第47話 金曜の放課後は、来たい人ほど追い詰められる
金曜日の朝は、少しだけ世界が軽い。
そう思っていた時期が、たしかに久瀬湊人にもあった。
週末が近いというだけで、教室の空気は緩む。
授業もどこか浮つく。
放課後の予定がある日ならなおさらで、人は朝から少しだけ明るい顔をする。
普通の高校生なら、たぶん今日はそういう日だ。
文化祭打ち上げの日。
夕方十八時集合。
店も決まり、人数もほぼ固まり、クラスのグループには昨夜のうちから「楽しみ」「何頼む?」みたいな軽いやりとりが続いていた。
そして、久瀬湊人も本当なら、そういう軽さの側にいたかった。
行けるなら行きたい、ではない。
もうかなり本気で、普通に行きたいと思っている。
日野の気楽な笑いの中に混ざって、
すばるの大げさなテンションに少し呆れて、
真白の刺すような言い方にいつも通り返して、
紬希の静かな笑いを近くで見ながら、
文化祭のあとを普通に締めくくる。
そういう金曜の放課後へ、今日はちゃんと行きたかった。
でも、朝の時点でスマホの画面には、別の金曜も並んでいる。
家側管理室。
AstraLinkマネージャー。
どちらもまだ“確定ではない”という顔で、しかし確実にこちらの時間へ食い込んでくる通知ばかりだ。
金曜夜、予備待機の可能性。
家側から追加確認が入る場合あり。
夕方以降の移動を空けておいてほしい。
こういう時の“可能性”が、どれだけ厄介かは嫌というほど知っている。
確定ではないから先に断言もできず、
でも軽く考えていると、あとで一気に崩れる。
「……最悪だな」
家を出る前、玄関で靴を履きながら小さく呟いた。
金曜の軽さは、湊人のところには最初からほとんど届いていなかった。
◇
教室へ入ると、案の定、空気は少し浮いていた。
日野が前の席から振り向く。
「おはよー。今日だな」
「おはようございます」
「その返し、まるでイベント当日感ないけど」
すばるが笑いながら入ってくる。
「いやでも、今日こそほんとに集合だよ? 文化祭、完全完結編だよ?」
「言い方が大げさ」
真白が即座に切る。
「でもまあ、今日なのは事実」
紬希も小さく頷く。
その一言一言が、やっぱり胸へ残る。
みんな、今日を楽しみにしている。
そしてたぶん、その中には自分が来る前提も少しずつ入っている。
ありがたい。
でも、そのありがたさが今日はほとんどそのまま圧になる。
「久瀬くん」
すばるがこちらを見る。
「はい」
「今日はさすがに、行ける寄り?」
聞き方はかなりやわらかい。
前みたいに勢いで踏み込まない。
でも、それが逆に重い。
湊人は少しだけ言葉を選ぶ。
「……現時点では」
「現時点では、かあ」
すばるの笑いが少しだけ引く。
日野も「あー」と小さく声を漏らした。
真白は何も言わない。
その代わり、視線だけがかなりまっすぐだった。
紬希はほんの少しだけ目を伏せる。
空気が静まりかけたところで、湊人は慌てて続ける。
「行くつもりは、あります」
それは本当だ。
そこだけは、本当に嘘ではない。
「うん」
真白が短く言った。
「そこは知ってる」
その一言が、少しだけ救いになる。
でも同時に、余計に胸が苦しくもなる。
知っている。
この人たちは、もう“来たい気持ちは本物”だと受け取ってくれている。
だからこそ、来られなかった時の重さも増す。
◇
午前の授業は、ほとんど上の空だった。
完全に集中できていないわけではない。
ノートも取る。板書も追う。先生の声も聞こえている。
でも、その全部の裏で別の計算が回り続けていた。
十八時集合。
学校を出る時刻。
店までの移動。
家側から連絡が来た場合の対応。
AstraLink側の予備待機が本当に発生したら、どの時点で抜けるべきか。
最悪、最初から不参加の判断をするなら何時までに伝えるべきか。
