第46話 オタクは“期待しない”と言いながら、いちばん楽しみにしてしまう
鳴海すばるは、期待しすぎないようにしようと決めるのが、わりと下手だ。
もっと正確に言うなら、決めること自体はできる。
でも、その決意を守りきるのがあまり上手くない。
明日の金曜打ち上げについても、そうだった。
期待しない。
来られたらラッキーくらいに思う。
来られなくても仕方ない。
最近はいろいろあるっぽいし、そこを無理に明るく踏みにじるのは違う。
そこまではわかる。
頭ではかなりわかる。
でも、心とオタクの神経が、そういう賢い距離感を守ってくれない。
久瀬湊人が「行くつもりでいます」と言った声とか、
文化祭の日に聞いてしまった数秒の温度とか、
“ちゃんと来たいのに、来られるか分からない人”の気配とか。
そういうものを一度拾ってしまったあとでは、
“別に期待してませんけど?”みたいな顔をするのは、かなり難しい。
「……いや、しないけど」
朝、自室の鏡の前で前髪を軽く整えながら、すばるは小さく呟いた。
「しないけど、来たらうれしいのはしょうがなくない?」
誰に向けた言い訳かは、自分でもよくわからない。
でも、それくらいにはもう、明日のことを意識してしまっていた。
◇
教室へ入ると、文化祭明けと打ち上げ前が混ざった独特の浮つきが、まだそこにあった。
日野が前の席でスマホを見ながら「級長、まだ店の最終返事来てないっぽい」と言っている。
真白は「朝からその話しかしないの」と呆れているが、完全に無関心という顔でもない。
紬希は少し静かで、でも今日は昨日より表情がやわらかい。
そして、久瀬もいる。
いる。
それだけで少しだけ安心してしまう自分が、すばるはやっぱり面倒だった。
「おはよー」
明るめに声を出す。
「おはようございます」
返ってきた声は、今日も落ち着いている。
そのたった一言に、また耳が反応しかけて、すばるは心の中で全力でブレーキを踏んだ。
だめだ。
朝一でそこへ行くな。
今日はそっちじゃない。
今日は、打ち上げの方を考える日だ。
「鳴海」
真白が横から言う。
「なにその顔」
「いや、最近それ好きすぎない?」
「アンタがわかりやすすぎる」
「出た」
日野が笑う。
「今日の鳴海はまた考えすぎ顔か?」
「……ちょっとだけ」
素直に認めると、真白が少しだけ意外そうな顔をした。
「そこ認めるんだ」
「学んだから」
「何を」
「否定してもバレるってことを」
「えらい」
日野が言う。
「褒め方が雑」
すばるが返すと、少しだけ笑いが起きる。
よかった、とすばるは思う。
こういうどうでもいいやりとりが、今はかなりありがたい。
文化祭の非常階段以降、窓際の空気は前より少しだけ慎重になった。
でも完全に壊れてはいない。
こうして笑えるなら、まだ大丈夫だと思える。
その大丈夫を、できれば明日も続けたい。
そしてその“続いてほしい”の中に、ちゃんと久瀬がいることを、自分はもう否定できなかった。
◇
一限目が終わったあと、すばるは机へ頬杖をつきながら、教室のざわめきをぼんやり聞いていた。
明日のことを考えないようにしようとすると、逆に考えてしまう。
たぶんこういうのは、意識すればするほどだめになるやつだ。
来られるかな。
でも、もしまた直前でだめになったら。
いや、そうなっても仕方ないって頭ではわかってる。
でも、やっぱりちょっとは来てほしい。
その繰り返し。
「……はあ」
小さく息を吐くと、前の席から日野が振り返った。
「疲れてる?」
「疲れてるっていうか」
「考えてる?」
真白が横から言う。
なんでこの人たちは最近こうも的確なんだろう、とすばるは思う。
「まあ、ちょっと」
「打ち上げ?」
日野が聞く。
「……まあ、半分くらい」
「半分ってことは残り半分もあるんだ」
「残り半分はオタクの面倒」
「何それ」
日野が笑う。
「いつものこと」
真白がさらっと言う。
「ひど」
でも、たしかにそうなのだ。
打ち上げを楽しみにしている自分と、
久瀬が来られるかどうかを気にしている自分と、
それに妙な引っかかりを覚えている“推しを知ってる耳”と、
全部がごちゃごちゃしている。
そのぐちゃぐちゃを、いちいち全部説明するのは面倒だった。
◇
昼休み、窓際。
今日の空気はいつもより少しだけ明るかった。
たぶん明日が近いからだろう。
級長からまだ最終の店確定は来ていないが、クラスの中ではもうかなり“金曜夕方で決まりっぽい”雰囲気になっている。
「で、もしさ」
すばるがパンの袋を開けながら言う。
「明日ほんとに行けたら、何頼む?」
「早い」
真白が言う。
「まだ確定してない」
「でも考えるの楽しくない?」
「楽しいけど」
日野が笑う。
「鳴海、そういうの好きそうだもんな」
「好きだよ」
すばるはすぐ頷く。
「前日からワクワクするタイプだから」
「わかる」
紬希が小さく言った。
「前日が一番楽しい時、ある」
「あるよね!?」
すばるが嬉しそうに身を乗り出す。
「そこ!」
「でも、当日もちゃんと楽しい方がいい」
紬希が少しだけ笑う。
「それはそう」
日野が頷く。
その流れの中で、すばるは自然なふりをして久瀬を見る。
今なら、かなり自然な問いとして混ぜ込める。
「久瀬くんは?」
「何がでしょう」
「明日、もし普通に行けたら」
そこまで言った瞬間、自分で気づく。
やっぱり“行けたら”が先に出るのだ。
“行くなら”ではなく。
