第50話 打ち上げの席にいない人のことを、みんな少しずつ考えてしまう
文化祭の打ち上げだというのに、最初の乾杯の前から少しだけ欠けている感じがした。
それが誰なのかは、そこにいる四人とも、ちゃんと分かっていた。
◇
店は駅前の、よくある学生向けの居酒屋だった。
明るすぎない照明。
木目調のテーブル。
少し狭めの通路。
制服のまま集まった高校生たちの声で、入口のあたりからすでにわちゃわちゃしている。
文化祭が終わった週の金曜夕方。
どのクラスも似たようなものなのだろう。
同じ学校らしい顔が何組もいて、店員が慣れた様子で席へ案内していく。
「うわ、思ったよりちゃんと打ち上げっぽい」
鳴海すばるがそう言った時には、もう半分くらいテンションが上がっていた。
こういう場の空気を吸うだけで少し浮かれるタイプだ。
「打ち上げっぽいって何」
柊坂真白が呆れたように言う。
「打ち上げなんだから打ち上げっぽいでしょ」
「いや、なんかもっとファミレスっぽいの想像してた」
「それはアンタが安さ重視すぎるだけ」
真白が即座に刺す。
「え、でも学生の味方じゃん」
「うるさい」
そのやりとりを、日野が笑いながら聞いている。
倉科紬希は席へ座って、配られたメニューを開きながら小さく息をついた。
落ち着かないわけではない。
でも、落ち着いているとも言えない。
四人で同じテーブル。
周囲にはクラスの他の面々。
文化祭が終わったあとの、ちょっとした非日常。
本来なら、もう少し素直に楽しいだけでよかったはずだ。
でも今日は、そこへ一つだけ目に見えない空席がある。
「……来ないんだね」
思わず、かなり小さく漏れた。
たぶん誰にも聞こえないつもりだった。
「ん?」
しかし、すばるの耳はそういう時だけ妙によかった。
「何か言った?」
「……ううん」
紬希は首を振った。
だがその曖昧さだけで、十分だったのだろう。
「まあ」
日野が言う。
「厳しいって言ってたしな」
その軽さがありがたい。
“来ない”を必要以上にドラマにしないでくれるから。
でも、その軽さの奥で、やはり少しだけ残念そうなのも分かる。
真白はメニューを閉じて、短く言った。
「わかってた」
その言い方はそっけない。
でも、完全に平気な人の音でもなかった。
すばるはスマホを見た。
「まだ連絡ない?」
その一言で、四人の意識が自然と同じ方向へ寄る。
グループメッセージ。
そこに、久瀬湊人からの“来られそう”“だめそう”の最後の連絡が来るかもしれないと思って、みんな少しだけ待っている。
「まだ」
真白が言った。
「そう」
すばるはそう返したが、その顔は思っていたよりずっと静かだった。
文化祭の非常階段のことも、
そのあとの窓際の会話も、
全部なかったことにはなっていない。
それでも、今ここでそれを大きく持ち出さないのは、たぶん全員が同じくらい“壊したくない”と思っているからだろう。
◇
結局、乾杯の前まで久瀬からの連絡はなかった。
クラスの人数が揃い、級長が「じゃあ、とりあえず文化祭お疲れ!」と声を上げる。
店の中にグラスの音が一斉に鳴る。
周囲はにぎやかだ。
笑い声も大きい。
文化祭の裏話、写真の見せ合い、誰がどこで失敗したとか、どのクラスの出し物がすごかったとか。
そういう会話が飛び交っている。
たしかに楽しい。
楽しいはずなのに、窓際の四人だけは時々ほんの少しだけ会話の速度が落ちる。
「でさ」
すばるが唐揚げをつまみながら言う。
「文化祭の時の写真、日野のやつほんと全部同じ顔だったんだけど」
「まだ言う?」
日野が笑う。
「いや、何回見ても面白いって」
「鳴海、失礼」
真白が言う。
「でもわかる」
紬希が小さく笑う。
そこまでは普通だ。
けれど、次の瞬間に会話が少しだけ空く。
もし久瀬がいたら。
