第49話 ツンデレは、見送る時だけ一番やさしい顔をする
教室のざわめきが、ゆっくりと帰り支度の音へ変わっていく。
椅子を引く音。
机の中へ教科書を戻す音。
廊下から聞こえる、別クラスの「じゃあ駅で」みたいな軽い声。
その全部が、今日という金曜の放課後を“楽しみな側”へ進めていた。
なのに、窓際の一角だけは、そこへ乗りきれずに少しだけ止まっている。
久瀬湊人のスマホに入った新しい通知。
相馬からの短い文面。
車を手配済み。学校から直接移動願います。
ほとんど、決定打みたいなものだった。
まだ「絶対に無理です」と口にしたわけではない。
でも、ここまで来るともう、希望の形を保つのも難しい。
さっきまでの「待っていてください」が、少しずつ現実に押し負けていく音がする。
柊坂真白は、その気配を正確に感じ取っていた。
感じ取ってしまう自分が、最近は少し腹立たしい。
前なら、もっと単純に苛立てた。
また何かあるんだ。
また急にいなくなるんだ。
だったら最初から期待させないで。
そういう直線的な感情だけで済んだはずなのに。
でも今は違う。
久瀬が来たがっていることも、
来られない時に一番困った顔をすることも、
それでもちゃんと窓際のこの空気を大事にしたがっていることも、
もう知ってしまっている。
知ってしまったあとでは、怒るだけでは済まない。
怒るより先に、見送る方を選んでしまう。
それが、かなり面倒だった。
◇
「……かなり」
スマホを見たあと、久瀬がそう言った声は、思っていたより静かだった。
静かというより、少しだけ諦めに近い。
「そっか」
すばるが言う。
紬希の声も小さく続く。
「……そっか」
二人とも、たぶん本気で落ち込んでいる。
でも、それを大きく表へ出さないようにしている。
日野だけが頭をかいて、「うーん」と唸った。
「それ、かなり無理寄り?」
軽く聞こうとして、でも軽くなりきらない声。
久瀬は数秒だけ画面を見たまま、やがて頷いた。
「……はい」
短い。
たった一文字みたいな返事。
なのに、その短さだけで十分すぎるほど伝わる。
無理だ。
かなり。
今日の打ち上げは。
真白は、そこで不思議なくらい怒りが出てこなかった。
腹は立つ。
もちろん立つ。
でも、その相手は久瀬本人ではない。
たぶん“学校の外の何か”だ。
名前も形もまだはっきりは見えないが、その何かがこの人を校門の外へ持っていくのだということだけは、もう十分に分かっている。
「……何時」
真白は聞く。
久瀬が少しだけ顔を上げる。
「え」
「行くの」
必要最低限の言葉だけでいい。
今、必要なのはそこだ。
「……すぐに」
「そう」
真白は小さく頷く。
それだけで、たぶん十分だった。
何時に行くのか。
今すぐなのか。
それさえ分かれば、待つ側も線を引ける。
「柊坂さん」
久瀬が少しだけ言い淀む。
「はい」
「その」
言葉が続かない。
こういう時、この人は本当に下手だと真白は思う。
器用に整えているようでいて、痛いところでは急に不器用になる。
「ごめんなさい」
やっぱりそれか、と真白は思った。
「だから」
思っていたより低い声が出た。
「それ、今はいらない」
久瀬が目を丸くする。
すばるも、紬希も、少しだけ息を止めた気配がする。
「謝ってほしいわけじゃない」
真白は続けた。
「来たくないなら来たくないで、別にそこまで気にしない」
「……」
「でも」
そこで少しだけ言葉を切る。
喉の奥にひっかかるものがある。
でも今日は、それを飲み込まずに出す方を選ぶ。
「アンタ、来たいんでしょ」
まっすぐ言う。
久瀬は数秒、何も言わなかった。
でも、その沈黙自体が答えだった。
「……はい」
ようやく出た声は、とても小さい。
でも、十分だ。
「かなり」
そこまで言われると、真白の胸の奥が少しだけ痛くなる。
やっぱりそうだ。
来たくないわけじゃない。
むしろかなり来たいのだ。
だからこんな顔をしている。
それが分かってしまうと、怒り方が分からなくなる。
代わりに出てくるのは、別の言葉だ。
「じゃあ」
真白はできるだけ平らな声で言う。
「ちゃんと行ってきなさい」
教室の空気が、そこで少しだけ止まる。
自分でも思う。
これはたぶん、かなりやさしい言い方だ。
普段の自分なら、こんなふうに送り出したりしない。
「え」
久瀬が少しだけ呆けた顔をする。
「何その顔」
真白が言う。
「今さら」
「いえ、その」
「来られないなら来られないで、もう仕方ないでしょ」
そこまで言ってから、少しだけ声を落とす。
「でも、中途半端な顔のまま行かれる方が困る」
それはかなり本音だった。
どうせ行くなら、ちゃんと行け。
来たい気持ちをこっちへ置いたまま、謝りながら半端に遠くなるな。
そういう意味。
すばるが少しだけ目を伏せて笑った。