その時点で、自分の中にどれだけ慎重さと期待が混ざっているかがわかる。
久瀬は少しだけ目を細めた。
たぶん、その言い方の奥にあるものも多少は伝わったのだろう。
「……食べやすいものがよいかと」
返ってきたのは、いかにも彼らしい答えだった。
「何それ」
すばるが笑う。
「めちゃくちゃ現実的」
「ええ。食事の場なので」
「そうだけど」
「でも、わかる」
真白が言う。
「変なところで冒険しない方がいい」
「真白も意外とそういうの現実派だよね」
すばるが言う。
「鳴海と一緒にしないで」
「ひどくない?」
でもその会話のあいだ、すばるの中ではずっと別のところが動いていた。
もし普通に行けたら。
なんでそんな言い方をしたんだろう。
でもたぶん、それが本音だった。
来ると決めつけたくない。
でも、来られる可能性があるなら、その場合の話をしたい。
それは期待しないふりをしながら、かなり楽しみにしている人の聞き方だ。
自分で自分に呆れる。
でも、どうしようもない。
だってもう、もし来たら絶対楽しいと思っているのだから。
◇
放課後、級長からようやく最終連絡が流れた。
明日、金曜十八時集合で確定。
クラスのグループが少しだけざわつく。
店名、場所、だいたいの予算、来られない人は事前連絡、そんな情報が流れていく。
「来た来た」
すばるがスマホを見ながら言う。
「ほんとに決まった」
「じゃあ明日か」
日野も頷く。
真白は「ようやく」と小さく息を吐いた。
紬希は何も言わないが、少しだけほっとした顔をしている。
そして、やっぱり一番気になるのは最後だ。
その空気をみんなが隠しきれないのが、最近の窓際らしかった。
「……久瀬くん」
すばるが呼ぶ。
「はい」
「明日」
言いかけて、少しだけ迷う。
でも、聞かなければもっと落ち着かない。
「大丈夫そう?」
かなり本音だった。
しかも、かなり弱い聞き方だ。
“来るよね?”ではない。
“来られる?”でもない。
ただ、“大丈夫そう?”。
そこに、期待も不安もかなり混ざっている。
久瀬はスマホを見て、それから少しだけ目を伏せた。
「……まだ」
その一言だけで、窓際の空気がわずかに静まる。
「まだ、完全には」
言葉を選んでいるのが分かる。
でも同時に、前みたいな嘘っぽい曖昧さではない。
ちゃんと苦しみながら正直に寄せている感じだ。
「そっか」
すばるは小さく頷いた。
ここで落ち込みすぎるのも違う。
でも、大丈夫大丈夫と軽く流すのも違う。
「でも」
久瀬が続ける。
「行くつもりは、変わっていません」
その一言に、すばるは胸の奥が少し熱くなるのを感じる。
だめだ。
そういうの、ほんとだめだ。
期待しないって思ってたのに、その“変わっていません”みたいな言い方をされると、一気に期待が戻ってくる。
紬希も少しだけ息を吐いた。
真白は「そう」とだけ言ったが、その一語の中に含まれる安堵はかなり大きかった。
日野だけが、いつも通りの軽さで言う。
「じゃあまあ、来られるなら来い」
「言い方」
すばるが笑う。
「でも日野っぽい」
紬希も小さく笑った。
そこでやっと、窓際の空気が少しだけほぐれる。
「……ねえ」
すばるが言う。
「なに」
真白が聞く。
「私、期待しないってたぶん無理だわ」
一瞬、全員が少しだけ止まる。
言ってから、自分でも少しだけ恥ずかしくなる。
「いや、ほら」
慌てて続ける。
「明日楽しみにしてるって意味で!」
「言い訳が雑」
真白が言う。
「でもまあ」
日野が笑う。
「それはみんなそうじゃね?」
紬希もほんの少しだけ頷いた。
「……うん」
その“うん”に、かなりいろんなものが詰まっていた。
来てくれたらうれしい。
でも強くは言えない。
それでも楽しみにしてしまう。
たぶん今の窓際の全員が、少しずつ同じところにいる。
◇
その夜、自室のベッドに寝転がりながら、すばるは何度も昼の会話を思い出していた。
期待しないってたぶん無理。
あれは、ほとんど無意識に出た本音だった。
もし完全に興味がなければ、あんな言い方はしない。
もし“推し疑惑”だけに囚われているなら、もっと別のところで悩んでいたはずだ。
でも今の自分は違う。
本人かどうかはまだ決めつけられない。
そこは変わらない。
けれど、それとは別に、久瀬湊人が明日ちゃんと来たらうれしいと思ってしまっている。
しかもかなり。
「……もうだいぶ好きじゃん」
ぽつりと呟く。
言葉にした瞬間、自分で少しだけ固まる。
でも、すぐに否定もできない。
推しかもしれないから、とか。
声が似てるから、とか。
そういう理屈を一旦全部脇へ置いても、今の自分は“クラスの久瀬湊人”が来たらうれしいし、来られなかったらちょっと寂しい。
それはたぶん、かなり普通の感情だ。
だからこそ、かえって厄介だった。
スマホにクラスのグループ通知が入る。
級長から「人数最終確認、明日昼まで」との追加連絡。
その下に日野が「了解」と返し、真白がスタンプを送り、紬希が短く「わかりました」と打っている。
すばるはその画面を見ながら、小さく息を吐いた。
期待しない。
それはもう無理だ。
でも、決めつけないことだけは、まだ守りたい。
その二つの矛盾を抱えたまま、明日を待つしかないのだろう。
オタクは“期待しない”と言いながら、いちばん楽しみにしてしまう。
そして、その楽しみの中に恋が混ざっていることにも、最後に気づくのだ。