その“最悪”を何度も頭の中で計算している時点で、今日が軽く済むはずがない。
二限目の終わり頃、スマホがポケットの中で短く震えた。
授業中だから見ない。
見ない方がいい。
でも、震えたという事実だけで心臓が冷たくなる。
そのあと、三限目と四限目のあいだの短い休み時間。
教室がざわつき始めたのを確認して、湊人はそっと画面を見る。
相馬:本日、十七時半以降に移動可能な状態で待機願います。
その下に、さらにもう一件。
AstraLink管理:大型企画側、トラブルのため夕方の確認が前倒しになる可能性。追って連絡。
「……やめてくれ」
声には出さなかったつもりだった。
でも、真横の真白には聞こえたらしい。
「何」
短く聞かれる。
「いえ」
反射で返してから、すぐに後悔する。
真白は小さく息を吐いた。
「今日、それほんとにだめ」
「……すみません」
「それも」
容赦ない。
でも、今はその容赦なさがむしろ助かる。
すばるが前から振り返る。
「また何か来た?」
日野も「まずそう?」と聞く。
紬希は何も言わないが、こっちを見ている。
ここまで来ると、もう“何もありません”の顔はできない。
「……少し」
湊人は慎重に言う。
「放課後が、厳しくなる可能性が上がりました」
その一言で、教室のこの列だけが少し静かになった。
「そっか」
日野が最初に言う。
「まだ確定では?」
紬希の問いはやわらかい。
「ええ」
湊人は頷く。
「まだ」
「その“まだ”が一番怖いんだよなあ」
すばるが苦く笑う。
かなり本音だろう。
真白は、そんな二人の言葉を聞いてから、低く言った。
「今日、来たい?」
その問いは、まっすぐすぎて少し痛い。
でも、逃げずに答えるしかない。
「……はい」
短く返す。
「かなり」
そこまで言うと、真白は小さく目を伏せた。
「なら、顔がそうなるのもわかる」
その一言は、責めではなく理解だった。
理解だからこそ、胸へ残る。
◇
昼休み、窓際の空気は意外なほど明るかった。
たぶん、みんなあえてそうしているのだ。
打ち上げ当日に重くなりすぎたくないから。
まだ確定していないものに、先回りして空気を沈めたくないから。
すばるはいつもより少しだけ大きめに笑い、
日野はわざと気楽な話題を振り、
真白はそれに半分呆れながらも止めすぎない。
紬希も静かなまま、前より自然にその流れへ混ざっている。
その全部が、湊人には少しずつありがたかった。
「でさ」
すばるが言う。
「もし今日ほんとに行けたら、最初の乾杯の時どうする?」
「どうするって何」
真白が聞く。
「文化祭お疲れ、で普通じゃない?」
「いやでも、何か一言くらい欲しくない?」
「アンタが言えばいいでしょ」
「私が言うと軽くなる」
「いつも軽い」
日野が笑う。
そこへ、紬希が小さく言った。
「でも、誰か一人がちゃんと“お疲れさま”って言うのは、いいと思う」
「ほらー」
すばるが乗る。
「倉科さんはわかってる」
「わかってるって何」
真白が呆れる。
でもその口元は少しだけ緩んでいた。
そのやりとりの中で、湊人は思う。
来たい。
本当に。
こういうどうでもいい話をして、乾杯の一言を誰が言うかで少し笑って、それで終わるような普通の放課後へ、今日はちゃんと行きたい。
だが、その願いが強くなるほど、スマホの存在が嫌になる。
ポケットの中にあるだけで、そこに別の金曜が一緒に入っている気がするからだ。
「久瀬くん」
すばるが不意に呼ぶ。
「はい」
「もし来られたら」
そこで少しだけ笑った。
「最初の一言やってよ」
思わぬ方向から来た。
「え」
日野が面白そうに言う。
「たしかに似合いそう」
「似合う」
真白まで頷く。
紬希も小さく笑って、「うん」と言った。
四人分の視線が向く。
その視線の中に、期待がある。
軽くて、でもちゃんとした期待が。
湊人は少しだけ息を止めた。