「真白、そういう時だけほんとに」
「何」
「いや、なんでも」
たぶん“やさしい”とか言いたかったのだろう。
でも今それを口にすると、空気が変わりすぎるからやめたらしい。
紬希は小さく頷いていた。
彼女もたぶん、今の真白の言い方に救われている。
ただ悲しいだけじゃなく、“ちゃんと送り出す”形を誰かが先に作ってくれたから。
日野がようやく軽く笑った。
「じゃあまあ、今日は仕方ない日だな」
その軽さがありがたい。
◇
久瀬はまだ立ったまま、少しだけ困った顔をしている。
その表情を見ると、真白はまた少しだけ腹が立つ。
やさしくしたいわけじゃないのに、そういう顔をされるとこっちが負けたみたいになるからだ。
「まだ何かあるの」
真白が言う。
「え」
「行くなら行く」
「……はい」
「帰るなら帰る」
「はい」
「その場で困った顔し続けるの、やめて」
かなり正直な物言いだった。
久瀬はほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「……そうですね」
「うん」
「では」
そこで彼は一度だけ、四人の顔を順に見た。
日野、すばる、紬希、そして最後に真白。
「本当に、すみません」
またそれを言うのか、と真白は思ったが、今回はさっきとは少し違っていた。
謝罪というより、気持ちの置き場所がそこしかない人の声だ。
「だから」
真白が言う。
「そこはもういい」
少しだけ間を置く。
そして、かなり勇気のいることを言った。
「でも、終わったら連絡」
教室の空気が、今度は本当に止まった。
言ってから、自分でも少しだけ驚く。
そこまで言うつもりはなかったのに。
久瀬も明らかに驚いていた。
「連絡、ですか」
「嫌ならいい」
反射でそう付け足してしまうあたり、自分でもかなりダサいと思う。
「でも」
そこから先は少しだけ声が小さくなる。
「無事に終わったかくらいは、知りたい」
かなり本音だった。
来なかったことを責めたいんじゃない。
ただ、この人が学校の外の何かへ引っ張られていくのを見送ったあと、ちゃんと帰ってきたかくらいは知りたい。
その感情に名前をつけるのは、まだ少し早い気がする。
でも、少なくとも“どうでもいい”の場所からはとっくに外れている。
久瀬は、しばらく本当に何も言わなかった。
それから、ほんの少しだけやわらかい顔になる。
「……わかりました」
静かな返事。
「終わったら、連絡します」
それだけで、真白の胸の奥が少しだけあたたかくなるのを感じる。
同時に、やっぱり自分は面倒だなとも思う。
すばるがにやにやする寸前の顔になったが、今日はそれを表へ出さなかった。
紬希は小さく、でもたしかにほっとした顔をしている。
日野だけが「じゃあ俺にも結果だけ流して」と軽く言って、空気を少しだけ崩した。
「日野、それはいらない」
真白が即座に言う。
「え、なんで」
「なんでも」
「理不尽」
笑いが小さく起きる。
その笑いが、最後の救いみたいだった。
◇
久瀬が教室を出ていく背中を、真白は黙って見送った。
廊下の向こうへ消えていく。
その後ろ姿は、来たくなかった人のそれではない。
置いていきたくないものがある人の背中だ。
だから余計に、少しだけ寂しい。
でもその寂しさは、前みたいに苛立ちだけでは片づけられない。
「……ほんとに行っちゃった」
すばるがぽつりと言う。
「そりゃ行くでしょ」
真白が返す。
「でも、来てほしかった」
「知ってる」
その会話を聞きながら、紬希が静かに言った。
「連絡、来るかな」
真白はその一言に少しだけ驚く。
自分だけがそう思っているわけじゃなかったのだと、その時わかる。
「来るでしょ」
真白は言う。
「来るって言ったし」
その言い方は、たぶん自分にも向けたものだった。
信じる。
待つ。
そういうことを、最近の自分は前より少しだけ選び始めている。
待つのは得意じゃない。
でも、今はそうするしかない。
そしてその“しかない”を、前ほど嫌だとは思わなくなっている。
◇
帰り道、一人で歩きながら、真白は何度も自分の言葉を思い出していた。
ちゃんと行ってきなさい。
終わったら連絡。
どちらも、かなり自分らしくない。
でも、今の自分にとってはかなり本音でもある。
来られないなら仕方ない。
でも、来たかった気持ちまで無視するのは違う。
そして、見送ったなら見送ったで、そのあとを少しだけ待ってしまう。
ツンデレは、たぶんこういう時にいちばん面倒だ。
素直に「寂しい」とも言えず、
「行かないで」とも言えず、
でも、見送る時だけ一番やさしい顔をしてしまう。
「……最悪」
小さく呟く。
でも、その言葉の響きは前より少しだけやわらかかった。
見送る時だけ一番やさしい。
それはたぶん、もうかなり好きな側の人間の振る舞いなのかもしれなかった。