ここでたぶん一言、変にきれいな返しをして、
すばるに「そこだよそこ!」とつっこまれて、
真白に「そういうとこ」と呆れられて、
日野が笑って、
紬希も少しだけやわらかくなる。
そういう流れが、自然と想像されてしまう。
「……なんか」
すばるがぽつりと言った。
「一人いないだけで、わりと変わるね」
誰もすぐには返さなかった。
でも、その沈黙自体が答えだった。
「まあ」
日野が少しだけ肩をすくめる。
「最近、あの辺の会話のまとめ役みたいになってたし」
「まとめ役っていうか」
真白が言う。
「散らかる前に勝手に拾う係」
「それ」
すばるが言う。
「それなんだよな」
そこへ紬希も静かに重ねる。
「いないと、ちょっとだけ空気が散る」
自分で言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。
でも、本当にそうだった。
別に中心人物ではない。
自分から目立つわけでもない。
なのに、いないと少しだけ流れが変わる。
そういう存在になってしまっている。
そして、その不在を自分たちがここまで意識していることも、もう否定できない。
◇
打ち上げが始まって三十分ほど経った頃、ようやくスマホが震えた。
四人とも、ほとんど同時に自分の画面を見る。
クラスのグループメッセージ。
そこには、久瀬からの短い文があった。
『行けず、すみませんでした。本当に残念でした』
たったそれだけ。
装飾もない。
言い訳もない。
でも、その短い二文が、思っていたよりずっと重かった。
「……うわ」
最初に声を漏らしたのは、すばるだった。
「それは、だめ」
「何が」
日野が聞く。
「いや、なんか」
すばるはスマホを見たまま顔をしかめる。
「来たくなかったんじゃなくて、ほんとに来たかったやつじゃん」
かなり正確だった。
真白は画面を見つめたまま、何も言わなかった。
でも、その沈黙がいつもより長い。
たぶん彼女の中では、文化祭の時に聞いた「行きたいんです」が、今また強く結びついているのだろう。
紬希は、その二文を何度も読み返してしまう。
行けず。
すみませんでした。
本当に残念でした。
その順番が、この人らしいと思った。
まず事実を置いて、
次に謝って、
最後に本音を置く。
しかもその本音が、“残念でした”なのが余計につらい。
来たかった。
普通にここへ混ざりたかった。
その気持ちだけは、嘘ではないのだと、これ以上なく静かに伝わってくる。
「……そういうとこ」
真白がようやく小さく言った。
声音は低い。
でも怒っているわけではない。
「何」
すばるが聞く。
「腹立つ」
短く言い切る。
「でも、わかる」
その続きがまた、真白らしかった。
腹立つ。
でも、来たかったのは本当なんだとわかる。
そのせいで、素直に切れない。
たぶん今の真白はそういうところにいる。
すばるはスマホを胸の前で持ったまま言う。
「これ、返信どうする?」
言葉は軽い。
でも、かなり本気で迷っているのが分かる。
“仕方ないよ”と返すのも違う気がする。
“残念”とそのまま返すのも重い。
“また今度”はたぶん正しいけど、今この瞬間には少し足りない。
結局、一番先に口を開いたのは紬希だった。
「……お疲れさま、でいいんじゃないかな」
三人がこちらを見る。
「責めたいわけじゃないし」
紬希は少しだけ視線を落としながら言う。
「たぶん、向こうも今すごく疲れてると思う」
その想像は、かなり正しい気がした。
真白も小さく頷く。
「うん」
「じゃあ」
日野が言う。
「それでいくか」
すばるは少しだけ迷ってから、グループに短く打ち込む。
『了解。お疲れさま! また今度ちゃんと来て』
その文面を見て、真白が「鳴海っぽい」と言い、日野が「だいぶ丸いな」と笑い、紬希は少しだけ安心した。