「……来られたら、考えます」
それが精一杯だった。
「ほら」
真白が言う。
「その答え方、かなり本気」
「どうしてですか」
「来られない人の逃がし方じゃないから」
かなり鋭い。
そして、かなりやさしい。
すばるは「じゃあ期待しとく」と笑ったが、その笑いも前ほど無邪気ではない。
紬希は何も言わないまま、でもかなりうれしそうに見えた。
日野だけが「じゃあ俺、乾杯のあとで食う係やる」と適当なことを言って、空気を軽くした。
ありがたい。
ほんとうに。
でも、そのありがたさが今日はずっと胸を締めつけていた。
◇
五限目の終わり、スマホがまた震えた。
今度はかなり嫌な予感がした。
休み時間になるのも待てず、机の下でちらりと画面を見る。
AstraLink管理:夕方の回線確認、十七時開始に前倒し。参加必須。
その一文だけで、頭の中が一気に冷える。
十七時。
集合は十八時。
場所次第では、確認後に合流できる可能性はある。
だが家側の相馬からは、十七時半以降に待機可能な状態でいろと言われている。
つまり、運がよくてギリギリ。
悪ければ完全にアウト。
そしてたぶん、今日は運が悪い。
「久瀬」
真白の小さな声。
「……はい」
「来た?」
その聞き方に、もうごまかせないと思う。
「ええ」
「悪い方?」
日野が振り返る。
すばるも、紬希も、こちらを見ている。
湊人は一度だけ呼吸を整えた。
ここでまた曖昧にすると、たぶん一番だめだ。
「……かなり」
正直に言う。
「かなり、悪い方です」
その一言で、窓際の空気が今度こそ静まった。
すばるが何か言おうとして、やめる。
紬希は少しだけ目を伏せる。
真白は視線を逸らさない。
日野だけが、困ったように頭をかいた。
「そっか」
日野が言う。
「まだゼロでは?」
紬希が小さく聞く。
「はい」
湊人は頷く。
「ただ、かなり厳しい」
「……じゃあ」
すばるがようやく声を出す。
「放課後の時点で、わかる?」
「たぶん」
「そっか」
彼女はそれだけ言って、少しだけ笑った。
「じゃあ、そこでだね」
その笑い方が、少し痛い。
期待しすぎないようにしている人の笑い方だった。
真白が静かに言う。
「今日は、最初からそういう日だと思っておく」
「はい」
「でも」
そこで彼女は少しだけ言葉を切る。
「来られるなら、来て」
短い。
けれど、その一言だけで十分だった。
紬希も小さく続ける。
「うん」
それ以上強くは言わない。
でも、待っていることだけはちゃんと伝わる。
すばるは「今それ言うと重くなるかなって思ったけど、やっぱ言う」と前置きしてから、少しだけ肩をすくめた。
「来たらうれしい」
日野は最後に、いつもの軽さで笑う。
「まあ、無理なら無理であとでメシの写真送るわ」
その言い方がありがたくて、湊人は少しだけ救われる。
来てほしい。
でも無理なら責めない。
その境目で、みんなが自分なりに待ってくれている。
それが、金曜の放課後を前にした湊人にはあまりにも重かった。
◇
六限目が終わる。
帰り支度の音が教室に広がる。
湊人はスマホを見た。
相馬から新しい通知が入っている。
本日、直行の可能性が高まりました。十七時十五分以降、即応できるように。
もう、かなり厳しい。
それはわかる。
でも、ゼロと決めるには、まだ少しだけ隙間が残っている。
その隙間が一番残酷だった。
行けるかもしれない。
でも行けないかもしれない。
来たい。
でも、向こうも外せない。
その全部を抱えたまま、湊人は立ち上がる。
窓際の四人も、自然とこちらを見る。
言わなければならない。
ここで。
今。
「……今日は」
声が少しだけ低くなる。
「厳しいかもしれません」
それが、放課後の最初の一言だった。
金曜の放課後は、来たい人ほど追い詰められる。
たぶん今の自分は、まさにその真ん中に立っているのだろう。




