぐだった。
久瀬は一瞬だけ本気で驚いた顔をした。
「え」
「文化祭明けの疲れとか、そういうことにしとけばいいから」
真白は淡々としている。
でも、言っている内容はかなり優しい。
「無理に整えようとしてる顔の方が、見てて疲れる」
その一言に、久瀬は数秒だけ何も言えなかった。
すばるは、その言い方に少しだけ救われる。
自分だとこういう時、どうしても軽くしすぎるか、逆に踏み込みすぎるかのどちらかになる。
でも真白は、ちゃんと“見えている”を伝えつつ、逃げ道も作る。
「……わかりました」
久瀬がようやく言う。
「ほんとに?」
「努力しま」
「それは禁止」
真白が即座に切る。
そこで、少しだけ笑いが起きた。
薄い。
かなり薄い笑いだ。
でも、その薄さが今はありがたかった。
日常へ戻りきれない日でも、こういう少しの笑いでなんとか立てる。
◇
昼休み、窓際の会話はやはり前より少し慎重だった。
けれど、重いまま沈むこともなかった。
たぶん全員、昨日のメッセージと今日の疲れた顔を見てしまったことで、“責める側”へは行けなくなっているのだ。
「昨日の打ち上げ、料理は普通にうまかった」
日野が言う。
「そこだけ聞くとただの飯レポ」
すばるが笑う。
「でもわかる」
真白が言う。
「変に気取ってない店でよかった」
「ほら」
すばるが言う。
「久瀬くんの“近さ重視”正解だった」
その言葉に、久瀬は少しだけ困ったように目を伏せた。
「そう言われると、余計に申し訳ないですね」
「そこ」
真白がすぐに言う。
「またその言い方」
「でも」
「でもじゃない」
そこへ紬希が、静かに重ねた。
「……残念だったのは、もう伝わってるから」
窓際が少しだけ静まる。
かなりまっすぐな言葉だった。
でも責めてはいない。
ただ、“もうそこはわかってる”と伝えている。
久瀬は、その一言に本当に少しだけ救われたような顔をした。
それを見て、紬希はまた胸が少し痛くなる。
やっぱりこの人は、そういう顔をするとずるい。
「だから」
すばるも続ける。
「昨日のメッセージ、あれで十分だったよ」
「え」
「いや、十分っていうか、十分すぎた」
すばるは苦笑する。
「重かったもん」
「重かった」
真白も短く言う。
日野だけが「そんなに?」と笑ったが、その笑いもどこかやわらかい。
「……そうですか」
久瀬が小さく言う。
「はい」
紬希が頷く。
「かなり」
その“かなり”に、すばるが深く頷いた。
いない日に届く短い言葉は、来なかった事実より少しだけ痛い。
その痛さを、今この窓際の全員がわかっている。
◇
放課後、教室が少しずつ散っていく中で、すばるはふと思う。
もし昨日の夜、久瀬が何も送ってこなかったら。
たぶんもっと簡単だった。
来なかった、で終わるから。
少しムカついて、少し残念で、それで終われた。
でも、あの短いメッセージが来た。
そして今日、ちゃんと疲れた顔で学校にも来た。
それで終わりにできるわけがない。
「……ほんと、ずるいな」
小さく呟くと、真白が横から聞いた。
「なにが」
「全部」
「雑」
「でも本音」
真白は少しだけ肩をすくめた。
「わかる」
短い。
でも、その短さがちょうどよかった。
紬希は少し離れた場所で鞄を持ちながら、そんな二人のやりとりを見ていた。
やっぱり、この窓際は前より少しだけ深い。
いない日の一通で、ここまで揺れてしまうくらいには。
そしてその深さの中心にいるのが、今は少しだけ疲れ切った久瀬湊人なのだと思うと、もう“ただの気になる人”では済まない気がした。