強すぎず、軽すぎず。
たぶん、それでよかった。
少し遅れて、日野がスタンプを送る。
真白は短く、**『了解』だけ。
紬希は迷った末、『お疲れさま。無理しないで』**と打った。
その送信ボタンを押した瞬間、胸の奥が少しだけ苦しくなる。
来てほしかった。
でも今は、来られなかったことを責めるより、無事に終わっていてほしいと思ってしまう。
それがたぶん、かなり深いところまで来ているということなのだろう。
◇
打ち上げ自体は、そこからも普通に続いた。
料理はちゃんとおいしくて、
クラスメイトたちはちゃんと騒がしくて、
文化祭の写真を見せ合ってまた笑い、
別テーブルからも「それやばかったよな」とか「先生の顔見た?」みたいな声が飛んでくる。
たしかに楽しい。
十分に楽しい。
でも、その楽しさの端に、ずっと小さな不在感が残る。
すばるは途中で二回ほど、「これ久瀬くんいたら変にうまい返ししてたな」と思った。
真白は、文化祭の裏話が出るたびに“あいつならこう整理してたかも”と感じた。
紬希は、飲み物を追加する時とか、誰かが少し静かになった時とかに、“あの人ならたぶん先に気づいた”と思ってしまった。
日野だけは最後まで比較的平常運転だったが、それでも一度だけ「今度は全員で来たいな」とぽろっと漏らした。
その一言に、誰もすぐには返せなかった。
全員で来たい。
たぶん、それが一番本音に近い。
◇
店を出た頃には、夜の空気が少しだけ冷えていた。
駅前のネオン。
笑いながら帰っていくクラスメイトたち。
誰かが撮った集合写真の確認。
そんな“打ち上げの帰り道”の景色の中で、窓際の四人は少しだけゆっくり歩いていた。
「なんか」
すばるが言う。
「結局、いないのに話題に出す回数多くなかった?」
「多かった」
日野が即答する。
「そりゃそうでしょ」
真白が言う。
「いたら自然にそこにいたはずなんだから」
その言い方は、かなり認めている。
紬希は少しだけ笑ってから、小さく言った。
「いないのに、ちゃんといた感じ」
その表現に、すばるが「あー」と深く頷く。
「それだ」
日野も「なんかわかる」と言う。
いないのに、ちゃんといた感じ。
それはつまり、久瀬湊人がもう、自分たちの学校の時間の中でそれなりに大きな場所を占めているということだ。
少し前なら、ここまでにはならなかった。
文化祭の準備も、非常階段の数秒も、窓際の積み重ねも、全部があって初めてこうなったのだろう。
「……次は」
すばるが言う。
「ほんとに来てほしいな」
その一言に、真白も紬希も何も返さなかった。
でも返さないこと自体が、ほとんど肯定みたいなものだった。
◇
同じ頃、久瀬湊人は家側の車の後部座席で、一人スマホを見下ろしていた。
打ち上げの時間は、とうに始まっている。
もう店に着いていてもおかしくない頃だ。
送ったのは短いメッセージだけ。
それ以上書けば、余計な言い訳になりそうだった。
でも、短すぎても気持ちが足りない気がして、最後に“本当に残念でした”だけを付けた。
それに対する返信が、今は画面に並んでいる。
『了解。お疲れさま! また今度ちゃんと来て』
スタンプ
『了解』
『お疲れさま。無理しないで』
読みながら、胸の奥が静かに痛んだ。
責められてはいない。
でも、それが逆につらい。
来られなかったことを、
誰も大げさに責めない。
それどころか、待っていてくれて、労ってくれる。
そのやさしさが、今は少しだけ重い。
「……すみません」
誰もいない後部座席で、小さく呟く。
そして同時に思う。
次は、行きたい。
ちゃんと。
本当に。
打ち上げの席にいない人のことを、みんな少しずつ考えてしまう。
それはたぶん、自分が思っていたよりずっと深く、あの窓際の中へ入り込んでしまっている証拠だった。




